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種類の異なる原爆

20160807 広島原爆

毎年この時期にアップしなければならないと勝手に思っているのが、この「種類の異なる原爆」です。

広島に原爆が投下された8月6日、
長崎に落された8月9日、
終戦のの8月15日、
これに通州事件(7月29日)を加えた4つの日は、日本人が絶対に忘れてはならない日だと思います。

なかでも広島と長崎への原爆投下は、その残虐性、大量殺戮性、無辜の市民に対する暴力行為のはなはだしさとして、人類史上、最悪の出来事として記憶されるべきものです。
広島だけで20万人の市民がお亡くなりになりました。
長崎では14万9000人の市民がお亡くなりになりました。
それも、ただお亡くなりになったというだけでなく、原爆の熱戦を浴びて、その何倍もの多くの人が、苦しみ続けてお亡くなりになりました。
しかもそれが、地震などの天然災害ではなくて、人為によって起こされた人的災害であったということは、本当に残念なことです。

広島と長崎に落された原爆の「種類」がそれぞれ違っていたという事実は、広島や長崎の慰霊祭でも、ほとんど語られることがなかったことです。
このことをねずブロにはじめに書いた7年前は、軍事をご専門にしている方からも「それは事実ですか?」とご質問をいただいたくらいです。
つまり、これもまた「消された歴史」のひとつであったということです。

8月6日に広島上空に投下された原爆の通称「リトルボーイ」は、「ウラン235型」原爆です。
8月9日に長崎に投下された通称「Fat Man」は、「プルトニウム型」原爆です。
そしてこの二つは、まったく種類の異なる原爆です。

違いというのは、ウラン型はプルトニウム型とくらべて威力は強いが、数が作れず値段が高くて量産しにくい、プルトニウム型は、破壊力はウラン型より落ちるけれど、値段が安く量産しやすいが、放射能が強くて取り扱いが難しいという難点があるといった技術的価格的な事柄ではありません。
2つの「種類が違っていた」という事実そのものに、たいへんに大きな意味があるのです。

米国で原爆開発のマンハッタン計画を担当した ロス・アラモス研究所は、広島、長崎への原爆投下のあと、次の公式見解を述べています。
******
「我々は、史上二度の『原爆実験』に成功した」
******

これは実に衝撃的な声明といえます。
「実験に成功した」のです。
あの二度にわたる原爆が、ただの「実験」だというのです。
そして「実験だからこそ」、広島と長崎には、それぞれ「別な種類の原爆が投下」されたのです。

その「実験」は、人の命(いのち)に対して行われたものです。
彼らは、民間人への人的被害の発生を承知で、「実験」をしたわけです。
けれどその「実験」によって、広島長崎合わせて約35万人の命が奪われているのです。
そのことの重さは、とてもじゃないけれど「実験」のひとことで片付けれる問題ではありません。

ではどうしてアメリカは、わざわざ種類の違う原爆で「実験」したのでしょうか。
最近の左巻きの学者さんや評論家さん、あるいは議員さんのなかには、
「二つの原爆投下は、軍国主義化し侵略国となった日本を懲らしめるためであった」と、臆面もなく主張する人がいます。
けれど、日本を懲らしめるための正義の雷(いかづち)ということと、「実験」という言葉には、あまりにも大きな落差があります。
35万人の命を奪う「実験」など、人道上あり得ないことだからです。

では、日本への原爆投下の本当の理由はなんだったのでしょうか。
これについて歴史学者のバーンスタインが、次のように述べています。
~~~~~~~~
日本への原爆投下は
「ソ連を威嚇すること」が根本理由であり、
ソ連の影響力が
日本、満州、支那、朝鮮に及ぶことを阻止するために、
いわばソ連に対する威嚇攻撃として、
日本に原爆を投下したのである。
~~~~~~~~

これもよく語られる話で、またバーンスタイン博士はたいへん立派な先生ですが、これも少しおかしな話です。
そのような意図をもって行われた原爆投下なら、「実験」という言葉と矛盾するからです。
対ソ威嚇という目的も、結果からみれば失敗しています。
なぜなら米国による広島への原爆投下の3日後には、ソ連は一方的に日ソ不可侵条約を破棄して、対日戦線に参加しているからです。
これではソ連への「威嚇」ではなく、ソ連への「刺激」です。

米国トルーマン大統領は、広島への原爆投下のあと、次の公式声明を出しました。
~~~~~~~~~
President Harry S.Truman Address to the Nation, 6 August 1945
広島への原子爆弾投下のトルーマン大統領声明
(1945年8月6日)

今から16時間前、米国の一航空機は日本陸軍の最重要基地である広島に1個の爆弾を投下した。
その爆弾は、TNT火薬2万トン以上の威力を持つものであった。
それは、戦争史上これまでに使用された爆弾の中で最も大型である英国の「グランド・スラム」の爆発力の2000倍を越えるものであった。

(原文)
Sixteen hours ago an American airplane dropped one bomb on Hiroshima, an important Japanese Army base. That bomb had more power than 20,000 tons of TNT. It had more than 2,000 times the blast power of the British “Grand Slam,” which is the largest bomb ever yet used in the history of warfare.
~~~~~~~~~

これまた不可思議でおかしな声明です。
広島を「日本の陸軍の最重要基地(=an important Japanese Army base)」と言っています。
しかし、原爆被害を受けた広島の市街地は、陸軍基地ではありません。
ただの市街地です。
そして広島で原爆によって亡くなられたのは、一般市民です。

戦時国際法は、一般市民の大量虐殺を「してはならない」と明確に規定しています。
すなわち、原爆投下は明らかな戦時国際法違反行為です。
米国だって馬鹿じゃありません。
広島が一般人の住むところであることくらい、承知しています。
にも関わらず、広島が「日本の陸軍の最重要基地」と公式に声明しています。
これはただの後講釈の自己正当化による強弁に他ならなりません。

終戦後の昭和20年9月に日本に訪れた、米国戦略爆撃調査団が書いた「最終報告書」という資料があります。
トルーマン大統領に提出された公式報告書であり、米国の公式史観のもととなるものです。
~~~~~~~~~~~~~
たとえ原爆が 投下されなかったとしても、
ソ連が参戦しなかったとしても、
本土上陸作戦が行われなくても、
日本は非常に高い確率で
九州上陸作戦の決行予定日である
昭和20年11月1日から
12月31日までの間に、
確実に降伏したであろう。

(U.S Strategic Bombing Surbey,Summary Report ( Pacific War ) ,1946、の26頁)
~~~~~~~~~~~~~

原爆を投下しなくても「日本は確実に降伏したであろう」と書いてあります。
実はここに原爆投下が「実験」として行われた重大な意味があります。

昭和20年6月に沖縄戦が終息しました。
この直後に、ブラッドレー米国統合参謀本部議長が提出した報告書には、次の一文があります。
この文書は、米国大統領宛に提出されたものです。
短文です。
*******
日本は既に事実上敗北しており、降伏を準備している。
*******

この時点で、日本はすでに制海権も制空権も失なってました。
陸軍も事実上、使える武器弾薬が乏しく、すでに戦える状態にありませんでした。
そしてそのことを米国の諜報網は、沖縄戦終結の時点で確実に掴んでいたのです。
つまり米国は、「あと少しすれば日本は間違いなく降伏する」と見極めていたのです。

もちろん日本国内には、それでも戦う、という意見はありました。
皇国の必勝を信じ、本土決戦となって尚、戦い続けようという意向もありました。
沖縄戦の頃には、多くの特攻隊員が出撃して米艦隊を沖縄に釘付けにしていました。
ですからこの時期には、米艦隊は特攻隊の攻撃を怖れて日本本土に近づくことができませんでした。

さりとて特攻を恐れてフィリピンあたりまで艦隊を後退させれば、米艦隊の後方の南方にいまだ残存する日本軍を活気づかせて反撃のチャンスを与えることになります。
ですから実は沖縄戦当時の米艦隊は沖縄の海で進むことも退くこともできずに、ただ特攻隊の餌食になっていたという側面があります。

こうして米艦隊が沖縄に釘付けにされている間に、当時の日本はジェット戦闘機の開発が完成に近づいていました。
ジェット戦闘機は、昭和25年に始まる朝鮮戦争で初めてソ連製のミグが使用されましたが、これが導入されると、それまで「超空の要塞」として覇王を誇っていた米軍のB29は、ただの無抵抗な空の的(まと)となり、第一線からの引退を余儀なくされることになりました。
高高度を飛ぶB29は、プロペラ型の戦闘機には覇者となっていましたが、B29よりもはるかに高い空から猛スピードで飛来するジェット戦闘機の前では、無抵抗で鈍足な、ただの上空の巨大な的でしかなかったのです。
そしてそのジェット戦闘機を、すでにこの時点の日本はほぼ開発を終えていました。

ジェット戦闘機が就航すれば、日本の空を制していたB29も、米海軍の当時の空母も、ただのマトになります。
つまり米軍は、日本近海における制空権と制海権を同時に失います。
そして原爆をすでに完成させていた日本は、これを米国領土の比較的人的災害の少ないエリアで爆発させ、米国を恐怖に陥れて一気に和平交渉を実現していく。
それが当時の日本軍の描いた絵でしたし、またそのために特攻隊の若者たちは若い命を散らせていました。

ちなみにこの時点で日本が用いるジェット戦闘機の燃料は、なんと松ヤニから精製したガソリンを使うことが予定されていたのだそうです。
まに日本おそるべしです。

マックス・フォン・シューラー先生によれば「アメリカ人はいまでも日本人を恐れている」そうですが、なるほどディズニー映画の『ベイマックス』でも、日本人の少年(Hiro Hamada)が、愛と高い技術力で強大な敵をやっつけています。
日本人の怖さを一番わかっているのは、実は日本人ではなくて、日本と真正面から戦った米国人であるのかもしれません。

ただ、本土決戦に関する上に述べた絵(作戦)は、実行すればなるほど大東亜戦争を日本の勝利に導いたかもしれないけれど、失敗に終わる可能性もゼロではありません。
失敗すれば、戦場は日本本土です。
この場合、戦争はおおいに長引きます。
しかし戦いが長引いた場合、その結果がどうなったかは、私たち日本人と人種的にDNAの近いベトナムがこれを証明しています。
ベトナム戦争は、15年の長きに及びましたが、結果はベトナムが勝利しました。
つまり、日本は戦争に勝ったかもしれないのです。

ただし、この場合、ベトナムにおいては、北と南、軍民合わせて814万人の死者行方不明者が出ています。
ベトナムの人口は約9千万人ですから、戦時中の日本とほぼおなじです。
つまり戦争が本土決戦となって長引けば、私たち日本人は、10人に1人の命が失われたかもしれないのです。

つまり沖縄戦当時の日米の置かれた情況は、
A)8百万人を超える死者を出しても戦い勝利するか
B)戦病傷死者の数を最小限に止めるか
という二者択一の情況になっていたのです。
みなさまなら、A案、B案、どちらを選択されるでしょうか。

昭和天皇の大御心は、B案でした。
だからこそ、日本はポツタム宣言を受け入れ、自主的に戦闘を終結させています。
それが8月15日です。

ここで間違えてはいけないのは、8月15日というのは、あくまで戦闘行為を終結させた日であるということです。
だから「終戦記念日」です。
戦争は、その後も続いています。
日本は連合国と交戦状態(戦時下)にあったからこそ、日本は占領されたのです。
占領は、戦争行為の一部です。
そして大東亜戦争が条約上で終わったのは、昭和27(1952)年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効の日です。
そして大東亜戦争の占領が完全に集結し、実態として戦争が終わるのは、日本から米軍基地がなくなったときです。
それが真に日本が独立を回復した日ということになります。
ただし、中共対策として、いまの日本から米軍基地が撤退することは、日本にとって危険です。

ちなみにこのサンフランシスコ講和条約は、昭和26年9月8日に調印が行われていますが、この調印の日に日本を代表して調印を行ったのは、当時内閣総理大臣だった吉田茂ですが、このときの吉田茂は、日本国内閣総理大臣として書名を行ったのではなく、全権大使として書名を行っています。

全権というのは、誰かからその全ての権限を委任された者のことを言います。
そして大東亜戦争を戦ったのは、大日本帝国であって、占領下の日本国ではありません。
ですから戦争終結のための講和条約も、当然のこととして大日本帝国憲法に基づく大日本帝国の統治権者である日本国天皇の名代として、吉田茂は全権を受けて調印式に臨んでいます。
つまり、日本国憲法が施行されていても、大日本帝国憲法は、ちゃんと生き続けていることになります。
あるいは別な解釈をするならば、日本には「憲法以上の存在」がある、ということです。
この2つ以外に、「全権」を解釈することはできません。

ちなみにこのサンフランシスコ講和条約の締結に際して、出席を要請されながら、出席を断った国が3つあります。
それがインド、ビルマ(現・ミャンマー)、ユーゴスラビアです。
理由は、ネール首相が明確に述べています。
3つあります。
(1) 講和して戦争を終結させる以上、日本にある外国軍は全て撤収すべきであること。
(2) 千島列島や樺太、澎湖諸島や台湾に関する領土主権の帰属先を明確にすべきこと。
(3) 沖縄や小笠原諸島を日本へ返還すべきこと。
です。

講和条約を締結する以上、領土問題に曖昧なことがあってはならないとした当時のネール首相、ビルマのシアヌーク殿下、ユーゴの大統領らは、戦後70年経った今、まさに中共の暗躍を許すことになっている現実を考えれば、きわめて先見の明に富んだ見解であったと思います。

また、サンフランシスコ講和会議には、会議に出席しながらも、調印を拒否した国があります。
それがソ連と、ポーランドとチェコスロバキア(当時)です。
ポーランドとチェコは、ソ連に強制されて調印しなかっただけのことですが、ではソ連がなぜ調印を拒んだかといえば、まさに北方領土等に関して、ソ連の意向が反映されなかったからです。

そして、サンフランシスコ講和条約には、ハナから招待されなかった国もあります。
それが中華民国です。
蒋介石率いる中華民国は、まさに日本と戦闘を繰り広げた政権ですが、この昭和27年の時点では、すでに大陸を追われ、台湾に亡命政権となっていました。
米国は中華民国を国家として承認していましたが、英国はこの時点ですでに中華人民共和国を支那の正当な政府として承認していましたから、米英の意見が整わず、結果、中華民国は招待されていません。

ついでに申し上げますと、このサンフランシスコ講和会議に対して中華人民共和国は、周恩来外相がなにかといちゃもんをつけていましたが、大東亜戦争当時、中華人民共和国は建国さえされておらず、また中共軍に正式な日本との戦闘行為さえもなく、連合国側の全ての参加国から、中共政権は完全無視されています。

そして、ついでのついでのオマケに申し上げると、このサンフランシスコ講和会議に、署名国として参加させろとうるさく言って回っていたのが韓国で、韓国は国をあげての運動の結果、一時的には署名国名簿に名を連ねるまで外交を成功させています。
ところが、世界には、常識があるものです。

韓国は、戦時中に「大韓民国臨時政府」を打ち立てて抗日闘争をしていたと主張しました(これはいまの韓国の国定歴史教科書にもそのように書いてあります)が、現実には「大韓民国臨時政府」なるものは、ただの私的団体(というよりも李承晩個人)であったにほかならず、「大韓民国臨時政府」を承認した国も世界中どこにも存在していません。
それに世界には亡命政府は数々あるけれど、「大韓民国臨時政府」の指揮下には、他の亡命政府にあるような「軍」も存在がありません。
あるはずもありません。
「大韓民国臨時政府」といっても、そもそも数名が上海で酒を飲みながらオダを上げただけのものだし、その数名の中で代表となっていた李承晩は、臨時政府の金を使い込んで上海にいられなくなって米国に亡命して執筆活動をしていますが、その時点(つまり大東亜戦争における日米交戦中)では、「大韓民国臨時政府」なるものの構成員は、李承晩代表兼執筆人ただひとりです。
ですから当然、軍などあるはずもないし、李承晩は米国内にいたし、「軍」がないから、当然、日本とも交戦していません。
交戦したのは、大東亜戦争終戦から5年経ってからで、しかも相手は武器を持たない自国民(韓国民)という、世界史上もあり得ない醜態ぶりです。
終戦の調印に呼ばれるわけがありません。

さて、なぜ日本に原爆が投下されたか、ですが、なるほど日本には、米軍に対する本土決戦による反撃の可能性がありました。
目論見通りにいけば、日本はもしかすると戦争に勝っていたかもしれません。
戦争というのは、それほど紙一重のものです。

ただし、沖縄戦終結後の米軍にしてみれば、この時点で日本には戦争継続能力が失われ、もはや日本には戦争遂行能力がなく、仮にあったとしても、それはあくまで本土迎撃の範囲を出ない、というものでした。
つまり言葉を変えて言えば、この時点で米国は、日本にいかなる非人道的なことをしても、日本から反撃される可能性は、皆無とみなされていました。

すくなく見積もっても、この時点で日本は、米国本土や、フィリピンなど米国の占領地域に対して攻撃や報復を行うだけの能力を持ち合わせていません。
そのことを米国はちゃんとわかっていました。

ここで「米国がなぜ二つの種類の異なる原爆を投下したのか」という疑問の点と点が繋がります。
つまり米国はこの時点で、「米国が日本に何をしても、絶対に日本から報復を受けるおそれがない」と踏んだから、日本に対して原爆投下「実験」をしたのです。

実は理由はただひとつなのです。
それは、
「その時点で、日本に何をしても、日本からの反撃や報復攻撃を受ける可能性が皆無だった」ということです。

日本に原爆が投下された以降、世界各地で、戦争はたくさん起こりました。
けれど、いずれの戦争においても核が使われたことはありません。
なぜなら相手国に核を打ち込めば、自国がその報復を受けるからです。

ところが日本には、原爆が投下されました。
理由は「実験」のためです。
なぜそれができたのか。
その時点で、「日本に反撃能力がなく、日本から報復される心配がまったくなかったから」です。
反撃される心配がないから、日本人は、実験材料としての「モルモット」にされたのです。

古来、モルモットは、さまざまな動物実験に用いられています。
なぜモルモットが使われるのかといえば、答えは簡単です。
モルモットが人間を襲う確率が100%ないからです。
モルモットは、過ちを犯したから実験材料に使われるのではありません。
人間の都合で実験材料にされているのです。
なぜなら、モルモットが人間に反撃する可能性が皆無だからです。

広島の平和記念公園には、「安らかにお眠り下さい。過ちは二度と繰り返しませんから」と刻まれた石碑があります。
広島に原爆が投下され、長崎にも投下され、35万人もの犠牲者を出した日本の、では、いったい何が「過ち」だったのか、そのことを碑文は書いていません。

けれど、実験に使われたモルモットが、
「もう過ちは繰り返しません。わたしたちは二度と実験しません」と言ったところで、実験が終わることはありません。
モルモットは、人間の「都合」で実験材料に使われているだけだからです。
同様に日本は、米国の「都合」で実験材料にされたのです。
反撃の心配がないからです。

もうひとつ大切なことを補記しておきます。

広島、長崎に原爆が投下される前に、日本は、すでに原爆の開発を終えていました。
開発途上だったという人もいます。
そうではなく完成段階にあったという説もあります。
はっきりしていることは、その原爆(これを日本では新型爆弾と呼びました)は、すでに使用できる段階にまで至っていたという事実です。

当時、軍の上層部は、この新型爆弾をもって米国に乾坤一擲の大勝負を挑みたいと昭和天皇に奏上しました。
これは記録に残っています。
けれど昭和天皇は、この上奏を却下しました。

そのとき昭和天皇は、次のようにおおせであったそうです。
=========
その新型爆弾によって、
たとえ我が国の戦況が有利になることがあったとしても、
そのために、
相互が新型爆弾の投下合戦にいたり、
結果、何百万もの無辜の民が死ぬようなことになるとしたら、
私はご先祖に申し訳がたたない。

=========

陛下はそのように述べられ、原爆の製造の禁止を、現下に却下しただけでなく、その開発の中止までをも命じられています。

そしてそのような事実があったからこそ、日本は、広島、長崎に原爆が投下されたとき、それがすぐに新型爆弾(原子爆弾)だとすぐにわかったのです。
日本は、原爆後、すぐにスイスを通じて米国政府に抗議文を出しています。
その抗議文です。

~~~~~~~~~
【米機の新型爆弾による攻撃に対する抗議文】

今月6日、米国航空機は、広島市の市街地区に対し新型爆弾を投下し、瞬時にして多数の市民を殺傷し同市の大半を潰滅させました。
広島市は、何ら特殊の軍事的防衛機能や、そのための施設を施していない普通の一地方都市です。
同市全体を、ひとつの軍事目標にするような性質を持つ町ではありません。

本件爆撃に関する声明において、米国トルーマン大統領は、「われらは船渠(せんきょ)工場および交通施設を破壊した」と言っています。
しかしこの爆弾は、落下傘を付けて投下され、空中で炸裂し、極めて広い範囲への破壊的効力を及ぼすものです。

つまり、この爆弾で、この投下方法を用いるとき、攻撃の効果を右のような特定目標に限定することは、物理的に全然不可能なことは明白です。
そして本件爆弾が、どのような性能を持つものであるかは、米国側は、すでに承知しているものです。

実際の被害状況は、広範囲にわたって交戦者、非交戦者の別なく、男女老幼を問わず、すべて爆風および幅射熱によって無差別に殺傷されました。
その被害範囲は広く、かつ甚大であるだけでなく、個々の傷害状況を見ても、「惨虐」なるものです。

およそ交戦者は、害敵手段の選択について、無制限の権利を有するものではありません。
不必要の苦痛を与えるような兵器、投射物その他を使用してはならないことは、戦時国際法の根本原則です。
そのことは、戦時国際法であるハーグ陸戦条約規則第22条、及び第23条(ホ)号に明定されています。

米国政府はこのたびの世界大戦勃発以来、再三にわたって、
「毒ガスその他の非人道的戦争方法の使用は文明社会の世論によって不法であり、相手国が先に使用しない限り、これを使用することはない」と声明しています。

しかし、米国が今回使用した本件爆弾は、その性能の無差別かつ惨虐性において、従来かかる性能を有するが故に使用を禁止せられをる毒ガスその他の兵器よりも、はるかに凌駕するものです。

米国は国際法および人道の根本原則を無視して、すでに広範囲にわたって日本の大都市に対して、無差別爆撃を実施しています。
多数の老幼婦女子を殺傷しています。
神社や仏閣、学校や病院、一般の民家などを倒壊または焼失させています。

そしてさらにいま、新奇にして、かつ従来のいかなる兵器、投射物とも比べ物にならない無差別性、惨虐性をもつ本件爆弾を使用したのです。
これは、人類文化に対する新たな罪悪です。

日本政府は、ここに自からの名において、かつまた、全人類、および文明の名において、米国政府を糾弾します。
そして即時、かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求します。

昭和20年8月11日

【英文】
PUBLIC INTERNATIONAL LAW – ATOMIC BOMBING OF HIROSHIMA AND NAGASAKI WAS AN ILLEGAL ACT IN VIOLATION OF INTERNATIONAL LAW.

The Japanese Government presented a letter of protest as stated below, to the Government of the United States through the Government of Switzerland on August 10, 1945.

August 10, 1945

A New-Type, Cruel Bomb Ignoring International law; Imperial Govern-ment Protest to the Government of the United States.
With regard to the attack by a new-type bomb on the city of Hiroshima by a B-29 bomber on the 6th inst. the Imperial Government filed the following protest on the 10th inst. to the Government of the United States through the Government of Switzerland, and gave instructions to the Japanese Minister to Switzerland, Kase, to make the explanation of explanation of the same effect to the Inter-national Committee of Red Cross.

Protest against the Attack of a New-Type Bomb by American Airplane:

On the 6th of this month, an airplane of the United States dropped a new-type bomb on the urban district of the city of Hiroshima, and it killed and wounded a large number of the citizens and destroyed the bulk of the city. The city of Hiroshima is an crdinary local city which is not provided with any military defensive preparations or establishments, and the whole city has not a character of a military objective. In the statement on the aerial bom-bardment in this case, the United States President “Truman” asserts that they will destroy docks, factories and transport facilities.
However, since the bomb in this case, dropped by a parachute, explodes in the air and extends the destructive effect to quite a wide sphere, it is clear to be quite impossible in technique to limit the effect of attack thereby to such specific objectives as mentioned above; and the above efficiency of the bomb in this case is already known to the United States. In the light of the actual state of damage, the damaged district covers a wide area, and those who were in the district were all killed indiscriminately by bomb-shell blast and radiant heat without dis-tinction of combatant or non-combatant or of age or sex. The damaged sphere is general and immense, and judging from the most cruel one that ever existed. It is a fundamental principle of international law in time of war that a belligerent has not an unlimited right in chosing the means of injuring the enemy, and should not use such weapons, projectiles, and other material as cause unnecessary pain; and these are each expressly stipulated in the annex of the Convention respecting the Laws and Customs of War on Land and artices 22 and 23(e) of the Regulations respecting the Laws and Customs of War on Land. Since the beginning of the present World War, the Government of the United States has declared repeatedly that the use of poison or other inhumane methods of warfare has been regarded as illegal by the pubic opin-ion in civilized countries, and that the United States would not use these methods of warfare unless the other countries used these first. However, the bomb in this case, which the United States used this time, exceeds by far the indiscriminate and cruel character of efficiency, the poison and other weapons the use of which has been prohibited hitherto because of such an efficiency. Disregarding a fundamental principle of international law and humanity, the United States has already made indiscriminate aerial bombardments on cities of the Empire in very wide areas, and it has already killed and injured a large number of old people, children, and women and collapsed or burned down shrines, temples, schools, hospital and ordinary private houses. Also, the United States has used the new bomb in this case which has indiscriminate and cruel character beyond comparison with all weapons and projectile of the past. This is a new offence against the civilization of mankind. The Imperial Government impeaches the Government of the United States in its own name and the name of all mankind and of civilization, and demands strongly that the Government of the United States give up the use of such an inhumane weapon instantly.

Note: Japan Branch of the International Law Association, Japanese Annual of International Law, 8, pp.251-2. (Tokyo: 1964)
~~~~~~~~~~~~~~~

日本国政府は、この抗議文で、原爆を「非人道的兵器」と呼び、その使用を米国政府に「放棄せよ」とまで言っています。
科学技術としての開発はともかく、それを兵器として使用することは、人道上許されないと明確に述べています。これが日本です。

原爆を投下によって無差別大量殺人をしていながら、大統領声明で「広島は軍事基地だ」と強弁した米国政府、それが自国の原爆開発をむしろ積極的に放棄した日本国政府と、理はどちらにあるのでしょうか。

亡くなられた広島や長崎の一般市民が「過ち」をおかしたわけではないことは、疑いのない事実です。
では、日本という国家が、過ちを犯したのでしょうか。何が日本の「過ち」だったのでしょうか。
戦争をしたことでしょうか。
その戦争によって、東南アジアはもとより、世界中の植民地となっていた民族が、国家を築き、独立を勝ち得ています。

もし大東亜戦争がなかったら、500年続いた欧米列強による有色人種への植民地支配は、21世紀となった今日でも、なお続いていたことでしょう。
世界でただ一国、たったひとりになっても、正義のためには武器を持って戦う。その武士道の国が、世界の有色民族を、独立へと導いています。

そしてその日本は、戦争の末期、敗色が濃くなった厳しい状況下にあっても、なお、自ら開発した原爆を製造中止にし、その使用をやめています。

一方、同時期に原爆の開発をしていた米国は、報復のおそれのない日本に対し、「実験」と称して広島長崎に原爆を投下しました。
人類史上、「過ち」を犯したのは、果たして誰なのでしょうか。

日本はなぜ実験に使われたのか。
その答えは、「日本に報復能力がなかったから」です。

私たちは、そこから大切なことを学ぶ必要があると思います。
それは、正義には常に「報復能力」が必要だ、ということです。
「報復能力」がなければ、人の命も道徳も正義も、すべて踏みにじられてしまう。それが世界の現実だということです。

もうひとつたいせつなことは、昭和天皇が、世界が核競争になることを未然に防ぐため、技術レベルでは原爆を開発することができ、それを米国に撃ち込むことさえできたにもかかわらず、それを人類のためにと、却下されたということです。

このことは、終戦の詔勅にも明確に述べられています。
========
敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ

(口語訳)
敵国は新たに残虐なる原子爆弾を使用し、いくども罪なき民を殺傷し、その惨害の及ぶ範囲は、まことにはかりしれない。
この上、なお交戦を続けるであろうか。
ついには、わが日本民族の滅亡をも招きかねず、さらには人類文明そのものを破滅させるにちがいない。
そのようになったならば、朕は何をもって億兆の国民と子孫を保てばよいか。
皇祖神・歴代天皇・皇室の神霊にあやまればよいか。
========

世界中、どこの国でも、すべてに優先するのが国益です。
どの国も、自国の利益のためだけに思考し行動します。
けれど、昭和天皇は、「人類文明そのもの」と述べられています。
人類史上、人類の福祉と幸福のために、身を切る覚悟とその実行をしてきたのは、昭和天皇のご意思です。
私たち日本人はそういう国の民です。

どこかの国のように、いつまでも恨みを忘れないなどというのは論外です。
決して良いこととは思わない。
むしろ未来志向でいくべきです。

歴史は、良いとか悪いとか、批判するものではありません。
そこで思考が停止するとろくなことになりません。
実際に起きた事実は事実です。

そのことをきちんと知った上で、二度と同じ目に遭わないように備える。
そのために必要なことは、なによりも自国の報復能力をどこまでも確保しぬくという国家的決意です。

いかなる国の民であれ、一般の民間人が大量に殺戮されるようなことは、これからの人類史において、絶対にあってはならないことです。
そうであるならば、私たち日本人は、実際に被爆した国の民として、まさに世界が二度と同じ過ちをしないように、日本国として、国の内外で最大限の努力をし続けることが大事なのではないでしょうか。

広島でも長崎でも、亡くなられた方々の御霊は、自分たちが殺されたから復讐してほしいなどと、誰も望んでいないと思います。
むしろ、「二度と俺たちと同じ目に遭わないようにしてくれよ。そのために思考停止などにならず、むしろ積極的に必要な努力をしれくれよ」と望んでおいでなのだと思います。

最後にひとつ、大切なことを書き留めておきたいと思います。

日本は、かつて米国と戦いました。
英仏蘭とも戦いました。
英仏蘭には勝利しましたが、最後に米国との戦争に敗れました。

けれど、かつて力の限りを尽くして戦った日米は、その後、英仏蘭も含めて東西冷戦を一緒になって闘いぬきました。
そして冷戦に勝利しました。

世界大戦といえば、日本人の感覚では、第一次、第二次の世界大戦がそれにあたり、これからもしかしたら第三次世界大戦が・・・などと思い込んでいる人は多いようです。
けれど、第三次世界大戦は、すでに起こり、そして終結しています。
それが「東西冷戦」です。

原爆ができてから、いわゆるドンパチは局地戦では行われても、大国同士の大決戦のようなものは、最早行われません。
このことは、戦中に石原莞爾が「最終戦争論」ですでに喝破していることです。

核を用いれば、核によって報復される。
そのことによって、戦争は「冷戦」のカタチをとらざるを得なくなりまりした。
こうしてはじまったのが、昭和20(1945)年のポーランドやベルリン問題に端を発する「東西冷戦」です。
この「冷戦」は、局地戦としての朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争や、ソ連や中共国内での数千万から億単位の粛清と称する大量虐殺を招きながら、なんと昭和64(1989)年まで、まる44年間も続いています。
そしてこの「東西冷戦」によって亡くなられた方の数は、第二次世界大戦による死者行方不明者の総数をはるかに上回る大規模な死傷者を出しているのです。

日本は、米英仏蘭等とともに、この東西冷戦を戦いました。
そして日本の技術力、経済力、そして誠実さは、見事、この東西冷戦を勝利へと導き、ソ連を崩壊させ、西側陣営の勝利へと導いています。
かつて、敵同士として戦った日米英仏欄は、ともに冷戦を戦い、勝利した戦勝国となったのです。

そして冷戦時における世界の敵であった共産主義は、いま、世界ではアジアにのみ残存しています。
世界はいま、共産主義からの自由と、共産主義の撲滅のための最終決戦に入ろうとしています。
日本も米英蘭仏も、いつまでも第二次世界大戦時の世界秩序である連合国(国連=United Nations)に縛られていることはありません。

世界は、新しい世界秩序を得ようと、すでに動き始めているのです。

6月5日から7日にかけてはミッドウエー海戦が行なわれた日

山口多聞中将
山口多聞中将

6月5日から7日にかけては、ミッドウエー海戦が行なわれた日です。
昭和17(1942)年のことです。

そこで今日は、ミッドウエー海戦にちなんで、この海戦でお亡くなりになった山口多聞(やまぐちたもん)中将のことその他を書いてみたいと思います。
山口多聞中将は、旧日本海軍でも「提督の中の提督」として、世界中のファンを魅了している人物です。

生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子です。れっきとした武家の家柄です。
多聞というのは、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名されています。

山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領でしたが、幕末時の藩主は松平家で、山口家は出雲松平家の家臣でした。

この出雲松平家というのは、江戸中期以降、全国の大名が年貢米に頼って藩の財政をひっ迫させた中で、唯一といっていいほど豊かだった藩でもあります。
なぜ豊かだったかというと、実は、タタラによる製鉄事業を藩の産業として育成し、同時に藩の財政を徹底的に改革していたのです。
おかげで寛政年間には八万両もの蓄財をしています。
つまり、非常に合理性を尊ぶ気風があった藩であったというわけです。

この出雲松平藩の合理主義は、幕末にも活かされています。
出雲松平藩は、徳川家の親藩です。ところがはやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の中立、独立を保ったのです。
こうした合理性、客観性を尊ぶ家風は、山口多聞の海軍兵学校生活で、さらに磨きがかけられました。

彼はいまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。
入学時の成績は、150人中21番です。
卒業時の成績は、144名中2番です。
同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎がいます。

旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
卒業時の成績が生涯ついてまわります。
戦後は、このことによる弊害ばかりが強調されていますが、当時の成績順というのは、もちろん単に学業の成績が良ければ事足りるというものではありません。
なにせ、ひとりの生徒に、教師が4人も5人もついて、徹底的に鍛え上げるというのが当時の兵学校です。
すべてを見極めた上で、序列が決められるのです。
ただガリ勉して学科試験の成績が良くなれば上位というものではありません。
栴檀は双葉より芳し。
その栴檀を、双葉から徹底的に鍛え上げていたからこそ、成績順が大事なものとして扱われたのです。

昨今では、日教組が平等教育をうたい、成績の公表すらしない学校が増えていますが、はき違えもいいとこです。
いいものはいい。悪いものはわるい。
能力には上下があるのです。
人として対等であるということと、能力の差異は、まったく別な議論です。
とくに軍隊は、実戦において無能な指揮官が上に立てば、部下は全滅します。
「誰もが平等」というわけにはいかないのです。
これは企業におけるビジネス戦争でも同じです。

日教組の「誰もが平等」なる思想の子供たちへの強要は、教育の名を借りて役立たずの社会人を育成している、それだけで反社会的行為です。

山口多聞は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属しました。
もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦でした。
そして軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向します。

船舶や陸戦は、水平運動です。
潜水艦は水平運動に垂直運動が加わります。
つまり動きが上下左右の三次元行動です。
潜水艦の専門であった山口多聞にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすい媒体であったのです。

山口多聞は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らしました。
彼は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしています。
ちなみに山本五十六はハーバート大学で学んでいます。
そして両者とも、駐米武官を経験した国際派です。
またたいへんな愛妻家、子煩悩家としても知られています。

もともと合理主義の家系に育った山口多聞が、海軍兵学校でその合理主義にさらに磨きをかけ、そして駐米武官として米国の大学で学んだのです。
その合理主義的頭脳に、いっそうの磨きがかかったであろうことは、容易に想像がつきます。

その山口多聞が、駐米武官として最も関心を抱いたのが、日米の国力の違いだったそうです。
なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。
日本は石油消費量の90%を輸入に頼り、しかもそのうちの70%を米国から輸入しています。
石油の備蓄量は、聯合艦隊の2年分だけです。
米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということです。
戦艦を建造するための鉄鋼産出量は、米国は日本の13倍です。

日本は資源輸入を米国に頼っていたのです。
その日本が、米国との関係を悪化させるということは、日本は「資源を失う」ということです。
当時、日本国内では、メディアがさかんに鬼畜米英などといって米国との開戦を煽っていましたが、これが現実なのです。

もし日本が米国と開戦するとなれば、日本は資源を南方の東南アジア諸国に求めざるを得なくなります。
開戦相手は米国だけでなく、東亜諸国を植民地として支配するオランダや、フランス、英国などとも戦争をしなければならなくなることを意味します。
しかも日本は国際連盟から委託された南方の島々の平和を守る責務を負っています。
つまり日本は、太平洋の島々から東南アジア諸国にまで戦線を拡大しなければならなくなるのです。

すでに、支那ではイクサがはじまっています。
これをさらに我が国が戦線を拡大するということは、我が国の国防力を分散させます。
国防力の分散は、すなわち国防力の弱化です。
ですから、米国の現状をつぶさに見聞した山口は、米内、山本らとともに、日米開戦に堂々と反対しています。

この時期、多くの日本の陸海軍人が、日米開戦に反対だったことは注目に値することです。
武人というのは、合理性を尊びます。
戦いは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるものだからです。
そして戦いに敗れることは、武人にとっては即、死を意味します。
死を恐れはしませんが、無駄死にになることは絶対に避けたいし、部下をそのような戦いに用いたくない。
それは、人して当然の思いです。

ところが文人は、能書きが先行します。
平和を維持しよう、戦いはいけない、などなどです。
客観性よりも思想が優先されるのです。
しかも権限に「死」という責任が伴いません。

シビリアン・コントロール(文民統制)なるものが、いかに「いかがわしい」ものであるかは、歴史が証明しています。
「武人は戦争を起こすから、文人が制御すべし」というけれど、私はそんなものは虚構にすぎないと思います。
むしろこのことは、権限と責任の問題として考えるべきことと思うからです。

明治維新で戊辰戦争を戦ったのは、武人たちです。
明治27年の日清戦争も、武人によって開戦が行なわれました。
ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止しようとしたのです。

この日清戦争が、国際的にみて「やむを得ない戦争」であったことは、歴史が証明しています。
けれど日清戦争は、国力からしたら数十倍の国力を持つ清国との戦いです。
日本は、からくも勝利し、ロシアの南下を阻止することに成功していました。
しかし日清戦争による戦果、すなわちロシアの南下をまるで無駄にして、あらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、文人たちの無責任です。

武人が多大な命を犠牲にして日露戦争に辛勝すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげく支那を蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて、支那事変に至らしめたものは、無責任な人道主義に基づく文人たちの「平和外交」です。

平和を愛する「文人統制」といえば聞こえは良いです。
しかし、責任を伴わない者に権限を与えることは、結果として国民が迷惑を被るのです。
そのことは歴史が証明しています。

さて、大東亜戦争開戦時、山口多聞は海軍少将で、第二航空戰隊司令官でした。
日米開戦が決定すると、山口は航空母艦「飛龍」に乗って、真珠湾攻撃に出撃しました。
日米避戦論者であっても、ひとたび開戦が決意されるや、命をかけて戦い、国家を護らなければならない。
それが軍人の使命です。

開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施しました。
この頃、山口は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されたそうです。
「丸」は、彼が太っていたからです。
「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。

山口は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていたし、大飯ぐらいで、体力も強かったそうです。
それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に一切の容赦などありません。
ほんのわずかなミスも許さない。
当然のことです。
150倍の国力を持つ米国と、さらに世界の85%を支配する白人国家全部を相手に日本は戦うのです。
頭が痛い、腹が痛いなどと、甘ったれは一切許さない。

ある日山口は、みなに聞こえるように、
「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、
ありゃいったいどんな感じのものなのかね」と言ったそうです。
訓練生たちにはこの言葉が相当ショックだったらしく、いまも語り草になっているのですが、山口多聞は本気だったのです。

山口多門に訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込んだとき、全員がびっくりしたそうです。
艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされていたのです。
居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれていました。
ドラム缶はむろん、一斗缶まで動員されて、ところ狭しと置いてあったのです。

山口が、船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げさせたのです。
そのため居住区まで重油の臭気が満ち、船の航行中は、船体のピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかったといいます。
それくらい大量の重油が積載されていました。

なぜでしょうか。
実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていました。
けれど両船とも航続距離が短かいのです。
これが第一の理由です。

平時なら油送船を一緒に連れていけばよいだけのことです。
然料が切れたら 洋上で補給すればいい。
けれど、真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動です。
連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定しています。

冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
しかも、のんびり航海していて、途中でどこかの国の船に発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。
要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのです。
そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになってしまいます。

ですから当初、軍令部(大本営海軍部)は、飛行機は他の空母に搭載して、この三艦は内地にとどめおくべし、と決定しました。
けれど、これを聞いた山口少将は、烈火のごとく怒り、即座に南雲中将に面会しました。
そして南雲中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくったのです。
結果、山口の強い抗議と要望で三空母が、作戦に参加することになりました。

なぜ山口は、ここまで航空機にこだわったのでしょうか。
彼は戦争が「艦隊主義」から「航空戦の時代」に変わったことを知っていたのです。
ここにも、先例主義でない、あくまで合理性を尊ぶ山口の個性があらわれています。

理由の第二は、山口の標的は、真珠湾だけでなかった、ということです。
真珠湾にいる米艦隊は、日本が攻めて来ることを予期し待機しています。
だからこそ米艦隊は日米の中間点である真珠湾に艦隊を配備したのです。
だからこそ日本海軍は真珠湾に向かったのです。

もっとも真珠湾で米艦隊が、あれだけの大きな被害を受けたのは、米国の予想をはるかに上回るものでした。
これは日本が真珠湾で、「航空機による浅瀬での魚雷攻撃」という新戦法を、世界で初めて実用化したからです。

真珠湾は浅い湾です。
浅いから敵潜水艦は入れません。
水雷艇がやってくるには、ハワイはあまりにも日本から距離がありすぎます。
ということは真珠湾は魚雷攻撃の心配がないのです。

ということは、米軍が注意を払わなければならないのは、日本の航空機による爆撃と、艦砲射撃だけとなります。
まだGPSによるピンポイントのミサイル射撃などなかった時代です。
揺れる海上から撃つ日本の艦砲射撃に対し、海面が静かで揺れない湾内と、陸上砲台から撃つ米軍の対艦攻撃の方が有利です。
加えて、戦闘態勢をとった戦艦は、絶対に航空機には破壊できないと、当時は考えられていたのです。
その航空機にさえ、多数の米戦闘機部隊を配備することで、十二分に対抗できる。

真珠湾攻撃が、米国にとって、米国の欧州戦線参戦に際して必要なことであり、あえて日本を真珠湾に誘い込もうとしたということは、近年、様々な米国の公開資料によって明らかになってきていることです。
けれども、ルーズベルトの予想と政治は、あくまで真珠湾基地に日本を誘い込み、日本に攻撃をさせながら、逆にこれを徹底して撃退し、米国の強さを世界にアピールするとともに、米国内の国民世論を開戦に向かわせようとするものだったのです。

ここは間違えてはいけないポイントです。
ルーズベルトは真珠湾を日本に晒し、攻撃を受けることを待ち受けましたが、そこで日本にやられるとは、まったく予期していなかったのです。

ところが日本は真珠湾で、米軍がまったく予期していなかった「航空機による魚雷攻撃」という、当時の世界の常識にはありえない前代未聞の戦法をとり、真珠湾の米海軍の艦船を全滅させました。
あり得ないことが起こったのです。

そしてそれが「ありえないこと」であったことは、戦後、まったく語られて来なかったことです。
なぜなら、「日本に攻撃をさせるだけで、絶対に壊滅することのない真珠湾」という所期の予定がくつがえされて、真珠湾が壊滅したことを掘り下げられると、米国と日本の開戦時の関係のもたらす意味が、まるで違うものになってしまうからです。

どういうことかというと、「日本に真珠湾を攻めさせて、その攻撃を米軍が跳ね返す」という予定が、「日本に真珠湾を攻撃されて、真珠湾基地が壊滅した」という結果を招いたことは、これは明らかなルーズベルトの失政ということになります。

そしてもっと大事なポイントは、この真珠湾攻撃において、日本は「航空機による戦艦の壊滅」という当時の常識では考えられないほどの戦果をあげながら、真珠湾における他の周辺施設、すなわち、石油の貯蔵施設や、爆弾などの収蔵施設、あるいは非武装の米兵たちがいる兵舎などに対して、一切の攻撃をしかけていないことです。

繰り返しになりますが、当時、「戦闘態勢をとる戦艦は、絶対に航空機では沈めることができない」というのが、世界の軍事の常識です。
その戦艦が、真珠湾にいるのです。
しかも日本の爆撃機を迎え撃つために十分な数の戦闘機が待機しています。

常識で考えたらわかるのですが、爆撃機というのは、重たい爆弾を腹にかかえていますから、空で軽快な行動をとることができません。速度も遅いし、小回りもきかない。
これに対し、戦闘機は、速度も速いし、小回りも利きます。
つまり、戦闘機からみたら、爆撃機というのは、撃ち落としのための格好のネタでしかなかったのです。

日本が真珠湾に攻撃をしかけてくるならば、それは日本の艦隊では、海上からの陸上への攻撃となりますから、陸上にたっぷりと防衛施設を持つ米軍が、圧倒的に有利です。
しかも戦艦は、戦闘機では沈めることはできず、やってくる爆撃機は、戦艦の持つ速射砲の餌食になる。
加えて日本の爆撃機は、米軍の戦闘機のネタです。

そうなれば、日本は、真珠湾の米艦隊へも攻撃をしかけるだろうけれど、いきおい、狙いは、真珠湾の基地施設、つまり石油の貯蔵庫や、爆弾などの兵器の貯蔵施設、あるいは米兵たちの兵舎になるであろうと予測がつくわけです。
従って、これに対する守りをきっちりと固めていれば、真珠湾が壊滅することはない。
むしろ、遠路はるばるやってくる日本軍の側が、ネタになるのです。

当時、真珠湾に米空母がいなかったことを問題視する人もいますが、ルーズベルトの目的は、日本を追い込んで日本に真珠湾を攻撃させることにあったわけです。
もし、そこに空母がいれば、米国は日本を攻撃に行く意思があったことになりますし、対空防衛力の弱い空母を、何も日本が来るとわかっている真珠湾においておく必要もなかったのです。あたりまえのことです。

そして日本の攻撃は、戦艦への攻撃は航空機では無理、日本の戦艦による艦砲射撃も当たらないとなれば、日本の攻撃は爆撃機による米軍兵舎や、補給施設に限られると予想できます。
そうであれば、米大統領府は「卑劣なジャップ」という印象を米国民に与えることができるし、その日本の攻撃を真珠湾で圧倒的な戦力で「防いだ」となれば、米軍への世間の評価は圧倒的なものとなり、欧州戦線への参戦も容易になるし、おそらく総力をあげてやってくるであろう日本海軍に大きなダメージを与えることで、東亜の攻略さえも容易になる。
それがルーズベルトの「もくろみ」です。

ところが、日本の攻撃は、意に反して、絶対に沈まないはずの米戦艦に向けられたものだったし、日本は真珠湾基地の米軍兵舎や補給施設には、まったく攻撃をしかけない。
しかけないどころが、圧倒的な戦いで真珠湾の米太平洋艦隊そのものを壊滅させただけで、悠々と引き揚げてしまいました。
ということは、日本には、米国を侵略する意思などまったくなく、誰がどうみても、日本はあくまで米国の日本への政治的干渉に対して、乾坤一擲の大槌をふるっただけ、ということになります。

国家の行う戦争というのは、ただ武力を行使するだけの暴力事件ではありません。
充分に計画された政治的問題解決のための手段です。
実際、日本の意思はまさにそこにあったわけです。

「日本に真珠湾を攻撃させて、これを完璧に防ぎきり、米軍の強さを世界にアピールし、返す刀で日本の海軍力に壊滅的打撃を与える」というルーズベルトの「もくろみ」は、完全に崩れました。
米国の真珠湾基地は、日本の艦隊に一発の報復もできることなく、またたく間に、壊滅してしまったのです。
しかもその攻撃は、米軍の「待ち構えていた」攻撃施設に対してだけ行われました。

つまり、真珠湾攻撃で、日本は、米国の対日強硬戦略という政治目的を粉砕したわけです。
そこに日本の真珠湾攻撃という政治目的があったし、そのことは日本の攻撃の仕方、引き揚げ方に明確に現れているわけです。

ようするに日本は、真珠湾攻撃を、あくまで政治目的達成のための手段と位置づけていたということが、ここに明確になります。
このことは、また項をあらためて詳述したいと思います。

一方、読みが外れて困りきったルーズベルトは、まったく異なるへ理屈を持ち出しました。
それが「リメンバー、パールハーバー」です。
「侵略されて反撃するのは正当な戦争行為」という、世界の常識を持ち出したのです。
つまり、これは後講釈です。

そして後講釈であるからこそ、米国は、あくまで対欧州戦線参戦のために、日本を追いつめただけであったのに、結果として太平洋側にまで大きな戦力を割かなければならなくなり、多数の米国人の命を犠牲にしています。
最近、米国内でも、こうした議論が行われるようになってきました。
このことは、おそらく戦後世界の体制を一変させるインパクトを持つものに育っていくことと思います。
真実は、嘘で覆い隠すことはできないのです。

山口多聞中将は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないから、真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すべきあるという立場をとっていました。
そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができない。

これはまったくの正論です。
戦争である以上、勝たなければならないのです。
そのために必要なことを、武人として、山口は堂々と主張し続けていたのです。

けれど、その山口案は、退けられてしまいました。
それでも山口は、情況次第では、そこまでの攻撃をしておく必要性有りとして、ところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。

山口多聞は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。
学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。

しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒る。
体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない。しかもその怒りに筋が通っている。

いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。
しかし、筋の通らないことに怒るのは、男子の美徳です。

さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。
山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。

当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。
六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。
そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせました。

時刻到来。空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。
十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちました。

そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。

待ちに待った電報でした。
このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、
「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。
これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。

米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。

********
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。
日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。
この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
********

実は、山口多聞は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。
真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。
このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。

山口は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。
しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。

双眼鏡を顔から離した山口多聞は、
「南雲さんはやらんだろうな」とつぶやいたといいます。

南雲大将は武人です。武はあくまで敵を懲らすものであり、むやみに戦線を拡大すべきものではないという、信念の人でもあります。
ですから真珠湾での徹底した破壊はしないで、むしろ日本の圧倒的な強さを見せつけ、あとは外交によって、和平の道を探る。そのための道を閉ざしてはならないと考えました。

日本は、真珠湾で米軍の施設を徹底破壊し、そのまま真珠湾を占領し、そこを拠点にして米本土への攻撃をしかけることもできたのです。
それだけの軍事力は日本にあったし、米本土が焦土となる事態となるならば、それは米国としても絶対に防がなければならない事態です。
それだけのことが「できる」ということをはっきりと示したうえで、外交によって問題の早期解決を図る。
真珠湾攻撃の時点における日本の国家としての狙いも、まさにそこにあったのです。

まさか、宣戦布告文書を、前の日の宴会の二日酔いで、モタモタとさぼって米国に日本の駐米大使が手交を遅らせるなどとは、誰も考えない。
堂々と宣戦布告文書を手渡し、その直後に、日本軍の襲来を意図的に待ち受けた真珠湾が壊滅したとの報告がはいれば、それだけで、日本の外務省は、堂々と米国に対して、和平をもちかけ、それ以上の戦争を抑止することができたはずなのです。

ところが、日本の駐米大使は、寝ぼけて宣戦布告文書の手交を遅らせました。
それによって、日本は、「だまし討ちだ」とそしられる外交上の隙をつくり、結果として長引く大戦へと引きずり込まれてしまったわけです。

宣戦布告文書というのは、国家間の戦争に必ず必要なものではありません。
むしろ宣戦布告などないままに、始まるのが戦争の一般的な姿です。
世界の歴史をみたらわかりますが、宣戦布告をしてから戦争が始まるのではなくて、宣戦布告が行われた時は、逆に戦争に至らないことの方が、世界における常識です。
宣戦布告があれば、その戦争をはじめないために、当事者両国が真剣に努力するからです。

もし日本が、米国と徹底戦争をするつもりならば、宣戦布告など、そもそも必要ありません。
事実上、米国の領土、了解をどんどん侵蝕していけば良いのです。
いまの支那が、東シナ海や南シナ海を侵蝕しているのと同じです。
米国の領土了解を、蚕食し、できるだけ前線基地を米本土に近づけて、米国への本土空襲を行い、米国政府を降伏させて、米国を日本の占領下におけば良いだけのことです。

ですから戦いの政治目的がそこにあるならば、日本は真珠湾の米軍基地を配給施設まで含めて徹底的に壊滅させ、真珠湾に上陸し、そこを占領し、ハワイを日本の占領下におさめ、そこを拠点として米国本土への攻撃を加える。
そこまでするのが、戦争というものです。
戦いに勝つには、そこまで徹底した攻撃が必要なのです。

ですから、戦いのプロとして、山口中将は、第二波、第三波の攻撃を進言しました。
けれど、最終的に彼も、南雲大将の指揮に従いました。
大将の意図することを、山口中将自身が、ちゃんとわかっていたからです。

日本は、古来、平和を愛する民です。
しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪う。
そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。

平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。
残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。
そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。

さて、開戦から半年後、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きました。
海戦に先立ち、山口は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。

********
ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。
そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、
空母を中心とする機動部隊を編成すべきである。
空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、
敵機の襲来に備え、
少なくとも三機動部隊を出撃させなければならない。
********

しかし、アリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となってしまっています。

ミッドウエー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しました。
進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。

船は魚雷でなくては沈みません。
しかし、山口は攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。
だからまず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張しました。

すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できないのです。
仮に出撃していたとしても、敵航空機は、最早着陸することができない。
敵航空機は、燃料切れとともに海に没するしかなくなるのです。

しかし、南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。

これが仇になりました。
初動対応を遅らせてしまったのです。
敵に先手を許してしまう結果となりました。

午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、聯合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまったのです。

7時10分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。
「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。

山口は、即座に第一次攻撃隊(艦爆18機、艦戦6)を発進させました。
このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。
「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。俺も後から行く」
すでにこの時点で、山口は死を決意していました。

第一次攻撃隊を発進させた山口は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」を単独で爆走させました。
米空母をめざしたのです。
そして進撃しながら、艦隊司令部に「各損害空母には駆逐艦一を付け、主力部隊の方向 に向かわしめられたく」と要請しました。
この時点で、これは要請とというより命令です。
部下が上司に命令した。

カタチはどうあれ、この時点でもはや他に選択肢はないのです。
生き残った聯合艦隊は、飛龍のあとを追います。

9時10分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を発見しました。
敵空母からは、猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させた。

10時30分、山口の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機10、 艦戦6を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容します。
このとき生還できた機は、発進した24機中、わずか6機でした。
いかに激戦であったかがわかります。

11時45分、第二時攻撃隊が敵空母に到達します。
そして日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮して、魚雷2本を命中させます。

山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた、残りは空母一隻と判断します。

けれど実際には、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、最初に爆撃を成功させた空母「ヨークタウン」だったのです。
つまり、米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷でした。

12時20分、山口は、司令官、第三次攻撃の実施を、夕方に延期することを決定します。
第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついてしまっていたのです。
乗員の疲労も極限に達していました。

午後2時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機13機が飛来します。
敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきた。

このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦といわれています。
「敵機来襲!」と絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、敵の爆弾をなんと7発まで躱(かわ)してしまったのです。
しかしそこまでででした。
見張員が叫び声をあげたのが2時1分、そして2分後には4発の爆弾が、「飛龍」に続けざまに命中したのです。

最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たりました。
昇降機をひきちぎって、空高く放り上げました。
そして舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突します。
艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそぎました。

このため「飛龍」は、一時的に操艦不能になります。
しかしエンジンは動いている。
機関部にいた船員たちは、次々と爆弾が着弾する中、必死の努力でエンジンを回し続けたのです。

「飛龍」は、走りつづけます。
しかし、機関部に海水が流れ込む。
船員たちは、油まみれになって必死の努力で海水を掻い出すのだけれど、日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止してしまいます。

海面が静かな月光に照らされていました。
海上は、夕凪で、波ひとつない静けさです。
その洋上を、「飛龍」が漂う。

浸水がはじまり、艦が左に傾き始めます。
深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、
「残念ながら、飛龍の運命もこれまでと思います。総員退去の許可を求めます」と申し出ます。

山口と加来大佐は、二人揃って、黙って飛行甲板の左舷部に降りました。
そこはまだ火の手が回っていなかったのです。

そこに、汗と煤煙に汚れた800名の乗組員たちがいました。
彼ら乗組員たちは、山口と加来を取り巻きます。

このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。

********
月のせいで、そんなに暗くなかった。
艦は30度くらい傾いていたのではなかったか。
山口司令官の訣別の訓示は、
「皆のお陰で、他の三空母(赤城、加賀、蒼龍)の分もやった。
敵空母二隻と巡洋艦一隻をやつけた
(と、我々はそのときそう信じていた)
どうもありがとう。
しかし飛龍をみて分かるとおり
内地に帰還するだけの力ははすでにない。
艦長と自分は、 飛龍とともに沈んで責任をとる。
戦争はこれからだ。
皆生き残って、より強い海軍を作ってもらいたい」
と訓示した。
********

その場にいあわせた生存者全員が泣いたそうです。
日本男子は、声をあげて泣くことをしません。
人間、ほんんとうに辛いとき、声など出して泣かないものです。
みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロとながしました。
みんなが泣いていました。

そしてみんなで、日本の方向を向いて、山口長官の音頭で万歳をとなえました。
「飛龍」に高らかに掲げられていた軍艦旗と将旗を降ろしました。
退艦儀式を手順どおり進ませました。

主計兵曹がまず、御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶり先頭にたちました。
そして、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦しました。
日本の駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出してくれました。

そのときです。
山口を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、
「司令官!」
と大きな涙声で呼んだのです。

「何か頂く物はございませんか」
山口多聞はふり向き、こんなときでもニヤリと笑ったそうです。

「これでも家族に届けてもらうか」
そう言って頭にかぶっていた黒の戦闘帽を脱きました。

伊藤中佐が受け取りました。
山口は「それをくれ」と、彼が腰に下げていた手ぬぐいを指さしました。

空母が沈むとき浮き上がらぬよう、自分の体をどこかにくくりつけるつもりだったのでしょう。
でも本当は、みんながいなくなったあとに、涙をぬぐう手ぬぐいがほしかったのかもしれません。

日付が変わった6日午前2時、白煙を上げながら漂う「飛龍」に、駆逐艦「巻雲」から二本の魚雷が発射されました。

戦後、ハーマン・ウォークという作家が、「リメンバランス・オブ・ウォー」という本を書いています。
彼はこの本の中で、次のように書いています。

********
ミッドウェー海戦で米国太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、
海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、
陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。
そのため、ヨーロッパや、北アフリカでイギリスを助ける力が弱まり、
(中略)
イギリスは絶体絶命となり、
ヒトラーがヨーロッパの勝者になった可能性が高くなったであろう。
********

ミッドウエー海戦は、なるほど日本の負けに終わったけれど、戦いはまさに伯仲の戦いだったのです。
もし、このとき日本が先に米海軍の機動部隊を発見していたら、海戦は日本の勝利に終わっていました。
戦闘が始まったとき、もし日本が陸上用爆弾を搭載したまま、敵空母を叩いていたら、日本が海戦に勝利していたことでしょう。

いやそれ以前に、もし日本が、真珠湾で米国のハワイ軍事基地を補給基地ごと叩き、さらに敵空母を壊滅させていたら、ミッドウエーは日本の完全勝利に終わったことでしょう。
ミッドウエーは、それほどまでに伯仲した戦いだったのです。
山口多聞は、当時もいまもこれからも、世界の海軍史上に名を残す名提督です。

享年49歳。
そんな提督がいた帝国海軍を、私はとても誇りに思います。

ところで戦後に秘匿された歴史の真実のひとつに、実はこの戦いで、米軍の哨戒機を、日本の哨戒機が先に発見していたという事実があります。
米軍の哨戒機が飛んでいるということは、近くに空母がいる、米艦隊がいる、ということです。
そのことをすぐに日本の哨戒機が、ちゃんと通報していたら、その時点で日本は先に戦闘配備を済ませ、ミッドウエーに100%の確率で勝利していたであろうといわれています。

ところが歴史はそうは動きませんでした。
米軍哨戒機を発見した日本機のパイロットは、その発見の報告を握りつぶしてしまったのです。
戦後、そのときのパイロットは、名前を変え、航空自衛隊の幹部になりました。
それを見つけたある元パイロットが、本人の胸ぐらをつかんで問いただし、事実が明らかになりました。

なぜ、そのときの日本のパイロットは、報告を握りつぶしたのでしょう。
彼は、帰隊したあと、米軍の哨戒機を見つけながら、それを撃ち落とさなかったことで責任を問われることが怖かった、と白状してのだそうです。
しかしそのために、多くの日本兵が犠牲になりました。
そしてミッドウエーの敗戦によって、日本は制海権を失い、大東亜の敗戦に至っています。

ときどき思うのです。
真珠湾でもし、日本が米軍の施設の徹底した破壊を行い、そのまま真珠湾に上陸してそこを占領していたら、その後の歴史はどう変わっていたのだろうかと。
もし、ミッドウエーで、そのパイロットが、勇気をもって早期の報告をし、日本がミッドウエーに勝っていたら、その後の歴史はどのように変化していったのだろうか。などなどです。

神々のご意思は、人の身では計り知れないものです。
ただ、よく言われることですが、戦前の日本はたしかにいっぱい良いところがあったし、とてもつもなく強かったけれど、どこかで日本が、あるいは多数、もしくはほんのひとにぎりの日本人に、謙虚さを欠き、他の諸国の人々を見下す弊はなかったといいきれるだろうか、ということです。

民族ごとに違いはあります。その違いを明確に区別し、よくない者たちに対して、一定の警戒をすることは当然のことであると思います。
けれど、警戒と蔑視は異なるものです。

いまわたしたちは、お隣の国を見て、夜郎自大になっている姿に、辟易しています。
日本が同じようになることなど、おそらく日本人なら思いもよらないと思います。
日本は、武の国ではありません。
どこまでも和と結いの国です。

逆にいえば、先の大戦の敗戦、そして占領、高度経済と20年の沈滞という、様々な経験を経て、またかつて植民地支配を受け、教育さえも奪われていた世界の様々な国が、戦後に自立独立を果たし、誰もが一定の教育を受けることができるようになってきたいまようやく、日本は、本当の意味で世界から対立や闘争をなくす、世界の民衆にとっての素晴らしい世界を提示できるスタートラインに立つことができるようになったといえるのではないでしょうか。

そして、そういう新しい世界を提案していくのは、日本人であるわたしたちの両肩にすべてがかかっているということなのかもしれません。

日韓併合の理由

報知新聞号外
報知新聞号外韓国併合

なぜ日本は日韓併合をしたのか。
このことについては、以前にも何度か書いているのですが、もう一度おさらいの意味で書いてみたいと思います。
初めての方は、目からウロコだと思います。

日本は明治43(1910)年8月29日、「韓国併合に関する条約」に基づいて大韓帝国を併合しました。
これがいわゆる「日韓併合」です。

ちなみに併合直後の明治44(1911)年の韓国の年間総予算は3,565万円でした。
韓国内からの税収は1,330万円です。たった三分の一しかありません。
足らない分は、全額日本から補充しました。

日露戦争が終わってまだ6年目です。
日本だって予算に余裕があったわけではありません。
にもかかわらず、日本はなぜ、韓国に莫大な財政を投下したのでしょうか。

日韓併合をいくら韓国に望まれたとはいっても、併合するしないを決めるのは、あくまで日本です。
何も金食い虫となる韓国を「無理をしてまで」日本が併合する必要はありません。
どんな事情があったのでしょうか。

朝鮮半島は1392年にはじまる李氏朝鮮によって、約500年、支那の属国(冊封国)であったと、ここまでは多くの人がご存知です。
ただ、注意しなければならないのは、李氏朝鮮は「国」ではなかったという点です。
この点を多くの日本人が誤解しています。

私達日本人は、国は「国境に囲まれた国土の中に住む人々が、同じ言葉、同じ歴史、同じ文化を持ち、国民として平等の権利を有している」、それが国家であると思っています。
日本は昔も今も島国で、天皇のシラス国でいましたから、もう、それが「あたりまえ」の感覚です。
けれど陸続きの大陸では、ぜんぜんそうではないのです。

大陸は、食えなくなった人が「暴徒となって移動する」ところです。
そして支那朝鮮では、大昔から軍とヤクザと暴徒は、同じものです。
ですから、おとなしく生活していれば、そこに突然、軍という名のヤクザな暴徒が襲ってきて、何もかも奪い取ってしまう。当然、人も言語も入れ替わる。それがあたりまえに行われてきたところです。

朝鮮半島も、もともとは今の韓国の南半分は倭国(日本)でしたし、北半分にあたる新羅や百済も、もともとは倭人たちの国です。
ですからそこにいた人種も言語も倭人そのものだったわけで、顔立ちも日本人的な顔立ちの人たちが住んでいました。

ところがその北側は、濊族の土地だったわけです。
濊族は、吊り目でひらべったい顔でエラの張った人たちです。
もともとは、大陸にいた遊牧民だった人たちですが、なぜか大陸を追われ、朝鮮半島にやってきたわけです。
モンゴルや満州のいわゆる広大な大陸地帯と、朝鮮半島では地理環境が違います。
朝鮮半島の地形は、何百頭もの羊や山羊を飼うには適しません。
にも関わらず朝鮮半島にやってきたということは、要するに、濊族は大陸で食い詰めて流れてきた人たちだったわけです。
食い詰めものだから、今で言ったらホームレスのような人たちで、だから汚いし、臭い。
そこで支那人が彼らに付けた名前が、汚穢の濊の字を書いた濊族だったわけです。

その濊族が、倭人たちと接触し、文明の中に取り込まれ、なんともっと贅沢をしようと、ついには新羅を乗っ取り、支那の兵力を引きずり込んで百済を滅ぼし、ついには倭国も滅ぼして、半島を牛耳ってしまいました。
ですからいまでも朝鮮半島には、元倭人系と、濊族系の人達がいます。だいぶ血は混じっていますが、日本人とは似ても似つかない平べったい顔でエラが張って目が細い濊族系以外に、日本人とそっくりな顔をした人達がたくさんいるのは、そういう歴史的経緯があったからです。

元遊牧民の食い詰め者である濊族にとって、人は食い物ですから、いきなり皆殺しにはしません。
そんなに殺しても食べきれないからです。
一方、食べられる側の元倭人たちは、農業や漁業で飯を食っていました。古代の話です。
ですからもともとはあまり肉を食べる習慣はなく、食事の味付けも日本食に近いものだったのですが、これも朝鮮半島がモンゴルに征服されたときに食文化が変わり、基本色が肉になりました。
半島民がモンゴルに征服されたのは、700年ほどまえですが、以來、朝鮮では肉食が主流になります。
ただ、おもしろいのです。
モンゴル人は、戦に使う馬をとても大切にする民族ですが、朝鮮馬というのはいません。
モンゴルは、ずいぶんたくさんの馬を半島に持ち込んだようなのですけれど、モンゴルが去った後、馬たちはみんな食べられてしまいました。
わずかに済州島だけが、近代まで、モンゴル馬の生息地となっています。

さて、軍という名のヤクザな暴徒たちが、国王や王族、貴族を名乗り、半島内で蹂躙と略奪の限りを尽くし、民衆をヒトモドキとして扱ってきた朝鮮半島に対し、日本は、武家政権だった鎌倉、室町、戦国、江戸社会においても、大名たちは領主ではあったけれど、領民たちは大名の所有物ではありません。

知行地内に住む農民をはじめとした人々は、もちろん藩に所属している人々ですけれど、その人々は領主である大名の私物(私有民)ではなく、天子様、天長様(天皇)の「おおみたから」であるとされてきたのが日本です。
日本では、これが古代からの日本のカタチです。
ですからこのことは、日本では「空気のようにあたりまえのもの」になっています。

けれども、朝鮮半島では違います。
西欧においても、「妻は夫のものであり、その夫は領主のものだから、妻は領主のもの」とされたのが中世ですが、朝鮮の場合、外来の女真族の裏切り者が、面倒を見てくれた高麗王を裏切って明に擦り寄って、権力を奪い取って朝鮮王を名乗った李王朝です。
もともと朝鮮族であったわけでもなく、原住民に愛情も愛着もありませんから、とにかく反抗するものは皆殺しにする。残酷な刑罰を加える。殺して食べる。
挙句の果てが、街を歩いていていい女がいたら、強姦のために胸を出させて品定めしやすいように、民族服まで変えてしまったというのが、李王朝です。

ですから、李氏朝鮮の時代、これは大韓帝国になってからも、つまり日韓併合の前まで、朝鮮半島に「国民」はいません。
人として認識されたのは、人口の3%の両班だけで、それ以外の人々は、人ではなく、ヒトモドキという認識です。人の言葉をしゃべる猿です。

「女性は人として扱われた。民主的だった」などと最近の韓流時代劇は、お馬鹿なファンタジー史観を広げていますが、全然違います。
日本でも昔は、青年が温めたコンニャクや、メンドリの膣を使って自慰をするなんてことがあたりまえに行われていましたが、半島では、ヒトモドキの女性たちは、あまりに残酷なことですが、ただの性の道具として「使用されてきた」にすぎません。

いささか嫌な書き方をしますけれど、昔の朝鮮では縛り付けた罪人の骨を一本一本折っていったり、木刀のような太くて長い警棒で縛り付けた罪人を散々殴るということが一般に行われていました。
つまり縛り付けて抵抗できない者に対して、酷い暴行を加えるということが彼らの文化だったのです。
これが性的に変形したのが、朝鮮式SMで、最近では日本でもオカマやオネエ同様、だいぶ流行っていると聞きますが、もともとの日本には、昔の吉原や曽根崎町、あるいは円山町などの遊郭においても、女性を縛り付けて行為に及ぶような施設も文化も、まったく存在すらありませんでした。
ラブホは、戦前も待合旅館などがありましたけれど、SMルームのような施設を持った待合旅館は、日本中どこを探しても一件もどころか、一部屋もありません。これは断言できます。

要するに、朝鮮半島では、人をヒトモドキとして扱い、支配するということが、あたりまえの文化であったわけで、当然のことながら、人と人との信頼関係なんて生まれようがありません。
だから朝鮮半島では、製造業も商業も育たちませんでした。
この点は、支那と大きく違う点です。
支那は、遊牧民の文化に倣い、課税対象は商業流通です。
農業や畜産業自体への課税は、もともとはありません。
とりわけ遊牧民王朝下(ほとんどの時代がそうですが)では、人も動物も基本、移動するものですので、当然のことながら、住民台帳も家畜台帳も整備されません。
そのかわり、人や家畜の移動や、流通に課税したのです。日本とは課税文化が全く違います。

ところが、朝鮮半島では流通商業がありません。
なぜなら、人の移動は、常に逃散だけだったわけです。
ですから、課税は、とにかくそこにいる人から、絞りとる。
言うことを聞かなければ、残酷な刑罰を与える。これしかない。
これでは産業なんて育つわけもなく、だから朝鮮王朝から支那王朝への献上品は、ずっと毎年、性奴隷としての女性の献上だけです。

だから国は貧しく、人々に教育もなく、山々は禿げ山、民家や街中にはトイレさえない。
道には人糞が散乱し、堪え難い臭気が町をおおい、首都ソウルの李氏王宮の正面入り口の南大門の真ん前でさえ、浮浪者がたむろしていた極貧状態です。

あまりの極貧ぶりであるがゆえ、欧米列強による植民地支配の対象さえなりません。
欧米から「不衛生な猿山以下」と思われていたのが、当時の韓国だったのです。

そんなエリアを日本が併合する。
理由として、ロシアや支那を牽制する軍事的意図があったという人もいます。
これ、間違いです。

そういう理由なら、日韓併合の必要はまったくないのです。
現に、日清、日露戦争において、日本は堂々と韓国の領土に兵を進めています。
それに抵抗できるだけの武力も資金も兵力も、気力さえも、李氏朝鮮にはありません。

ですから、仮に韓国に併合を望まれたとしても、日本は軍事的に領有するか、保護国、保護領、従属国にすれば足りたのです。
あるいは植民地でも良い。
本来、何ら投資など必要ないのです。
対ロシア対策というのなら、半島の原住民を強制徴用して、後ろから銃を突きつけて前線に立たせれば良いだけです。
支那の国民党や毛沢東の八路軍、ソ連兵など、みなこのやり方です。

日本はまだこの時期、日露戦争の戦費の償還をしていたのです。
財政に余裕はない。
にも関わらず、日本は韓国を「併合」し、さらに巨額の財政投下までしています。
しかもなんとかして人道的な接し方を彼らにし続けています。
なぜでしょう。

当時日本は、明治の開国後、またたく間に国力をつけた日本は、日清、日露の戦争にも勝利し、明治35(1902)年には、世界最強の海軍国である大英帝国と対等な同盟関係まで締結する国家となっていたというのは、みなさまご存知の通りです。

有色人種国家は、欧米列強の前にひれ伏し、植民地支配を受けるしかないという世界の常識の中で、唯一日本は有色人種国家でありながら、名実ともに世界の一等国仲間入りを果たしていました。
果たしただけでなく、当時の世界最強国家であり、七つの海を股にかけた世界の大英帝国と「対等な同盟国」なのです。しかも英国が同盟を結んだのは、当時、日本だけです。

ちなみにすこし脱線しますが、米国は、西進主義といって、はじめはカリブあたりを支配地におさめ、その次は絵北米大陸の西海岸、それからハワイ、フィリピンへと、当時西へ西へと侵略を進めていました。
要するにカウボーイたちが征服したのは、北米のロッキー山脈のインデアンだけではなくて、それから太平洋、東洋へと、西へ西へと駒を進めていたのです。

ところが米国のカウボーイは、東にも南にも駒を進めていません。
つまり、北米から、南米やヨーロッパ、アフリカに、アメリカの殖民地支配は行われていません。
これが何を意味するかというと、米国の北にも南にも東にも、大英帝国という強大な帝国が勢力を持っていたのです。
米国は国力を付けましたが、まだこの時代、英国に勝利できるだけの実力はありません。
ですから、東南北を塞がれた米国は、西へ進むしかなかったのです。

その西に、強大な帝国として立ちふさがったのが、日本でした。
ですから日米が戦って、米国が勝利すると、その勢力圏を、日本から朝鮮半島、インドネシア、インド、そしていまでは中東まで、すっかり征服圏におさめています。
もし、大東亜の戦いのときに、日英が協力体制にあったのなら、おそらく世界の勢力地図は、いまとまったく違ったものになっていたことでしょう。

と、話が脱線しましたが、そんな世界最強の大英帝国と、隣の日本が「対等」な同盟関係を結んだ、という事実に、当時の韓国の知識人たちがびっくり仰天するわけです。

ちなみに、この「韓国知識人」というのが、むつかしい存在です。
両班は、基本的に両班と結婚して子をもうけます。
両班と両班が結婚して子が生まれれば、その子は、もちろん両班です。
ところが両班たちは、朝鮮のヒトモドキとされた隷民の女性を強姦します。
すると子が生まれます。
こうして生れた両班と隷民階層の「あいのこ」は、両班と区別して「中人」と呼ばれました。
人とヒトモドキの中間という意味です。

そして両班は、箸の上げ下げも、タバコを吸う時もキセルを自分で持たず、また儒者として漢文を読む素養も、漢詩を書く教養もありません。
ただ尊大ぶっているだけです。
そして、そんな両班達のために、文字を書いたり、両班の大作(間違いました)代作で漢詩を書いたり、書を書いたりしていたのが、中人階層です。
ですから、中人階層は、教養がありました。
けれど、自分たちがどんなに教養を得ても、どこまで行っても、一生、明らかにアホとしか言い様がない両班のために働き続けなければならなかったのです。

そして、日本の半島への影響力が強くなってきた時、一番反応したのが、この中人階層でした。
福沢諭吉の弟子になった金玉均なども、みんなこの中人層の出です。
彼ら中人にとっては、勉強をして正しい知識を得たものが、世の中を動かせる日本の社会こそが、まさに理想国家だったのです。

李氏朝鮮は、カタチだけは大韓帝国として、近代国家の体裁をとりましたが、そこにおいても、人間は両班だけです。民衆は隷民だし、中人は補助的仕事しか与えられません。
ですから中人たちは、必死に両班を説得し、日本との合邦を工作しました。
そして日韓併合に、断固として反対の姿勢を貫く伊藤博文を、明治42(1909)年10月に暗殺しました。
当時の韓国は、「日本の初代総理を暗殺してまで」、日本との併合を望んでいたからです。

ですから伊藤博文暗殺の一ヶ月後、喪が明けるのを見計らって、韓国国内に当時あった最大与党の一進会が、「韓日合邦を要求する声明書」を出しました。
この声明は、「日本と韓国が対等な立場で合併することで、新たにひとつの大帝国を作るべきである」というものです。

この声明は、世界の嘲笑をかいました。
なぜなら当時の日本と韓国は、国力に雲泥の差があるからです。
日本と対等に合邦するということは、日本と同盟関係にある英国とも「対等な関係」を形成することになります。
文化もない、教育もない、産業もない、道端は人糞で足の踏み場もないような極貧のヒトモドキ国が、いきなり「英国と対等?」
これを、悪い冗談だと、笑わないほうがどうかしています。

けれども、当時の大韓帝国の中人たちにしてみれば、それは苦肉の選択でもあったのです。
上に立つ、頭の空っぽの両班たちには、何を言っても意味が通じません。
ただ尊大でいるだけで、現実の朝鮮半島は驚くほど貧しいのに、「自分は貧しくない」からと、何の問題意識もない。
だから中人たちは、そんな両班たちを、「世界を支配する大英帝国とも対等になれるのです!」と説得したのです。
おかげで、大韓帝国としての公式の声明は、「日本と対等な合邦」となりました。
しかしこのことは、諸外国からみれば爆笑モノだったのです。

ところが日本は、人種の平等を主張する国です。
この部分は、欧米列強からすれば、日本のウザイところです。
そして、日本に朝鮮半島の面倒を見させることは、長い目で見れば、日本の国力を削ぐことになります。
どんな時代にあっても、自国以外の競争相手国の力を削ぐことは、外交の要諦です。

一方日本は、どうしても対ソ対策のために、朝鮮半島を自立させていかなければならい。
ところがその朝鮮は、まるで問題意識がない。
まるで「自分たちの国は、糞尿だらけで何の魅力もないから、絶対に他国は入ってこれない」と安心しているかのようです。
そしてそんなことでは、ソ連の鎧袖一触で、朝鮮半島はロシア領になってしまいます。

加えて日本には、「人種は平等」であると主張した責任があります。
欧米列強の認識は、殖民地の現地人は人ではなくて牛馬と同じただのヒトモドキにすぎない、という解釈です。
ところが、そのヒトモドキを、日本人は「同じ人間だ」と言い張る。
けれど、欧米列強は500年にわたってアジアを支配してきた結果として、アジア人は人ではないという結論に達していたのです。
「そうではないというのなら、日本は朝鮮半島で実際にそれを証明してみせろ」

これが、日本が日韓併合に踏み切った理由です。
本によっては「韓国から合邦を望まれた日本が、諸外国にお伺いをたて、諸国の了解のもとに日韓併合を行った」というような記述をしているものがありますが、事実関係はまったく逆です。

そもそも当時の世界は、欧米の白人国家が有色人種を支配するのが「常識」とされいた時代です。
国力のある国家が、そうでない国家を支配するというのも、違います。

白人社会の伝統的価値観(宗教観)においては、この世は「」と「」と「」によって構成されています。
「神」は唯一絶対の存在であり、「人」は神の子です。

神の子である「人」は、神との間に交されたルールを守らなければなりません。
ルールを守るから「人」なのです。
ルールを知らない、あるいはルールを守れない異教徒は「人」ではないヒトモドキです。

「ヒトモドキ」は「獣」でしかありませんから、人の姿カタチをしていても「獣」です。
バンパイヤ(吸血鬼)やリカント(狼男)は、人の形をしていますが、人の勇者によって片端から殺されます。
バンパイヤやリカントは、いくら殺しても罪にはなりません。
なぜなら人の姿をしていても「人」ではないからです。

「人」は、牛や豚を殺して食べます。
それは牛や豚が「人」ではなく「ケモノ」だからです。
「人」を殺せば殺人罪ですが、「ケモノ」を殺した「殺ケモノ罪」は、世界中、どこの国にもありません。

「ケモノ」は、飼いならして「家畜」にします。
そして使役して果実を作らせる。
できあがった果実は「人」のものです。
だから殖民地の生産物は、すべて「人」のものです。
そして西欧では、古代フェキニアの時代から、これが常識です。

日本人は、自分たちは「人」であると信じて疑いませんので、このような説明をしてもわかりにくいかもしれませんが、そんな日本人も魚は食べます。
殺して食べても、「殺魚罪」になりません。
要するに人でないということは、その魚と同じということです。

こうした有色人種を「獣」として使役するという考え方は、ヨーロッパにおいては古代からの、ごく一般的な思想です。
15世紀にはじまる大航海時代において、人が遠くアフリカや南米に出かけて行く。
その国の原住民を殺して金銀財宝を持ち帰る。
それが罪にならなかったのは、その国の原住民が「人」ではなく「獣」とみなされたからです。

そうした考え方が、まさに「常識」とされていた時代に、有色人種でありながら、たいへんな努力をすることで、唯一「人」として認められたのが日本です。

「人」と「獣」の違いは、ひとことでいえば、人としてのルールを守れるか否かです。
日本は、古来の伝統的武士道に基づく道徳観にさらに磨きをかけ、これを国民的共通観念とし、さらに教育によって西洋人以上に約束を守り、勇敢で、高潔で、人としての尊厳を保つ民族、国家、人種として、日本社会を構築していったのです。
そしてその努力があったからこそ、日本民族は、ルールを守れ、勇敢で高潔で勤勉な民族として、西欧社会に受け入れられました。
「獣」としかみなされない有色人種が白人種の中でも最強とされた英国と対等な同盟関係を結べれた背景には、日本の国をあげた努力が根底にあったのです。

ところが、お隣の韓国は、自らを何も律することなしに、両班の尊大と、ヒトモドキの隷民を抱えたままで、日本に対し「対等な合邦」と言い出したわけです。
これはまさに、人として国家としての「ルール」をまるでわかっていない、つまり自ら「ケモノ」や「ヒトモドキ」であることを、世界に向けて高らかに宣言したようなものです。
ルールがわからない、理解できないということは「獣」である証だからです。
日本が困りきり、西欧諸国が涙を流して笑い転げたのは、あたりまえのことです。

結果、欧米諸国は、日本に「韓国の面倒をみてやれよ」といい出しました。
「野良犬(もしくは猿?)が、君のとこに妙になついてしまったのだから、まあ、面倒くらいみてやりなさいな」というわけです。

日本は、世界でただ一国「有色人種も人である」と必死に主張していましたが、なんとお隣の国が「オイラ、獣です」と世界に向けて宣言したのです。
もし隣の有色人種が「獣」なら、日本人も「獣」であると証明したことになってしまいます。
そうなれば、明治の開国以来の国をあげての努力が、ぜんぶ水の泡です。

こうして米英露伊仏独は、それぞれに日本に朝鮮統治を迫りました。
日本は欧米との外交上、朝鮮の面倒を見ざるをえない方向に追い込まれてしまったのです。

やむなく日本は、大韓帝国の面倒をみることにしました。
本来なら、植民地か、保護国、保護領、従属国にするだけでも足りるのです。
そもそも当時の国際的常識では、韓国は「人の国」ではないのです。「猿の国」です。

けれど、日本が「有色人種は人である」と主張するなら、朝鮮半島に生息する猿も同じ「人」となります。
ならば日本は、韓国を対等に遇しなければなりません。
そして韓国の中味が「獣」でしかないなら、なんとか教育して「人」に仕立て上げなければなりません。

こうしてできあがったのが、明治43(1910)年8月の「日韓併合」であったわけです。

韓国を併合した日本は、韓国内に古くからある不条理な刑罰や牢獄制度を廃止させました。
韓国内に八つあった言語を統一しました。
さらに半島内に5200校に及ぶ小学校を作り、239万人を就学させました。
道路をつくり、鉄道を敷設し、上下水道を整備し、病院をつくり、電気を引き、ビルを建て、道路を拡張整備しました。
そして路上での大便を禁止しました。
こうして日本は、韓国の近代化をいっきに押し進めたのです。

現代韓国人は、「七奪(칠탈)」といいます。
日本が韓国併合により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から、主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源を奪ったというのです。

けれど、李氏というヤクザの親分が民衆をヒトモドキ扱いして威張っていただけの地域が、そもそも主権国家といえるでしょうか。李氏朝鮮は支那の隷属家です。朝鮮半島にある全ては、李王朝のものです。そして李王朝のものは、すべて支那皇帝の所有物です。そのどこに主権があったのでしょうか。

李朝の国王には、日本は併合後、皇族の身分を与えました。
しかも年金は、日本の本物の皇族よりも高いお金を払っています。
そもそも李王と、日本の天皇では、格が違いすぎます。

朝鮮半島の人口は、日韓併合後、倍になっています。
人命を奪ったどころか、みんなが食える国してあげたのは日本です

朝鮮半島に、統一言語はありません。
8つあった言語を統一し、埋もれていたハングルまで復活させてあげたのは日本です。

日本人の名を名乗りたかったのは、朝鮮人たちです。
彼らは満州などで、自分たちは「第二日本人」を名乗っていましたが、さらに日本人名になれば、日本人そのものとして「大きな顔」ができたから、彼らがそれを望んだのです。
七奪というくらいなのですから、もう二度と日本人名は名乗らせる必要はありません。
通名は一切廃止すべきです。

土地も、私有を認めてあげたのは、日本です。
それまでは、両班のものですが、その両班には土地台帳はありません。
上に立つ両班が、「ここは俺の土地だ」と言ったら、そこがその両班の土地になりました。
それを全道を測量し、私有地を認めてあげたのは、日本です。

資源など何もなく、女性をセックスのために輸出する他、何の産物もなかったエリアが、いまでは世界第14位のGDPを持つ経済大国です。
全部、日本の技術です。そのどこが七奪なのでしょうか。

もう、日本は目をさます時です。

国家の安全保障を否定すると経済も医療も科学も学問も衰退する

20160427 地球_th

イザナキとイザナミは、最後のお別れのときに、千引岩を間に挟んで、
ミ「愛しき我が夫の命(みこと)よ、お前がこのようなことをなさるなら、私は汝の国の人草を一日に千人絞(くび)り殺しましょう」
キ「愛しき我が妻よ、おまえがそうするなら私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」
と対話しました。

一日1000の死と、1500の誕生なのですが、現在の地球全体での世界の人口は、1年に6千万人が亡くなり、1億3千万人が産まれているのだそうです。
もう少し細かく言うと、世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人増加しています。
いまや世界の人口は73億2366万人(2016年4月末現在)です。

先の大戦の頃の世界の人口は、約20億人でした。
もっとずっと昔の1万年前には、地球の人口は全世界で1万人だったそうです。

まさにいま、バンデミック状態で人口が激増しているわけですが、このままの調子で人口が増え続けると、あたりまえのことですが、食料不足がやってきます。

日本の食料自給率は、すでにカロリーベースで39%、つまり日本人は食料の受給の6割を輸入に頼っているわけです。
実に簡単な話ですが、どの国においても食料は、輸出よりも国内需要を優先します。
あたりまえです。
自国民の生存のために国家の政府があるのです。
その国の政府は、他国の人々の生存に責任を負っているわけではなく、自国の民の生存に責任を負っているのです。
民主主義国家なら、なおのことそうです。

つまり、世界の人口が増え、世界的に深刻な食料不足が起きると、食料自給率の低い国は、自国で食料を賄えない分、人が餓死して人口を減らすしかなくなってしまいます。
話を単純化していえば、日本の食料自給率が4割しかないということは、6割の人は死ななければならなくなるのです。

しかも、それは現在の話です。
日本の農家の平均年齢は、とっくに70歳を超えています。
あと30年経ったとき、日本国内には、ほとんどの農地も農家も、なくなってしまっている可能性があるのです。
おそらく、このままの調子でいくと、30年後には日本の自給率は10%以下になるであろうと予測されています。
そして世界的な食糧難が襲うということは、日本人は10人中9人までが餓死しなければならない事態が、あと30年のうちにはやってくるということになります。

日本のすぐちかくには、昔から一般民衆が食糧難状態におかれ、農業生産が間に合わない分、人の肉を食べることで、巨大な人口を保持してきた国がありますが、日本人にはそのようなことは、おそらくできません。
そして、自分が死ぬこと以上に、我が子の死を見るのは辛いことですし、まして餓死させるなど、考えもつかない恐ろしいことです。
けれど、そういう事態は、このままの日本の状態が進めば、必ずやってくるのです。

イスラエルはユダヤ人国家で、人口わずか800万人の国で、四方を敵に囲まれています。
2千年の時を越えて、やっと自分たちの国家を再興することができた彼らは、
ノーベル賞の受賞の22%、
数学者に送られるフィールズ賞の30%
チェスの世界チャンピオンの54%
ノーベル経済学賞の過半数を常に保持しています。

ドローンは、日本国内では問題視されましたが、これを開発したのもイスラエルで、軍事技術として開発されたドローンは、いまでは、蝿くらいの大きさの小型のものまで誕生しています。

そしてそのイスラエルは、砂漠にある国でありながら、世界有数の農業立国であり、食料自給率は100%をはるかに超えた、つまり、農業輸出国になっています。
つまりユダヤ人国家であるイスラエルは、砂漠国でありながら、予測される世界の人口増加に伴う食糧危機についてちゃんと準備し、研究を重ね、国民が決して飢えることがないように、先に手を打っているのです。

では、なぜイスラエルが、世界の最先端の科学者や経済学者を多数輩出し、また食料受給に関しても先進的な手を講ずることができる国家となっているのでしょうか。
実はその理由が、「国家の安全保障」なのです。

イスラエルでは、小学教育の段階から、国を護ることの大切さを教えられ、またイスラエルやユダヤ民族の歴史を正確に教えられます。
そして国民全員が、国家の安全保障について、しっかりとした認識を持つように国をあげて取り組みがなされています。

そのため、国民にはその基本的生き方として、国を護るために自分にできること、という思考が自然と備わっています。
ですから、学者さんであれば、国を護るために最先端の科学技術等の研究に取り組もうとするし、民間の産業分野においても、国を護るために必要な産業の育成が図られ、人々はそのために必要な努力を惜しみません。
そしてまた農業分野においても、極端な言い方をすれば、世界がなくなってもイスラエルの民だけは決して飢えることなく安心して暮らしていけるようにと、あらゆる努力が、国をあげて図られています。

つまり、国家の安全保障への自覚が、国民を豊かにし、安全に安心して暮らせる国家を形成させているのです。

実は、いま、日本に欠けている最大のポイントがここにあります。
日本は、占領憲法によって、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と前文で規定されているのです。

つまり国家の安全保障を、「他国の信義に信頼するだけで、自分たちでは何の努力もしませんし、させもしません」と、このように「決意した」と書かれているのです。
これでは国民から国家の安全保障意識がなくなるのもあたりまえです。

下にあるのは、日本の衛星写真です。
特に関東、愛知、東北の太平洋沿いで極端に緑が減っていることが、おわかりいただけるでしょうか。

20160427 日本列島_th

そもそもいま、世界にある多くの国家は、日本も含めて、いわゆる「国民国家」と呼ばれるものです。
国民が主役となって、国家を営み、それぞれの国ごとに自活の道を探していくというのが、国民国家です。
つまり、よく言われる「グローバル・スタンダード」というのは、実は、それぞれの「国民国家」が、自国が生き残るために、それぞれの立場でしのぎを削るというのが、現在の世界の標準なのです。

そして国家における国民国家の最大の使命は、自国民が、今も、これからも、いかにして豊かに安全に安心して暮らすことができるようにしていくかが、最大の使命であるということができます。
そして、この使命こそが、まさしく「国家の安全保障」の意味するところということができます。

国家が安全保障意識を失えば、早晩、世界中から食い物にされ、富を失い、安全も安心も失われます。
当然のことです。
長く続く不況?
あたりまえです。
国家が安全保障意識を失えば、その国の富は、奪われ、流出します。
私たち日本人が、いまを、そして、これからの未来を本当に豊かで安全で安心して暮らせる社会にしていくためには、国家の安全保障意識を、国民が共有していくこと。何よりもそこが本来の出発点であるということです。

つまり自国の安全保障について
国をあげて真正面から取り組んでいる国は経済も医療も科学も学問も発展し、
国をあげて真正面から否定している国は、経済も医療も科学も学問も衰退するのです。

日本人の生き方 醍醐忠重海軍中将

20160423 ヒナゲシ

写真は、この時期によく見かけるヒナゲシの花です。
ヒナゲシは虞美人草とも呼ばれ、花言葉はいたわり、思いやり、忍耐です。

日本人といえば、特定の三国を除いて、世界中の人々から勤勉、親切、真面目、正直、礼儀正しい、助け合う、優しい、協力的といったイメージを持たれているようですが、その実態は、思いやりと、忍耐力にあろうかと思います。
そこで今日は、日本人の生き方というタイトルで、醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将をご紹介したいと思います。
終戦当時日本海軍の第六艦隊司令長官だった方です。
第六艦隊は潜水艦隊です。

醍醐中将は、明治二十四(1891)年、名門貴族の醍醐家の嫡男として生まれました。
醍醐家は旧侯爵家です。
れっきとした華族のご出身です。

華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
けれど醍醐中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人でした。

醍醐忠重海軍中将
醍醐忠重海軍中将

醍醐中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めました。
けれど醍醐中将がまだ八歳の頃に他界しています。
母も相次いで亡くなりました。
醍醐忠重中将は、ですから孤児となって一條家にひきとられています。

子供の頃の醍醐中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業しました。
とても強かったそうです。

明治四十二(1900)年に、海軍兵学校に、第四十期生として入校しました。
入校時の成績は、百五十名中、百二十六番です。
それが入学後の猛勉強で、卒業時には百四十四名中、十七番になっていました。
たいへんな努力家でもあったのです。

兵学校で同期だった福留繁元海軍中将によると、兵学校当時の醍醐中将は、
「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、
上品で服装もきちんとしていた。
酒を飲んでも少しも乱れることはなく、
謹厳で、しかも謙譲な奴だった」そうです。

昔は、海軍兵学校で成績上位者は、一定の現場勤務のあと、海軍大学校に進学しました。
卒業すれば、高級士官になるからです。
けれど醍醐中将は現場勤務を選択し、巡洋戦艦「吾妻」の乗組員になりました。
そして大正六(1917)年に、初の潜水艦勤務に就きました。
このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生を決定づけました。

当時大尉だった醍醐中将は、練習艦隊参謀にという内示があったけれど断っています。
醍醐中将は生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行いました。
このとき醍醐中将が艦長を務める潜水艦は、たった一隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させるというはなれ業をやってのけています。

もちろん演習ですから実弾は使用していません。
けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく全滅させられたのです。
この手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれています。

昭和十三(1938)年、醍醐中将にご皇室の侍従武官の話がもちあがりました。
このとき彼が海軍大学校を出ていないからと反対意見があったそうです。
しかし人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官になっています。

当時を振り返って、入江侍従は、
「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

さて、戦争も末期となった昭和二十(1945)年五月のことです。
醍醐中将は第六艦隊司令長官に就任しました。
このとき第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えました。
潜水艦を愛し、潜水艦を知り、部下たちの心を理解する醍醐中将の長官就任は、まさに艦隊全員の喜びだったのです。
醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新されたといいます。

この頃、第六艦隊で、作戦可能な潜水艦はたったの九隻でした。
けれど醍醐中将が司令長官となった潜水艦隊は、以降、めざましい戦果をあげます。
重巡インデアナポリス撃沈。
駆逐艦アンダーヒル撃沈。
駆逐艦ギリガン大破。

インデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
そのインデアナポリスに、伊五十八潜水艦は、六本の魚雷を発射し、三本を命中させて撃沈しています。
このことを、当時のニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の一ページ」と書いています。

この頃の第六艦隊の潜水艦は、どれも人間魚雷「回天」を搭載していました。
醍醐中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与し、激励しました。
そのとき、出撃する「回天」の乗員ひとり一人と握手するとき、醍醐中将の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
優秀な若者を特攻させなければならないのです。
そのことに醍醐中将は深く悩んでいたのです。

終戦直後のことです。
艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。
このとき第六艦隊には、かなり巨額の金が残っていたのです。
そしてそのお金の処分が醍醐長官の決定に委されました。

醍醐中将は、
「このお金は国家のお金です。
ですから一銭たりとも私すべきものではありません。
何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談しました。

鳥巣参謀は、
「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。
本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、
この混乱の中ではとても手が回りかねます。
回天関係ならば全員わかっていますから」と答えました。
醍醐中将はこの方法に賛成し、即座に決定しました。

決定は、昭和二十一(1946)(年正月から春にかけて実行に移されました。
各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えました。遠距離でどうしても行けないところには郵送しました。

このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
以下にその弔辞を引用します。
わかりやすさを優先するために、いつものねず式で、現代語に訳してみます。

*****
【弔辞・謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ】

去る八月十五日、終戦の大詔下りました。
皇国は鉾(ほこ)を収めて、ポツダム宣言受諾のやむなきに至りました。
まことに痛恨のきわみにして、何をもってこれをたとえたらよいのか、言葉もありません。
散華されたみなさんの忠魂を思えば、哀々切々の情、胸に迫って胸が張り裂けんばかりです。

かえりみるに、みなさんには、志を立てて海軍に入り勇躍大東亜戦争に臨んでいただきました。
けれど戦い中途からの戦況は厳しく、そのためにみなさんは回天特別攻撃隊員となり、そして戦勢を挽回しようとしてくださいました。
その闘魂は、まことに鬼神をも泣かしむるものです。

みなさんは秋霜烈日の訓練に従事されました。
ひとたび出撃するや、必死必殺の体当り攻撃をして敵艦船を轟沈する偉功を樹ててくださいました。
そして、悠久の大義に殉じられました。
まことにその忠烈、万世に燦然と輝くものです。

けれど、みなさんの武勲が赫々(かくかく)たりしものであったにもかかわらず、戦い利あらず、ついに今日の悲運となりました。
いったい誰が、今日のこの事態を予期したことでしょうか。

私達は、みなさんの期待にそうことができませんでした。
ですから、みなさんの忠魂を慰めることなどできかねます。
ああ、なんと申し上げたら良いのでしょう。

けれど、みなさんの誠忠遺烈は、万古国民の精髄です。
必ずやみなさんの七生報国の精神は、脈々と続き、永遠に皇国を護ることでしょう。

今、皇国は、有志以来最大の苦難に直面しています。
今後におけるイバラの道は、実に計り知れません。

けれど、私達は必ずや、みなさんの特攻精神を継承し、たえがたきをたえ、忍び難きを忍び、もって新日本の建設に邁進することをお誓いします。

願わくば、やすらかにお眠りください。
ここに、敬弔の誠を捧げ、みなさんの英霊を慰める弔辞とします。

元第六艦隊司令長官
海軍中将 侯爵 醍醐忠重
**********

遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた人がいました。
彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共に喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になりました。
その話を聞いとき、鳥巣元参謀は心から喜ばれました。
「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」
しかしそのとき、醍醐中将はすでにこの世の人ではありませんでした。

昭和二十一(1946)年十二月のことです。
醍醐中将は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けました。
そしてその日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年二月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されました。

醍醐中将は、昭和十八年十一月から第二十二特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのです。
そこでポンチャナック事件に遭遇していたのです。
ポンチャナック事件というのは、概略次のような事件です。

昭和十八年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化させていました。
こういう作戦は、戦時においてはあたりまえのようにあったものです。
後方をかく乱させ、敵の戦力を削ぐために、反乱分子にカネや武器を渡して、その反抗をあおるのです。

ある日、ポンチャナックの特別警備隊長をしていた上杉敬明大尉のもとに、副隊長の中村少尉から、ある情報がもたらされました。
それは、十二月八日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を混ぜて、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものでした。

報告を受けた第二十二特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令しました。
そして調査の結果、逮捕された千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されました。

しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没しています。
つまり、逮捕した犯人を、別な島に送ることができない情況あったのです。

加えて日本軍の警備隊といっても、人数はたかだか百人ほどです。
逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかわからない。
いったん反乱が起きれば、むしろ日本側が全滅するのは目に見えています。
そこで司令部は、四月上旬、上杉大尉に彼らの即時処刑を命じました。

一方、終戦後のボルネオでは、逆に、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていました。
オランダにしてみれば、日本を追い出しさえすれば、ボルネオが手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ人を、ボルネオの人々は排除したがっていたのです。

そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、「君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ」という、報復裁判を演出しようと企図しました。
こうして醍醐中将は、戦争終結後一年半も経ってから、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されました。

このポンチヤナック刑務所というのがひどいところでした。
郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになります。
しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
貯めた天水には、ボウフラがわきました。
不衛生極まりない悪環境です。

昭和四十九年になって、上杉大尉と同期だった小説家の豊田穣氏がこの地を訪れているのですが、三十年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかったと、著書に書いています。

醍醐中将は、昭和二十二年二月にこの刑務所に入れられました。
刑務所の周囲には、深さ二メートルほどのドブがありました。
そこは猫の死体などが浮いていて臭気のひどいところでした。

看守は、そのドブさらいを醍醐中将に命じました。
普通、これはありえないことです。
海軍中将といえば、国際的には三ツ星のヴァイス・アドミラルです。
それだけの高官は、世界中どこに行っても敬意をもって迎えられるものだからです。

けれど、オランダの醍醐中将に対する措置は真逆でした。
それは、報復のためでした。
醍醐中将は、真っ暗なドブにもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけてドブの掃除をしました。
それだけではなく、毎日、笞で打たれたり、殴られたりもしました。
しかし醍醐中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしませんでした。

インドネシア人の看守は、ついに醍醐中将の堂々とした態度に心惹かれてしまいました。
そして、
「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになりました。

どのみち報復目的の一方的裁判です。
すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか三時間で終わりました。
そして十月三日、醍醐中将に死刑の判決が言い渡されました。

死刑の判決が出ると、その後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定するのです。
死刑が確定した時、通訳が醍醐中将にそのことを伝えました。
醍醐中将は、
「ありがとう。大変お世話になりました。
オランダの裁判官の皆さんに、
あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

処刑は民衆の面前で行なわれました。
処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

「醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、
身には真っ黒の洋服を着用、
頭にはラシャの帽子を被り、
目かくし布はなかった。
努めて平静の様子だった。
刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、
彼は国歌を歌った。
その歌調には壮絶なものがあった。
歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。
それが終わると、
直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、
全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。」

陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐中将の四カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐中将の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著「生命の実相」という本の行間に、針の穴で次の文を書き綴りました。
これはのちに彼の遺品として日本に返還されています。
そこには、次のように書いてあります。

「十二月五日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。
実に立派なものだ。
一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
かつて侍従武官までされた人だったのに。

十二月六日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。
その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
閣下は私のお貸しした『生命の実相』をよくお読みになり、
死の前日、そのお礼を申された。
閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。」

東日本大震災の現場でも、そして目下の熊本地震の避難所でも、たいへんな暮らしの中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がたくさんいます。
よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、
「顔晴る」なのだそうです。

醍醐中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。
華族でありながら、普通の日本人と一緒に働く方でした。
誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世しました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。

明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。
君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。

醍醐中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがあります。
醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

シビリアン・コントロールはなぜ危険か

20160423 オスプレイ

「シビリアン・コントロール」という言葉をみなさんご存知のことと思います。
英語では「civilian control of the military」です。
直訳すれば、軍人でない一般人(市民)による軍のコントロールで、日本語では「文民統制」と訳されます。

WIKIによれば、その意味は、
「民主主義国における
軍事に対する政治優先
または軍事力に対する
民主主義的統制のこと。
主権者である国民が、
選挙により選出された国民の代表を通じ、
軍事に対して、
最終的判断・決定権を持つという
国家安全保障政策における
民主主義の基本原則」と書かれています。
「主権者である国民が」としている点、いかにも戦後日本らしい思考回路で、これが「民主主義の基本原則」と書かれているわけです。

さらに続けて、
「民主主義国において戦争・平和の問題は、
国民の生命・身体の安全・自由に直結する、
最も重要な問題といえるからこそ、
主権者である国民が、国民の代表を通じて、
これを判断・決定する必要がある」のだそうです。

何度も繰り返しますが、主権在民というのは占領地における被占領国民の取扱いもしくは位置づけのことですので、これまた、きわめて戦後日本的思考ということができます。

ただし、国民主権という言葉を除けば、シビリアンコントロールに関する考え方は、世界の標準ということができようかと思いますし、また軍事が「国民の生命・身体の安全・自由に直結する重要な問題」であることも、間違いのない事実であろうかと思います。

ただし、大事な点に関する考察が、抜け落ちています。
それは、「意思決定権者の責任性」という問題です。

人の上に立つ者が行う意思決定は「権力」の行使です。
戦争を起こす、始める、維持継続する、終わらせるという大事は、誰かが決めなければならないことで、それを「武力を持った軍人が決めるのは危険だから、軍人でない者が決めることが正しい」という思想が、シビリアンコントロールです。
つまり、シビリアンコントロールは、国民によって選ばれた国民の代表が決めることであったとしても、それが最終的に「意思決定権の行使」であり、「権力の行使」となることは間違いのないことです。

そして本来、「権力」と「責任」はセットになるべきものです。
つまり、「意思決定」を行って「権力を行使」する者は、その決定した内容に「責任」を負います。
これは当然のことです。

逆に、「何の責任も負わない者が権力を行使して意思決定を行う」といことが、どれだけ危険なことなのかを考えれば、それがどれほどまでに短絡的で危険なことなのかは、あえて説明する必要すらないものであると思います。
毛沢東やスターリンや李承晩が、戦争でもないのに自国民を大量虐殺できたのは、彼ら自身が自国民をどれだけ殺しても、一切、その責任を追求される心配がなかったからです。

軍人は、ひとたび戦いが選択されれば、戦地に赴き、負ければ死にます。
戦いは常に命がけなのです。

これに対し、いくら国民の代表だとは言っても、文民は、戦って死ぬことはまずありません。
特に日本の軍人であれば、戦地で負ければ、たとえ戦闘で生き残ったとしても、自ら腹を斬るのが常識です。
軍人にとって、戦の勝ち負けは、まさに命がけなのです。

ところが文民には、戦争にせよ、戦闘にせよ、その勝敗についての責任がありません。
むしろ開戦にあたって文民の意思決定責任は、その戦いによって、自分がいくら儲かるかにあったりします。
戦争となれば、大金が動くのです。
大枚が動くところに関与すれば、必ずそのオコボレに預かることができます。
そして、戦争によって、どれだけ自国の軍人が死のうが、戦闘による死傷責任は軍人にあって、文民にはないとされます。

シビリアンコントロールと、カタカナ英語を書かれると、何やら素敵な思想のように見えますが、実は、これはとんでもなく大きな危険を内包している思想ということができるのです。

先の大戦を例にとってみます。
軍は政治に関与すべきではないというのは、実は明治時代からの日本の常識です。
江戸時代までは、戦は武士、つまり軍人が行うものでしたし、その意思決定も武士が行いました。

明治以降は四民平等となり、徴兵も敷かれて民間人も戦いに参加するようになりましたが、その分、ひとたび戦争が起きれば、徴兵された民間人が、軍人として死ぬことになりました。
また、第一次世界大戦以降の世界の戦争は、一般人が巻き込まれて死傷する事態が起きるようにもなりました。

日本は、戊辰戦争以降、昭和20年の大東亜戦争の終戦まで、わずか80年の間に、
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、第二次世界大戦と、大きな戦争だけで、なんと7度も行い、都度、多くの命が失われました。
そしてこれらの戦争のすべてが、実は「シビリアン・コントロール」のもとで行われています。
そしてひとたび戦争となれば、軍は命を賭けて戦いますし、敗れれば将校は腹を斬ります。

しかしその前に、「本来戦争は避けなければならないもの」であるはずなのです。
戦争が起こらないようにと、ありとあらゆる権限を与えられ、最大限の努力によって戦争を回避し、かつわが国の国民の生命財産の安全を保持するのが、本来の文官の役割です。
なぜなら、武官、文官を問わず、「国民が豊かに安全に安心して暮らせるようにする」ことが、「国家に与えられた最大の使命」であるからです。

整理すると、戦争を起こさないために、あらゆる権限を行使して戦争を避けるのが、文官の役割です。
ひとたび戦争となれば、命がけで戦うのが軍人の役割です。
繰り返しますが、「戦にならないようにするのは文官の役割」です。

つまり、戦が起きたということは、文官がその役割を全うできなかったということです。
ドンパチが起きないように、あらゆる権限を与えられている文官が、結果としてドンパチに至ったとするならば、それは「文官としての責任を果たせなかった」ということであるはずです。

そうであるならば、勇敢に戦って敗れた将軍の処罰をする前に、
「戦いが起きることを防ぐことができなかった文官」が、戦いが起きた責任をとって腹を斬る必要があるはずです。
権力というものは、常に責任とセットだからです。

戦を起こさないで平和を守るのが文人の役割です。
戦に勝利することで平和を守るのが武人の役割です。

武人は、敗れれば責任をとって腹を斬ります。
では、戦前の日本の文人で、戦が起きた時責任をとって腹を切った人がいたのでしょうか。
あるいは世界の指導者で、戦争を起こした指導者はたくさんいますけれど、戦争に至ったことを苦にして腹を切った指導者は、果たしているのでしょうか。

ルーズベルトは、「絶対に戦争を起こしません」と国民に約束して大統領になり、堂々と戦争を起こしました。
これは国民をたばかったことになります。
「戦争を起こしません」といって、ありとあらゆる権限を与えられた、つまり最高権力を与えられていながら、ルーズベルトは戦争を起こしたわけです。
ならば、開戦に至った時点で、自殺しないまでも、せめて大統領を辞任すべきです。
それがあるべき権力と責任の関係です。

「軍人は政治に介入すべきでない」と言われ、「シビリアン・コントロール」は、政治の常識であるかのように宣伝されていますが、では、戦争が起きたことについての責任をとって、腹を斬った文官が、歴史上、ひとりでもいたのでしょうか。

「シビリアン・コントロール」の目的は、どこまでも戦争を避けることにあります。
それならば、結果として戦争を招いてしまったなら、コントロールする立場にいた文民は、戦争を避けるために与えられた権力を十分に活用できずに戦争という現実を引き起こしているのですから、当然に責任を問われるべきです。

けれどシビリアン・コントロールによって防げなかった開戦の責任を、問うための仕組みや法すらできていないのが世界の現実です。
むしろ、少々露骨な言い方をするならば、戦を起こすことで文官は儲かり、軍人は死ぬのです。

ということは、シビリアンコントロールというのは、戦争が起きて多くの国民の命が失われても、ぜんぜん責任を問われることのない、むしろ戦争が起きることによって利益を得たり得なかったりする人たちが、実際の開戦にあたっての権限を、「責任をとることなく行使する」のがシビリアンコントロールということになります。

これは極めて恐ろしいことです。
軍人は、戦が起きれば死ぬのです。
文人は、戦を招いても死ぬ危険がないのです。
それでいて、開戦責任も、敗戦責任も、だれも取らないのです。

そういう責任のない人たちが、国民の生命財産の安全についての権力を行使しますというのが「シビリアン・コントロール」です。
そして、いまの日本では、それが疑いの余地のないほど正しいことであり、世界の常識であり、教育に必要なことであり、マスコミを通じて拡散すべきこととなっています。
これは恐ろしいことです。

軍人が開戦の意思決定をすることが良いということを申しているのではありません。
「シビリアン・コントロール」をいうなら、その統制する文民自身が、開戦責任をとらなければならないと申し上げています。

そもそも、絶対に鉄砲玉が飛んでこない安全なところにいて、戦争を回避するための全権を委ねられていながら、その責任をまっとうできないような者が、一切の責任を問われることなく開戦の意思決定権を持つのは、誰がどう考えても、おかしいと言わざるをえないのです。

文民は平和を守り戦争回避のために全力を挙げる。
戦争に至ったならば、それを回避できなかった文民は腹を斬る。
そして軍人は国を守るために全力で戦う。
戦争に敗れた将軍は腹を斬る。
シビリアンコントロールを言うのならば、それがあるべき姿なのではないかと思います。

責任を問われることのない者が、権力を行使するというのは、あってはならないことです。

リットン調査団

リットン調査団といえば、昭和7年3月に満州国の正統性をめぐって支那国民党の提訴に基いて国際連盟から満州に派遣された調査団です。
近現代史の重要なエポックであり、ご存知の方も多いかと思います。

リットン調査団は、満州に向かう途中、日本に立ち寄りました。
このとき日本国内では単に実務的かつ事務的な実情の説明会を開催し、海外の賓客として、型通り食事等のおもてなしをしました。
ここまではきわめて普通のことです。

続けてリットン調査団は、支那に渡り、そこで蒋介石率いる国民党のもてなしを受けました。
蒋介石は、港で調査団を盛大に迎えたあと、宿泊施設に調査団を案内しました。
その沿道には、あらかじめ多数の乞食や傷痍軍人が配置されていました。
そしてそれらがすべてが、日本軍の非道によってもたらされた惨状だと調査団に説明しました。
港での歓迎と、沿道の地獄絵図、それは見事な対比でした。

宿泊所では、リットン調査団のひとりひとりにに、最高の支那人美女の性接待が付きました。
そして調査団のひとりひとりに、中世支那の高価で贅沢な品物がプレゼントされました。
そして、それら高価な品々を生産できる支那が、日本の横暴によって破壊されているのだと調査団に告げました。

リットン調査団は、このあと満州に入り、実情をつぶさに調査しました。
そして結果は、日本が満州においてきわめて素晴らしい建国への協力を惜しみなく行っているという事実を全て認めながら、結論だけは違法な建国であり、日本の満州建国は許されるべきものではないとされました。

実際には、沿道にいた多数の乞食は、もともと支那社会の貧困がもたらしたものです。
並んでいた可哀想な傷痍軍人は、実は支那では、軍人とヤクザと暴徒は同じものです。
つまり、自分が悪いことをしたから怪我を負った者たちです。
性接待をした多数の美女たちは、言うことを聞かなければ自分が殺されるだけでなく親兄弟まで殺され食べられてしまうという恐怖を、しっかりと味合わされている女性たちでした。
また、多数の金品は、何もリットン調査団のために用意されたものではなく、もともとは清朝の紫禁城内にあった宝物を、国民党が勝手に横領強奪したものでした。

つまり国民党によるリットン調査団の出迎えは、すべて計算された籠絡でした。
日本が正直にありのままの実情を調査団に見てもらおう、何事も包み隠さず、良い所も悪いところも、彼らの第三者としての視点で自由に見ていただこうとしたのに対し、国民党は、まさに宣伝工作によって、リットン調査団を籠絡していたのです。
そして結果は、国民党の思う壺となりました。

支那社会では、カネと女で籠絡し、言うことを聞けば天国のような贅沢と大金と権力、言うことを聞かなければ地獄のような仕打ちを受けて殺されるという二者択一による工作は、これは古い昔から行われたあたりまえの方法です。
残念ながら、日本にはそのような風習はありません。
なぜなら日本は、神話の昔から、そのような籠絡を軽蔑し、正々堂々と事を前に進めるということが国のあるべき姿であり、常識とされてきたからです。

この姿勢は、古事記の国譲り神話にあります。
国譲り神話では、中つ国への降臨を指名された天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が、「下界は騒々しい」と言って帰ってしまわれたことから、天孫降臨のための下準備として天菩比神(おめのほひのかみ)、続けて天若日子が大国主神が治める葦原の中つ国に派遣されています。
けれど、天菩比神は大国主神に媚びて三年経っても復奏せず、次に派遣された天若日子も、大国主神の娘を充てがわれて八年経っても、復奏してきませんでした。

つまり、巨大な財力と武力、つまりウシハク権力によって籠絡されてしまうということは、実は神代の昔からあったわけです。
これに対抗しえたのは、建御雷神でした。
圧倒的な武力と、揺るぎない強い信念と責任感を持った建御雷神の登場によって、はじめてウシハク主が脱帽して、国譲りが行われています。

この国譲りを迫ったときの建御雷神は、出雲国の伊那佐(いなさ)の小浜(をはま)に降りると、波の上に十掬剣(とつかのつるぎ)を逆(さかさま)に立て、その剣の前(さき)におおあぐらをかいて座ると、真正面から堂々と大国主神に、
「汝(いまし)が宇志波祁流(うしはける)葦原中国は、
我が御子の知らす国ぞと言依(ことよ)さし賜ひき。
ゆえに汝(いまし)が心は奈何(いか)に」
と問うています。
そして大国主神が、「息子二人の意見を聞かないと」と言い訳をすると即座にこの二人を追い詰め、国譲りを承諾させています。

まさに「圧倒的な武力と、揺るぎない強い信念と責任感」のみが、買収に籠絡されない秘訣であることが、古事記に説かれているわけです。
逆にいえば、「圧倒的な武力と、揺るぎない強い信念と責任感」がなければ、ウシハク支配者からの籠絡を防ぐことはできないということも、この物語は示しています。

戦前において日本は、まさに文民統制によって、大陸への戦力の逐次導入を行いましたが、結果として十分な成果を上げることができませんでした。
そしていまでも、中共政府は、中共政府が行ってきた悪事の数々は、ことごとく日本によってもたらされたものだと国内で教育し、世界で宣伝しています。

戦前の軍人のみなさんが、「揺るぎない強い信念と責任感」を持って大陸に出兵していたことは事実です。
しかし、では「圧倒的な武力」を保持していたかといえば、それは違います。
武力では、良くてイーブン、多くの場合、むしろ装備の点では、英米独の後ろ盾を得た国民党軍の方が、優秀な装備を持っていました。
兵力に至っては、常に20倍から50倍の敵と戦うことが常でした。

振り返ってみれば、
1 圧倒的な武力
2 揺るぎない強い信念
3 責任感
のうち、2と3はあったけれど、1が欠けていました。

ではいまの日本はどうでしょう。
戦前と実は、何も変わっていないのではないでしょうか。
日本は、中共に対して圧倒的な武力を持っているどころか、中共政府が武力強化できるように資金援助までしているのが実態です。
情報面においても、ありとあらゆる捏造による情報操作をしてくる中共や韓国に対して、日本はほとんど一方的に言われっぱなしです。つまり圧倒的という意味では、捏造情報が、事実を情報量で上回っています。

では、揺るぎない信念はどうでしょうか。
学校教育の段階から反日教育を仕込まれ、テレビや映画では、リアルでは絶対に勝てないケンカの仕方しか放送されない。
特亜は、全然事実と異なるけれど、反日教育の成果として、日本は悪い国という揺るぎない信念を持っているのに対し、日本では、揺るぎない信念を持った人は職を追われたり逮捕されたりするというありさまです。

結局いまの日本が、日本として成立しているのは、自衛隊員の国を守る責任感と、米国の軍事力の傘の下にあるという、この2点だけが、かろうじて日本の主権を支えているということができます。

なかなか不況から抜けだせないでいる日本ですが、実は、日本が軍事を強化することは、景気を一変させるインパクトを持ちます。
実は、いまの内閣の経済対策が、かならずしもうまくいかなかった原因は、金融マンの世界では、しごくあたりまえのことでしかありません。

なぜなら、政府の景気対策金は、その多くが銀行に対して、貸付準備金として交付されるというカタチでした。
公共事業費にすれば世論の批判を浴びるということで、銀行に金を渡して、市中にばらまいてくれとやったわけです。
ところが銀行からみれば、貸せる先がないし、焦げ付けば不良資産になります。
そうやすやすとは金を貸せない。

企業もこのご時世です。
カネを借りたくない。
いくら金利ばかりを下げられても、いつ銀行にカネの回収を求められるかわからないご時世の中では、安心して銀行からカネを借りることなどできません。

また貸す側の銀行にしてみれば、こんなに金利が低ければ、リスクヘッジができないし、貸しても儲けがないのです。
そうなると、お金をただ銀行の金庫の中に寝かせるだけになり、結果として、お金は市場に流通しません。
あたりまえのことです。
だから、景気対策金に莫大な予算が計上されても、世間の景気は一向に良くなりません。

要するに、新たな産業振興(育成)による資金の循環がなければ、景気回復はありえないのです。
そして実は軍事は、ものすごい産業です。
では、日本国政府が、震災などの災害対策や情報面を含めて、自衛隊の国防予算を、年間20兆円、10年で総額200兆円の予算を組んだらどうなるでしょうか。
日本国内景気は、軍事関連需要によって、まちがいなくいっきに好転します。
同時に災害に強い国家つくりができ、さらに支那や韓国から舐められない国がまちがいなくできあがります。

要するに、責任を問われることのない、無責任な連中や政党が、国防をないがしろにし、国民が最も求める豊かで安全で安心な国作りを、阻害しているのです。

パチンコ産業にいくらカネを費やしても、日本の景気は良くならないし、日本の国際的地位もあがらないのです。
ところが国防に力をいれれば、日本の景気はいっきに回復するし、世界から侮られない日本が誕生するし、国民の生活は豊かになるし、安全になるし、安心して暮らせる社会が実現できるのです。
そして世界に向けて、堂々と、卑劣なインチキを告発することができるようになると、私は思います。

結果の出せる組織の大改造

20151108 天孫降臨

源頼朝が幕府を、京の都から遠く離れた鎌倉に置いたことはみなさまよくご存知のことと思います。
公家政治から武家政治へと、国家の政治組織の大改革を実現しようとするとき、その経営組織の要員をまるごと入れ替えることができるのなら、場所は京の都でも良かったのです。
けれど天皇を中心とした世の中という本質(国体)を崩すことなく、政治体制(政体)を改めようとするなら、政治の中心となる場所そのものを移動させる、その必要があったからこそ頼朝は幕府を鎌倉に開いています。

こうしたことがなぜ行われたのかを考えるには、まず日本神話が常識として共有されていなければなりません。
日本神話では、もともと大国主神が葦原の中つ国を治めていたとあります。
ところがその統治の在り方が、必ずしも高天原の意向に沿うものでなかった、つまりウシハク統治となり、その結果、狭いところに蝿がブンブンと飛び回るような騒々しさと、まるで悪鬼悪紳がはびこったような享楽社会に陥っていたわけです。

そのために天照大御神は、高天原と同じ統治が中つ国でもなされることを希望され、天孫を中つ国に派遣することを決断されます。
これが「天孫降臨」です。

 この「天孫降臨」は、いまでは話がものすごく単純化されていて、「天照大御神によって邇邇芸命(ににぎのみこと)が中つ国に降臨した」とだけしか理解されなくなってしまっていますが、実は全然違います。
どう違うかというと、まず天孫降臨をご決断されたのは、もちろん勅令は天照大御神のお名前によって発せられていますが、その政治的決断をしたのは、天照大御神を輔弼(ほひつ)された高木神と、八百万の神々との共同作業です。

つまり今風にいうなら、高木総理と閣僚たちが国会の承認を得て天孫降臨を決め、天照大御神の御名において、その命を下した、ということになります。
そういうことが明確に区別されるように古事記には書かれています。

そして天孫として、新たな統治者となるべく中つ国に降臨した邇邇芸命は、おひとりで降臨されたのではなくて、五伴緒(いつとものおのかみ)といって、5柱の神々を降臨に際して同行させています。
この五伴緒というのは、「伴」が技術集団、「緒」はその長(おさ)を意味します。
つまり五伴緒とは、「五組の技術集団の長」という意味です。

では、どのような長を同行させたのかというと、
天児屋命 「天児屋」は、天の小屋、つまり大工。
布刀玉命 「布刀玉」は、布(織物)や玉や刀等を製造する職人。
天宇受売命「天宇受」は、天の声を受ける巫女。
伊斯許理度売命 石(いし)の鋳型を用いて鏡を鋳造する職人。
玉祖命  勾玉などの宝玉を加工する職人。

つまり五伴緒のうち、天宇受売を除く4柱が全員「ものつくり」をする神様であり、その天宇受売は神々の命(みこと)を授かる神様ですから、簡単にいえば諸命をもって、「ものをつくる」集団が地上に派遣されて、それまでとはまったく別な政体を作ったということがわかります。

つまり「モノつくり国家」としての日本のカタチは、まさに邇邇芸命の時代に築かれたのですが、これはそれ以前にあった、社会体制とはまるで別なものです。
どういうことかというと、それまでの大国主神の国家では、人々が自己の欲望を満たすことを優先する社会が営まれていたわけです。
民衆がそれぞれに自己の欲望を満たすために努力する社会ですから、経済は発展します。
水上交通が盛んになり、交易圏が広がり、遠く朝鮮半島までが大国主神の版図にはいった様子が、古事記に描かれています。

ところが、人々が個々の欲望を満たすために生きるということは、互いに欲と欲がぶつかり合い、相手よりも少しでも優位に立とうとして、互いに競い合う社会となります。
人の欲望を満たせばカネになるわけですから、人々の欲望があおられ、より欲の深い者が自己の欲望を満たすために人を支配し、収奪します。

結果、交易圏は広がるものの、誰もが少しでも利得を得ようと騒ぎ立てていますから、世の中は騒々しくなるわけです。
そして騙し騙されの欲望や私心といった悪鬼悪神がはびこる世の中となり、その結果、世の景気が成長する一方で、圧倒的大多数の民衆は飢えと貧困下に置かれるわけです。

現在の世界は、おおむねこれに近い社会構造となっています。
そして先日書いたように、世界の人口の70%以上が電話を使ったことがなく、世界で3人に1人は戦時下に暮らし、タイガー・ウッズが帽子をかぶって得るスポンサー料が一日当たり5万5000ドルで、その帽子を作る工場労働者の年収の38年分という世が生まれているわけです。
つまり富がごく一部の人や地域に集中し、それ以外の圧倒的多数は貧困にあえぐ社会となってしまっていたのです。

そこでこれをどのように変えるか、ということで邇邇芸命が五伴緒を連れて派遣されてくるわけです。
邇邇芸命が五伴緒を連れてきたということは、それまで政治の中心にいた人々を、ほぼ全員政治の第一線から引退させ、人事を作新して、まったく新たな政治体制を築いたということをあらわします。

その政治体制が目指した統治が、「高天原」と同じ統治です。
ご存知の通り、高天原は神々のおわすところです。
そこにおわすのは、すべて神々ですから、一部の富者のために他が犠牲になるという社会構造ではありません。
すべての神々が神として尊重されるところです。
つまり、高天原と同じように、すべての民衆が、神と同様にその尊厳が認められる社会を築こうとしているわけです。

そしてそのために必要なことは、誰もが豊かになること。
そのためには、できあがった作物を奪う社会ではなく、「つくること」そのものが大切にされる社会へと変革が行われています。

欲望社会は自分のために「奪う」社会です。
ものつくり社会は、人のために「つくる」社会です。

そして欲望社会における政治は、ウシハク者の収奪のための政治です。
ものつくり社会における政治は、つくるためにひとりひとりが大切にされるシラス社会です。
そこでは政治は庶民の生活をサポートするものが政治、という位置関係です。

だからこそ天孫降臨に際して、モノ作りの神様が五伴緒として同行し、政治の中心地も、それまでの出雲ではなく、新たに日向の高千穂に、都が設けられているわけです。
鎌倉幕府も、これとまったく同じことをしたのです。

鎌倉幕府は武家幕府ですが、当時の武家は、ほぼ全員が農耕主でもあります。
わかりやすく言うならば、貴族政治を、農民政治にあらためようとしたのが鎌倉幕府なのであって、その農村の地主さんが御家人と呼ばれたわけです。

モノ作りではない点は、邇邇芸命と異なりますが、すでにこの時代には、政体に関わらずモノ作りは日本に完全に定着していたわけで、だからこそ、あらためて農耕を根底とした政権を、頼朝は誕生させているわけです。

しかもその政治の中心地は、大国主神のいた出雲ではなく宮崎の高千穂に天孫降臨したのと同様、それまでの政治の中心地であった京の都を離れて、鎌倉に幕府が開かれています。
つまり源頼朝の鎌倉幕府の設立は、その原型が神話の世にすでにあったことを、あらためて再現したものということができます。

いまの時代、頼朝が鎌倉幕府を開いたということは学校で教わっても、なぜ鎌倉に幕府を開いたのかについてを教わることはありません。
もちろんそれは諸説あることです。
どれが正しいとはいえないことであることも事実です。

けれど「どれが正しいかわからないから教えずに、そこは避けて通る」ということでは、教育の名に値しないと思います。
そうではなくて、「なぜそうした選択をしたのか」を考えながら、自分なりの答えを見出していくことこそ、新時代を切り開く知恵と勇気を与えることになるのだと思います。

日本は、天皇を中心とし、天皇によってすべての民衆が「おおみたから」とされるという根底があります。
これが日本の国の根幹のカタチで、これを「国体」と言います。
そして政治体制、つまり「政体」は、その国体の中にあります。
ですから、政体が変わっても、国体は変わりません。
むしろ、国体を維持するために、ドラスティックに政体を変えることが可能な組織が、日本という国家の特徴であるということができます。

このことは、たとえばある会社が経営方針の大転換を図ろうとするときに、同じことがいえます。
トップが経営方針を示すだけでは変わらないとき、おもいきった人事の作新によって、その新方針を明確にする。
そうすることで実は企業風土をいっきに変えることができます。

孫子の兵法で言う用兵は、「兵は拙速なるを聞く」「国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」「十なれば則ちこれを囲み、五なれば則ちこれを攻める」等々がありますが、用兵の迅速攻守において、何より大事なことは人であること、誰を用いるかにかかっていることは、およそ企業戦士であれば、誰でもが知ることです。

要するに人事こそが要諦で、古事記ではその人事については、シラス統治においても、トップである天皇(高天原なら天照大御神)が、絶対に手放してはならないものと書かれています。
そしてその人事は、部門の責任者を変えるだけでなく、方針を大きく変えるときは、その下にいるサブ・リーダーまでも含めて、いっきに作新しなければならないということが、実は古事記の天孫降臨にかかれているわけです。

いま、日本の統治をみると、なるほど国会与党第一党の党首が、行政府である内閣の総理となります。
そして総理は、閣僚(大臣)を任命します。
その総理には、各省庁の次官や、局長、部課長等の任命権はありません。
しかし、そこまで徹底しなければ、政体のカタチを大きく変更することはできません。

つまりいまの日本国憲法下の体制は、占領統治状態を「変えない」ことを前提にした憲法であり体制であるように見受けられます。
ということは、変えるときは天皇を中心とした国体によって、いっきにこれを変える。
いまの体制護持では、実は何も変わらないのです。

このようなことを書くと、過激派扱いされてしまいそうですが、そうではなくて、変えることを急ぐのではなく、まずは日本人が日本人としての文化意識をしっかりと取り戻す。
それだけなら、どういう体制下にあるかを問わず、人々の問題意識だけで実現が可能なことだと思うのです。
そして人事や場所も含めて政体の抜本的な見直しをするのは、次のステップへの準備なのではないかと思います。
言い換えれば、次の体制、求める政体への十分な確信と準備がなく、拙速にそれを求めることは、かえって世を荒らす原因(もと)になってしまうのではないかと思います。

もっとも、現実の問題として、日本人のふりをした日本人でない人たちの排除は、喫緊の課題ですが、これは政体の問題というよりも、むしろ犯罪者撲滅の議論に近いと思っています。

世界虐殺者ランキング

この顔見つけたらご用心
20160419 1925年ころの毛沢東
1925年ころの毛沢東

上にある写真は、1925年ころの毛沢東なのだそうです。
32歳です。
「こんな顔を見つけたらご用心」と申し上げたいと思います。

「世界虐殺者ランキング」というものがあります。
第一位は、毛沢東です。
なんと、7,800万人を殺害しています。
さほど遠くない未来、歴史が思想抜きに見直されたとき、人類史上最悪の魔人といえば、この人を指すようになるのではないかと思います。

第二位は、ソ連のヨシフ・スターリンです。
2,300万人を殺したと言われています。
日本人の中には、いまでも旧ソ連を人類の理想国家と思い込み、このヨシフ・スターリンから名前をとったりしている人がいたりします。
ソ連はとっくに崩壊しましたが、それでもこの悪魔性に気付かない、おかしな人が日本人の中にいまだに存在しているということは、世界的に見ても極めて異常なことということができます。

第三位は、カンボジアのポル・ポトです。
なんと170万人を殺害しています。

第四位は、北朝鮮の金日成です。
160万人を殺害しています。

第五位が、韓国の初代大統領の李承晩です。
自国民を恐怖して150万人も殺しまくりました。

日本が侵略しただの虐殺しただのとかしましく宣伝されていますが、そのような事実はありません。
むしろ、当時の支那においてなら、国民党兵は国際法に言う軍人として制服を着用し、公然と武器を携帯していた者はごく一部であり、他の大勢は、武器を隠し持った便衣兵でした。

たとえばもし、日本が米国によって占領統治されている時期に、日本人が民間人の服装をしたまま武器を隠し持ち、日本国内といわず、世界各地で殺人行為を繰り返していたなら、世界各国から、日本人というだけで、逮捕され、殺されても文句がいえません。
なぜなら、一部の日本人が民間人の服装で殺戮行為を繰り返していていて、日本国政府なり指導部なりがそれを黙認しているのなら、それは日本人自らが、軍人同士の正々堂々の戦いではなく、民間人と軍人との戦いを望んだことになるからです。
したがってこの場合、日本人が降参しないかぎり、1億全員殺されても文句を言えないし、日本人を殺すことが正当な行為と国際社会ではみなされるのです。

世界の民族紛争と呼ばれる紛争の恐ろしさがここにあります。
軍隊は、軍人が軍人としての服装をし、あきらかに兵士とわかるように武器を携帯し、そして大事なことは、必ず指揮官が存在します。
最初の指揮官が仮に戦死しても、最後の一兵まで順番と序列が決まっていますから、上官によって白旗が掲げられれば、それ以上に無用な殺戮を防ぐことができるし、停戦の交渉もその名宛人が明確です。

ところが民間人や便衣兵というものは、誰が兵なのかがわからないのみならず、指揮官の存在も不明なのです。
こうなると、停戦も休戦も降参もできなくなります。
どこまでも際限のない殺戮を継続させるしかなくなるのです。
世界の民族紛争が凄惨な現場となるのは、まさにこういうことに端を発します。

逆にいえば、支那にいた日本軍が、敵が便衣兵でありながら、その便衣兵に日本の兵士が殺されてもなお、軍人として常に正々堂々の戦いを挑んだということは、世界的にみても、これは実は「ありえない自制心」によるものということができます。
そもそも便衣兵であっても、それを民間人とみなして(日本人の兵隊さんが何人殺されてもなお)保護しているのです。
これは賞賛されこそすれ、文句を言われる筋合いなど、毛ほどもないのです。

それよりもむしろ毛沢東にせよ、李承晩にせよ、戦争でもないのに、自国民を公然と殺しまくっています。
その事実についての総括さえもまったくできていないような情けない国に、日本が戦前戦中のことでいちいち文句を言われる筋合いなど、まったくないのです。

なるほど戦時においては、たくさん殺した人が英雄です。
けれど、平時においてそれを行えば、それは単なる殺人鬼です。
そのような殺人鬼が、建国の父となっていて、そのことについて、何の自浄作用も働かせることができないというのは、これはもう恥ずかしいを通り越して、人畜以下です。
はっきりいって、ケモノだって、そんな虐殺はしません。

日本人の感覚からしますと、たとえば駐車違反で捕まったときに、
「違反しているのはワシだけやないやんけ!
なんで他の車を取り締まらんのや、ドアホ!」
などと、自分のことをタナにあげて、相手をこき下ろすというのは、良識としてありえないものです。

けれど、支那朝鮮に関しては、まさに「自国のことをタナにあげて、日本をこき下ろす」ことが、国家の柱になっているわけです。
どうしてそのようなものに、日本人がまともに相手をしなければならないのか。
相手のいうことに不条理があれば、顔を洗って出直してこい!というのが、日本人の姿勢であるべきです。

あまりにも情けない戦後教育

20160419 戦前の授業風景

戦後教育で神話教育が奪われたのは、もともとはGHQのWGIPの一環としての「4大教育司令」によります。
このため、神話教育が奪われ、戦後生まれの私たちは、義務教育期間中に学校で神話を学ぶことがありません。
また義務教育以外では、せいぜいグリム童話やイソップ物語と同じ延長線上のものとしてしか、日本神話を学ぶ機会がありません。
高校、大学や社会人以降となると、古事記を学ぶとはいっても、文章が古くてむつかしい言い回しになってはいるものの、内容的には、やはり童話の延長線上の解釈しか、現実に提示されていないのが現状です。

ところが私たちの先輩は、みなさんこぞって「神話を読め学べ」とおっしゃいます。
そこに日本の心のすべてがある。
日本人として大切なことが全部書かれているのだとおっしゃいます。

けれど、そう思って古事記や日本神話を読んでも、頭が八つあるキングギドラのような大蛇が出てきたので酒を呑ませてやっつけたとか、大国主神はウサギと話すことができたとか、そういう筋書きしか書いてありません。
現職世代といいますか、いま現役のビジネスマンとして、バリバリに責任あるお仕事をされている方々、毎日忙しい日々を送られている方々が、「大蛇が酒を飲んだ」とか「ウサギとお話した」とかいう話を聞いて、「なるほどこれが日本的精神の根幹か!」と思えるとしたら、見方によっては、それはちょっと変わった方かもしれません。
むしろ「その話のどこが、何が大事なのか?」と疑問を抱かれることの方が、正常な精神の持ち主といえるのではないでしょうか。

もちろん、最初に筋書きを学ぶことは大切です。
幼児教育の一環として、そうした全体の筋書きが頭にはいっていれば、次のステップとして、そこから何を得るか、何を学ぶかという話になってこようかと思います。
ものごとを理解するには、
まず、全体像を把握する。
次いで、部分の深掘りをする、
という順番が必要であると思うからです。

つまり、先輩諸氏は、その深掘りした何かをご存知だから、「神話を学べ」とおっしゃるわけです。
ところが私たちに提供されている情報は、全体像の把握に必要な「あらまし」だけで、それが何を意味しているのか、何を学び取るべきなのかを示す、深掘り情報の提供が、実はまったくなされていないのです。
そこに大きな世代の断絶というか、思考や学びの落差があります。

小学校1〜2年生の子供が神話を習うなら、キングギドラやウサギさんのお話でも良いのです。
たとえば因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)なら、
「むかしむかしね、ウサギさんが
海を渡ろうとして、サメを騙したの。
そしたらサメが怒ってね、
ウサギさんの毛を剥いでしまったの。
こわいわよね。
だからね、人を騙したりしてはいけないの。
それで大怪我をしたウサギさんをね、
オオナムチっていう若者が助けてあげたの。
オオナムチっていう人はね、
そういうやさしい人だったから、
末には大いなる国の主の神様になったのよ。
だからね、偉くなる人は、心にやさしさが大事なの。
◯◯ちゃん、わかる?」

といった物語という理解で、それは足りるのです。
けれど、戦前、戦中は、神話は何も小学校1〜2年生の授業ではなく、尋常小学校の高学年でも学んだし、中学でも学んだのです。
それが果たして、上にあるものと同じ話だったのでしょうか。

実は全然違うのです。
そこで、まず全体像の把握をしてみます。
だいたい次のような展開になります。

大国主神には、たくさんの兄たち(八十神)がいた。
八十神たちは、美人の誉れ高い隣国の美女、八上比売(やがみひめ)をめとろうと、出雲に向かった。
当時は通い婚社会であった。
通い婚は、勝手に夜這いして子を孕ませるという乱暴なものではない。それでは強姦になってしう。
娘の両親とも面会して、この男性なら!と見込まれて、はじめて通うことが許された。
だから八十神たちは、ウサギ(弱者)を騙した(傷口に塩を塗りこんで痛みを増させた)という悪さがバレて、結局縁談を断られている。
ウサギを誠実に助けた大穴牟遅神(おおなむち=大国主神の若いころの名前)は、その誠実さが認められて、八上比売と結ばれる。
ところが、これが八十神達の妬(ねた)みを生む。
妬みは恐ろしい。
彼らは大穴牟遅神を亡き者にしようと、真っ赤に焼いた石を抱かせたり、木の俣に挟み込んで身動きができないようにして殴りつけたりと、乱暴狼藉をはたらいた。
いまでいうイジメである。
あまりのイジメの残酷さに、耐えかねた大穴牟遅神は、親戚の須佐之男命(すさのお)を頼って根の堅州国に逃げる。
そこで須佐之男命の娘の須勢理毘売(すせりひめ)と出会って、父の須佐之男命から婚約者であることを認められる。
ただし武勇をもって知られる須佐之男命にしてみれば、ただイジメられて逃げるしか能のないような男では、大事な娘の婿にするわけにいかない。
そこで大穴牟遅神を、蛇の部屋、ムカデの部屋、蜂の部屋に閉じ込めて訓練を施す。
大穴牟遅神は、須勢理毘売から受け取っていたヒレ(肩衣のこと)を振ることで、蛇やムカデや蜂を退散させ、朝までぐっすりと眠ることができた。

さて、ここまでのお話の前段で、人を騙したりせずに、誠実に生きていることが、良い女性と結ばれるのに必要なことであることは、わかったと思います。
しかしそれが原因で、妬まれ、イジメを受けることがあることもご理解いただけたかと思います。
大穴牟遅は、良い男です。
ウサギを助けていますし、八上比売の両親も結婚を認めているわけですし、須勢理毘売に一目惚れされているくらいの男なのですから、きっと性格も良く、古代の医療技術を身に着けているという優秀さも持ち、見た目も素敵な良い男であったろうことは容易に想像がつきます。
ところが彼は、八十神たちにイジメを受けています。
つまり、弱いのです。
不条理に対する戦いの術を持っていないのです。

須佐之男命は、娘の婚約者である彼を、蜂やムカデや蛇の部屋に入れています。
では、それは何のためだったのでしょうか。
須勢理毘売のヒレ(肩衣のこと。布でできたショール)を振ったら、蛇やムカデが退散してくれたので「ぐっすり眠れた」とありますが、軟弱な男を一人前に鍛えるために必要なことは、「ぐっすり眠る」ことなのでしょうか。
それとも「ヒレをパタパタと振る」ことなのでしょうか。

最近、書店さんの店頭で売られている古事記の本は、どの本をご欄いただいても良いのですが、すべて、「須佐之男命が蛇や蜂の部屋に閉じ込めたが、須勢理毘売の機転によって、大穴牟遅神はぐっすりと眠れた」というようにしか書かれていません。
もちろん、筋書きはそのように古事記に書かれています。
けれど、須勢理毘売の父親の身になって考えてみてください。
娘の旦那になるということは、そこから生まれる子は、自分の子孫です。
その子孫が軟弱な子孫になっては、家が持たない。
娘の旦那は、見た目が良くて、頭が良いばかりではなく、同時に強い男であってもらわなければ困るのです。
つまり、強くない(=弱い)ということは、男として、それだけで半人前なのです。

だからこそ須佐之男命は、娘の彼を蛇や蜂の部屋に入れています。
ということは、半人前の男を一人前に鍛えあげるのに必要なことは、「ヒレを振ってぐっすり眠る」ことなのでしょうか。
そもそもこの大国主神神話というのは、はじめ、人が良いだけでイジメられっ子だった青年が、後には大いなる国の主(大国主神)になったという物語です。

つまり、見た目が良くて頭も良いけれど、弱虫で、みんなからイジメられっぱなしだった男が、ある機会を経て、そこから立ち上がり、偉大な王にまで成長したという物語です。
西洋の童話風に言うなら、「アーサー王は何故、歴史に残る偉大な王となることができたのか」を描いたのが、大国主神神話です。

その理由が「ヒレを振ってぐっすり寝た」としか読めないことが問題なのです。
戦前の尋常小学校や国民学校の教室なら、ここで先生が、
「では、蛇やムカデや蜂は、何を意味しているのか、みんなで考えてみよう!」と声をかけたわけです。

生徒たちは、子供でも、ちょっと考えればここで答えがわかります。
蛇は「手も足もでない苦境」です。
ムカデは「たくさんの選択肢に迷う葛藤」です。
蜂は「心身の苦痛」です。
これらを、いかにして乗り越えるのかを、須佐之男命は大穴牟遅神に学ばせているのです。
そして、苦境や葛藤や痛みを乗り越えのに必要な力は、愛する者の支えと、愛する者をいかにして守ろうとするかにあることがここで教えられます。

八十神たちに命を奪われるほどのイジメを受けているというときに、これに打ち勝つために必要なことは、喧嘩に強くなること、腕を磨き体力を付けるということの前に、何より「愛する者を守ろう」とする覚悟が大事だと教えられたわけです。
自分一人なら、イジメられたらガマンするだけでも足りるかもしれません。
あるいは、そこから逃げ出すことだけで良いのかもしれません。
しかし愛する者ができたとき、その愛する者を守るためには、愛する者とともに、互いに支えあい、それを乗り越えていかなければならないのです。
そしてその「乗り越える力」というのは、まさに愛の力そのものであるということが、ここに書かれていることと学ぶわけです。

手も足も出ない苦境や、たくさんの選択肢に迷う葛藤や、心身の苦痛は、人生のあらゆる場において現実に必ず起こることです。
そしてそれは「乗り越えなければならない試練」でもあります。
これを乗り越えるには、何より愛の力が大事だということを、ここで学ぶのです。

こういうことは、物語の上辺だけを読んで、「ヒレを振ってぐっすり寝た」としてしかこの物語を理解しなのと、そういう深いところまでをしっかりと学ぶことでは、教育という面から見た時、あるいは人を育てるという点から見た時、まさに雲泥の差となってあらわれます。

このようなことを書きますと、
「なるほど良い話を聞きました。ついては、そのことがどの本に書かれているかを教えて下さい」というコメントが毎度必ずつきます。
申し訳ないけれど、そんなことはどこにも書かれていません。

理由は、簡単です。
ひとつは、こんなことは、かつての日本では、そのようなことは自慢気に本にしなければならないようなことではなくて、あたりまえの常識に他ならなかったことであったこと。
もうひとつは、何かに書かれているものを紹介するだけなら、むしろその本を紹介すれば足りることで、私の解説など必要無いということです。

どこかの本の引用なら、その本を紹介すればことが足りるのです。
書いてないから、書くのです。
あまりにもあたりまえすぎて、かつては書く必要さえないほどあたりまえだった常識であり、小学生でもわかったようなお話が、いまでは、大人になっても気付かない、そのことをちゃんと書いている本がないから、書いているのです。
70年前なら、こんなことを書いたら、逆に馬鹿にされます。

東南アジアの人々は、日本人と支那人や韓国人を簡単に見分けます。
実に簡単です。
ご飯を食べ終えたとき、日本人は食後に不思議なじゅもんを唱えるのです。
だから日本人とわかります。
支那人や韓国人には、それがありません。

日本人にとっては、食後に「ごちそうさまでした」というのは、ただの常識です。
それは空気のようにあたりまえの習慣です。
ですから日本人に「どうして食後に呪文を唱えるのか」と聞いても、答えられる人はあまりいませんし、「なぜ日本人は食後にごちそうさまと言うのか」について書かれた本も、ありません。
それが日本人にとって、あまりにあたりまえのことだからです。
つまり、あたりまえのことは本になど書かれていないし、書く人もいないということです。
けれど、それが失われたなら、書かなければなりません。

インパールの戦いで7万人の日本兵、つまり若い日本人男性が戦場から引き揚げてくる時、そのうちの約5万人が街道筋で餓死しました。
日本兵の遺体が延々と並んだその街道は、後に白骨街道と呼ばれています。
日本人の白骨が街道に連なったからです。

ところが、この街道の両脇は農地です。
場所は熱帯ですから、年中、そこには作物が稔っているのです。
つまり道端には、食べ物がたくさんあったのです。
にもかかわらず、日本の若い軍人さんたちは、餓死しました。
なぜでしょうか。
その作物を、勝手に泥棒して食べるということをしなかったからです。

ところがインパールの戦いを書いた戦記や体験記で、「私は路肩の農作物をひとつも泥棒しませんでした」などと自慢気に書いている本など、ひとつもありません。
たとえ飢え死にしても、人のものを盗らない。
そんなことは、あまりにもあたりまえの常識だったし、それを自慢気に書きでもしたら、それこそ戦友たちから馬鹿にされたからです。
ところがこのことは、世界の戦の敗残兵という視点でみたら、とてつもなく、ありえないことです。

しかし「書いてないから、なかった」ことにするには、あまりに悲しすぎる出来事です。
だからかつての常識が通用しなくなった今、これはあらためて書くべきことになっています。
なぜなら、歴史は学ぶものだからです。

神話も同じです。
大国主神の物語が成長の物語なら、その成長のいわば、ターニングポイントになったのが、ウサギとの出会いであり、蛇や蜂の部屋であるわけです。
そうであるなら、その「何が成長を促したのか」を考え、読み取ることが大事なのではないかと思います。

(昔)
「この和歌は、恋の歌です。」
「どうしてですか?」
「はい。タイトルに『恋』と書いてあります」
「不正解です。もういちど勉強してきなさい」

(いま)
「この和歌は、恋の歌です。」
「どうしてですか?」
「はい。タイトルに『恋』と書いてあります」
「正解です。たいへんよくできました」

日本人がアホになるわけです。