カテゴリー別アーカイブ: 中村信一様のフェイスブックより

戦後70年を経過し、今上天皇陛下の御誕生日にいわゆるA級戦犯として処刑されてしまった英霊たちの名誉回復をするとともに東京裁判自体が公正を著しく欠く違法裁判であったことを知るべきです。

この東京裁判の違法性、大東亜戦争の真実、A級B級戦犯とされた英霊らの名誉を回復し初めて日本は国体を正すことができるのではないでしょうか?

「東京裁判終了後にウエップ裁判長もキーナン主席検事も『この裁判は誤り』だったと述べている。また、連合国軍最高司令官のダグラス・マッカサーも昭和26年のアメリカ合衆国上院議会 軍事外交合同会議でも『彼等が戦争に飛び込んで行った動機は大部分が安全保障に迫られたもので自尊自衛の戦いであった』と証言をしている。そしてインド代表のラダ・ビノード・パル判事は「この裁判は日本が侵略戦争したのかを審議するのではなく、最初から侵略戦争をしたという前提に基づいての審議をし、大衆の心を支配しようとした』と批判した。更にパル判事は『検察側の日本の侵略戦争の歩みを歴史の偽造』と断言した。」

ということで後世、この東京裁判においての裁判長、主要検事、そして連合国軍最高司令官のダグラスマッカーサーまでもが東京裁判が誤りであったこと、日本が追い詰めら自衛のための戦争であったことを証言し認めている。

にもかかわらず土下座外交なるものを展開し、中国にはODAを与え続けた。 この東京裁判を裏で操り、日本へ行った未曾有の大虐殺(東京大空襲、広島、長崎への原爆投下)への国際軍法上の著しい違反を覆い隠すために日本軍が大変悪いという印象を作るために、米軍閥(第二次大戦で一番儲けたDロックフェラーら)は中国共産党と共謀して南京虐殺を捏造したり戦後日本軍悪のプロパガンダにした。

A級戦犯とされた、東条英機、板垣征四郎、松岡洋右は本当に悪人だったのか?

1940年ナチスドイツの迫害から逃れてきたユダヤ難民6.000人以上の命を救うビザを発給した外交官 杉原千畝氏の話は有名だが。

しかし、未だに杉原氏が日本政府の方針に反してビザを発給したと信じられている。

ビザ発給には杉原個人の機転や勇気が必要だったことは確かで彼の名声が変わることはない。

だがそれを支えたのが同盟国ドイツの圧力をはねのけ、民族差別をしないという「八紘一宇」の主張を守り抜いた日本政府の方針だったことはあまり知られていない。

実はユダヤ難民を救った日本人は杉原氏のみではない事を日本人は知るべきだと思う。

その2年前にナチスから逃れたシベリア横断時に凍死の危機にさらされたユダヤ難民を救ったのが関東軍の樋口李一郎少将。

樋口少将がユダヤ難民輸送列車の手配を満鉄総裁に依頼、満鉄総裁はユダヤ難民を無賃輸送するように指示をした。

その後も無賃輸送は続けられた。

その満鉄総裁は誰であろう?

A級戦犯とされた松岡洋右氏である。

一方これに対し、ナチスドイツから抗議が来て、樋口少将は関東軍参謀長に事情聴取を受けた。

だが参謀長は樋口少将の意見に賛同してナチスドイツの抗議をはねのけ、その後も同じルートでユダヤ難民を避難させ続けたのである。

その参謀長とは誰であろう?

悪の根源と言われ、A級戦犯とされた東条英機である。

同年12月、首相、外相、蔵相、陸相、海相の五大臣による五相会議で「猶太人対策要網」が策定されユダヤ人を排斥しないということが正式に日本の国策となったのである。

しかし、こういう問題は本来外務大臣の所管であり、しかし樋口少将の補佐などを務め、満州におけるユダヤ難民保護の方針を策定した安江仙弘大佐が陸軍大臣に意見をした。

これに共感した陸軍大臣が五相会議に提案し、国策として成立させたのです。

その陸軍大臣とは誰であろう?

満州事変の首謀者と言う事で、いわゆるA級戦犯の中で東条英機の次に悪者扱いされた板垣征四郎である。

この、いわゆるA級戦犯の中でも最も評判の悪い3人こそが数万人のユダヤ難民救済に欠かせない役割を果たしたのである。

そして、杉原千畝の勇気ある行動を支えたのがいわゆるA級戦犯、板垣征四郎らの尽力によって成立したユダヤ人差別せずの国策だったのです。

その行動は天皇陛下の万民へのご慈悲に従って動いたのです。

12月23日、先の皇太子殿下のお誕生日に7人の戦犯と呼ばれる日本人が処刑された。

東京裁判の一連の流れは歴史上類を見ない国際法無視の報復裁判であった。

これからの世界がこの様な虚偽と欺瞞の時代を続けないように日本人こそが目を覚まさなければならない。

これは今なお続く日本国国體へ向けられた侮辱である。

補足;東條由布子のHPより

昭 和27年、4,000万人もの国民の署名を元に、異国の軍事法廷から所謂戦犯とされた同胞を救出し、超党派の決議で、全ての所謂戦争犯罪者を「法務死」という呼称に変え、日本には戦争犯罪者は一人も居ないと閣議決定したこと。

村山談話も閣議決定なら「法務死」も閣議決定です。

しかし、国民の意識としてこの法務死などということばは浸透していない。

まだ多くの国民が戦後の洗脳教育から日本軍悪、戦犯という意識が大半ではないだろうか。

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「マッカーサーの告白」

日本の皆さん、先の大戦はアメリカが悪かったのです。日本は何も悪くありません。日本は自衛戦争をしたのです。

イギリスのチャーチルに頼まれて、対ドイツ参戦の口実として、日本を対米戦争に追い込んだのです。アメリカは日本を戦争に誘い込むためにイジメにイジメぬきました。そして最後通牒としてハルノートを突き付けました。

中国大陸から出て行けだの、石油を輸入させないなど、アメリカに何の権利があったというのでしょう。当時、アジアのほとんどの国が白人の植民地でした。白人はよくて日本人は許さなかったのです。ハルノートのことは、私もアメリカの国民も知りませんでした。

あんな物を突き付けられたら、どんな小さな国でも戦争に立ち上がるでしょう。戦争になれば圧倒的な武力でアメリカが勝つことは戦う前から分かっていました。我々は戦後、日本が二度と白人支配の脅威とならないよう周到な計画を建てました。アメリカは知っていたのです。国を弱体化する一番の方法はその国から自信と誇りを奪い、歴史を捏造することだと。

戦後アメリカはそれを忠実に実行していきました。日本がアジアを白人の植民地から解放しようとしたという本当の理由を隠すため大東亜戦争という名称を禁止し代わりに太平洋戦争という名称を使わせました。

東京裁判はお芝居だったのです。アメリカが作った憲法を日本に押し付け、戦争ができない国にしました。公職追放をしてまともな日本人を追い払い、代わりに反日的な左翼分子を大学など要職にばら撒きました。
その教え子たちが今マスコミ・政界などで反日活動をしているのです。

徹底的に検閲を行い、アメリカにとって都合の悪い情報は日本国民に知らせないようにしました。ラジオ・テレビを使って戦前の日本は悪い国だった、戦争に負けて良かったのだと日本国民を騙しました。これらの政策が功を奏し今に至るまで独立国として自立できない状態が続いているのです。(※註:1951年の時点で正気に帰ったマッカーサーが、この今に続く問題を憂いている)

私は反省しています。自虐史観を持つべきは、日本ではなくアメリカなのです。戦争終結に不必要な原子爆弾を二つも使って何十万人という民間人を虐殺しました。最後に私が生きていた時の証言を記して謝罪の言葉としたいと思います。

「私は日本について誤解をしていました。日本の戦争の目的は侵略ではなく自衛のためだったのです。太平洋において米国が過去百年間に犯した最大の過ちは、共産主義を中国において強大にさせたことでした。東京裁判は誤りだったのです。

日本は八千万人に近い膨大な人口を抱え、その半分が農業人口で、あとの半分が工業生産に従事していました。潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接した何れにも劣らぬ優秀なものです。
歴史上のどの時点においてか、日本の労働力は人間が怠けているときよりも働き、生産している時の方が幸福なのだということ、つまり労働の尊厳と呼んでよいようなものを発見していたのです。

これまで巨大な労働力を持っているということは、彼らには何か働くための材料が必要だという事を意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有していました。しかし彼らには手を加えるべき材料を得ることができませんでした。

日本原産の動植物は、蚕を除いてほとんどないも同然でした。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、他にもないものばかりでした。その全てがアジアの海域に存在したのです。
もしこれらの原料の供給を絶ちきられたら一千万から一千二百万の失業者が日本に発生するであろうことを彼らは恐れたのです。
したがって日本が戦争に飛び込んでいった動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったのです」

アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて
1951年5月3日
ダグラス・マッカーサー

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震えるほど泣けてくる

終戦時において陛下に対する占領軍としての料理の仕方は、四つありました。

一つは東京裁判に引き出し、これを絞首刑にする。

一つは共産党をおだてあげ、人民裁判の名においてこれを血祭りにあげる。

三番目は、中国へ亡命させて中国で殺す。

そうでなければ、二〇個師団の兵力に相当するかと怯えた彼らです。

また第四番目は、闇から闇へ、一服もることによって陛下を葬り去ることでありました。

いずれにしても、 陛下は殺される運命にあったのです。

天皇は馬鹿か、気狂いか、偉大なる聖者か、いつでもつかまえられる。

かつては一万八〇〇〇人の近衛師団に守られたかもしれないが、
今や全くの護衛を持たずして、二重橋の向こうにいる。…

陛下の割腹自刃の計画は、三度ありました。

貞明(皇太后)様は、(侍従に、)陛下から目を離さんように命じました。

じつに一番悩まれたのは、陛下でありましたでしょう。

九月二七日、陛下がただ一人の通訳を連れて、
マッカーサーの前に立たれたことは、皆様方もよくご承知の通りであります。

ついに天皇をつかまえるべき時が来た。

マッカーサーは、二個師団の兵力の待機を命じました。

マッカーサーは、陛下は命乞いに来られたものと勘違いし、傲慢不遜にもマドロスパイプを口にくわえ、ソファーから立とうともしなかった。

陛下は直立不動のままで、国際儀礼としてのご挨拶を終え、こう言われました。

『日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります』

――弱ったのは通訳でした。その通り訳していいのか

――しかし陛下は続けました。

『しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように』

天皇は、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、
一切の責任はこの私にあります、

絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処せられても…
と淡々として申された。

このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であったのです。

陛下は我々を裏切らなかった。

マッカーサーは驚いて、スクッと立ち上がり、今度は陛下を抱くようにして座らせました。

そして部下に、

「陛下は興奮しておいでのようだから、おコーヒーをさしあげるように」と。

マッカーサーは今度は一臣下のごとく、直立不動で陛下の前に立ち、

「天皇とはこのようなものでありましたか!天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、ご不自由でございましょう。私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」と。

陛下は、再びスクッと立たれ、 涙をポロポロと流し、

「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。この私に何の望みがありましょうか。重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。

そののちマッカーサーは、陛下を玄関(ホール)まで伴い、見送ったのです。

皆様方、日本は八〇〇〇万人と言いました。

どう計算しても八〇〇〇万はおらなかったでしょう。

いかがです?

一億の民から朝鮮半島と台湾、樺太をはじめ、すべてを差し引いて、どうして八千万でしょうか。

じつは六六〇〇万人しかいなかったのです。

それをあえて、マッカーサーは、八〇〇〇万として食糧をごまかして取ってくれました。

つまりマッカーサーは、いわゆる、陛下のご人徳にふれたのです。

米国大統領からは、日本に一〇〇〇万の餓死者を出すべしと、
マッカーサーに命令が来ておったのです。

ただ一言、マッカーサーは、『陛下は磁石だ。私の心を吸いつけた』と言いました。

彼は陛下のために、食糧放出を八〇〇〇万人の計算で出してくれました。

それが後で、ばれてしまいます。

彼が解任された最大の理由はそれであったというのが、事の真相です。

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あの戦争は昭和天皇でさえ止められない程、巨大な力がうごめいていました。

憎むべきは昭和天皇でなく、アメリカでもなく、軍部でもありません。人の際限なき欲望なのです。

ただ、現在日本国で日本人が生活できてるのは先人達のおかげだということは素直に感謝し誇りに思います。

このような事実がを知らない多くの人々に伝えるためにシェアお願いします。

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