シビリアン・コントロールはなぜ危険か

20160423 オスプレイ

「シビリアン・コントロール」という言葉をみなさんご存知のことと思います。
英語では「civilian control of the military」です。
直訳すれば、軍人でない一般人(市民)による軍のコントロールで、日本語では「文民統制」と訳されます。

WIKIによれば、その意味は、
「民主主義国における
軍事に対する政治優先
または軍事力に対する
民主主義的統制のこと。
主権者である国民が、
選挙により選出された国民の代表を通じ、
軍事に対して、
最終的判断・決定権を持つという
国家安全保障政策における
民主主義の基本原則」と書かれています。
「主権者である国民が」としている点、いかにも戦後日本らしい思考回路で、これが「民主主義の基本原則」と書かれているわけです。

さらに続けて、
「民主主義国において戦争・平和の問題は、
国民の生命・身体の安全・自由に直結する、
最も重要な問題といえるからこそ、
主権者である国民が、国民の代表を通じて、
これを判断・決定する必要がある」のだそうです。

何度も繰り返しますが、主権在民というのは占領地における被占領国民の取扱いもしくは位置づけのことですので、これまた、きわめて戦後日本的思考ということができます。

ただし、国民主権という言葉を除けば、シビリアンコントロールに関する考え方は、世界の標準ということができようかと思いますし、また軍事が「国民の生命・身体の安全・自由に直結する重要な問題」であることも、間違いのない事実であろうかと思います。

ただし、大事な点に関する考察が、抜け落ちています。
それは、「意思決定権者の責任性」という問題です。

人の上に立つ者が行う意思決定は「権力」の行使です。
戦争を起こす、始める、維持継続する、終わらせるという大事は、誰かが決めなければならないことで、それを「武力を持った軍人が決めるのは危険だから、軍人でない者が決めることが正しい」という思想が、シビリアンコントロールです。
つまり、シビリアンコントロールは、国民によって選ばれた国民の代表が決めることであったとしても、それが最終的に「意思決定権の行使」であり、「権力の行使」となることは間違いのないことです。

そして本来、「権力」と「責任」はセットになるべきものです。
つまり、「意思決定」を行って「権力を行使」する者は、その決定した内容に「責任」を負います。
これは当然のことです。

逆に、「何の責任も負わない者が権力を行使して意思決定を行う」といことが、どれだけ危険なことなのかを考えれば、それがどれほどまでに短絡的で危険なことなのかは、あえて説明する必要すらないものであると思います。
毛沢東やスターリンや李承晩が、戦争でもないのに自国民を大量虐殺できたのは、彼ら自身が自国民をどれだけ殺しても、一切、その責任を追求される心配がなかったからです。

軍人は、ひとたび戦いが選択されれば、戦地に赴き、負ければ死にます。
戦いは常に命がけなのです。

これに対し、いくら国民の代表だとは言っても、文民は、戦って死ぬことはまずありません。
特に日本の軍人であれば、戦地で負ければ、たとえ戦闘で生き残ったとしても、自ら腹を斬るのが常識です。
軍人にとって、戦の勝ち負けは、まさに命がけなのです。

ところが文民には、戦争にせよ、戦闘にせよ、その勝敗についての責任がありません。
むしろ開戦にあたって文民の意思決定責任は、その戦いによって、自分がいくら儲かるかにあったりします。
戦争となれば、大金が動くのです。
大枚が動くところに関与すれば、必ずそのオコボレに預かることができます。
そして、戦争によって、どれだけ自国の軍人が死のうが、戦闘による死傷責任は軍人にあって、文民にはないとされます。

シビリアンコントロールと、カタカナ英語を書かれると、何やら素敵な思想のように見えますが、実は、これはとんでもなく大きな危険を内包している思想ということができるのです。

先の大戦を例にとってみます。
軍は政治に関与すべきではないというのは、実は明治時代からの日本の常識です。
江戸時代までは、戦は武士、つまり軍人が行うものでしたし、その意思決定も武士が行いました。

明治以降は四民平等となり、徴兵も敷かれて民間人も戦いに参加するようになりましたが、その分、ひとたび戦争が起きれば、徴兵された民間人が、軍人として死ぬことになりました。
また、第一次世界大戦以降の世界の戦争は、一般人が巻き込まれて死傷する事態が起きるようにもなりました。

日本は、戊辰戦争以降、昭和20年の大東亜戦争の終戦まで、わずか80年の間に、
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、第二次世界大戦と、大きな戦争だけで、なんと7度も行い、都度、多くの命が失われました。
そしてこれらの戦争のすべてが、実は「シビリアン・コントロール」のもとで行われています。
そしてひとたび戦争となれば、軍は命を賭けて戦いますし、敗れれば将校は腹を斬ります。

しかしその前に、「本来戦争は避けなければならないもの」であるはずなのです。
戦争が起こらないようにと、ありとあらゆる権限を与えられ、最大限の努力によって戦争を回避し、かつわが国の国民の生命財産の安全を保持するのが、本来の文官の役割です。
なぜなら、武官、文官を問わず、「国民が豊かに安全に安心して暮らせるようにする」ことが、「国家に与えられた最大の使命」であるからです。

整理すると、戦争を起こさないために、あらゆる権限を行使して戦争を避けるのが、文官の役割です。
ひとたび戦争となれば、命がけで戦うのが軍人の役割です。
繰り返しますが、「戦にならないようにするのは文官の役割」です。

つまり、戦が起きたということは、文官がその役割を全うできなかったということです。
ドンパチが起きないように、あらゆる権限を与えられている文官が、結果としてドンパチに至ったとするならば、それは「文官としての責任を果たせなかった」ということであるはずです。

そうであるならば、勇敢に戦って敗れた将軍の処罰をする前に、
「戦いが起きることを防ぐことができなかった文官」が、戦いが起きた責任をとって腹を斬る必要があるはずです。
権力というものは、常に責任とセットだからです。

戦を起こさないで平和を守るのが文人の役割です。
戦に勝利することで平和を守るのが武人の役割です。

武人は、敗れれば責任をとって腹を斬ります。
では、戦前の日本の文人で、戦が起きた時責任をとって腹を切った人がいたのでしょうか。
あるいは世界の指導者で、戦争を起こした指導者はたくさんいますけれど、戦争に至ったことを苦にして腹を切った指導者は、果たしているのでしょうか。

ルーズベルトは、「絶対に戦争を起こしません」と国民に約束して大統領になり、堂々と戦争を起こしました。
これは国民をたばかったことになります。
「戦争を起こしません」といって、ありとあらゆる権限を与えられた、つまり最高権力を与えられていながら、ルーズベルトは戦争を起こしたわけです。
ならば、開戦に至った時点で、自殺しないまでも、せめて大統領を辞任すべきです。
それがあるべき権力と責任の関係です。

「軍人は政治に介入すべきでない」と言われ、「シビリアン・コントロール」は、政治の常識であるかのように宣伝されていますが、では、戦争が起きたことについての責任をとって、腹を斬った文官が、歴史上、ひとりでもいたのでしょうか。

「シビリアン・コントロール」の目的は、どこまでも戦争を避けることにあります。
それならば、結果として戦争を招いてしまったなら、コントロールする立場にいた文民は、戦争を避けるために与えられた権力を十分に活用できずに戦争という現実を引き起こしているのですから、当然に責任を問われるべきです。

けれどシビリアン・コントロールによって防げなかった開戦の責任を、問うための仕組みや法すらできていないのが世界の現実です。
むしろ、少々露骨な言い方をするならば、戦を起こすことで文官は儲かり、軍人は死ぬのです。

ということは、シビリアンコントロールというのは、戦争が起きて多くの国民の命が失われても、ぜんぜん責任を問われることのない、むしろ戦争が起きることによって利益を得たり得なかったりする人たちが、実際の開戦にあたっての権限を、「責任をとることなく行使する」のがシビリアンコントロールということになります。

これは極めて恐ろしいことです。
軍人は、戦が起きれば死ぬのです。
文人は、戦を招いても死ぬ危険がないのです。
それでいて、開戦責任も、敗戦責任も、だれも取らないのです。

そういう責任のない人たちが、国民の生命財産の安全についての権力を行使しますというのが「シビリアン・コントロール」です。
そして、いまの日本では、それが疑いの余地のないほど正しいことであり、世界の常識であり、教育に必要なことであり、マスコミを通じて拡散すべきこととなっています。
これは恐ろしいことです。

軍人が開戦の意思決定をすることが良いということを申しているのではありません。
「シビリアン・コントロール」をいうなら、その統制する文民自身が、開戦責任をとらなければならないと申し上げています。

そもそも、絶対に鉄砲玉が飛んでこない安全なところにいて、戦争を回避するための全権を委ねられていながら、その責任をまっとうできないような者が、一切の責任を問われることなく開戦の意思決定権を持つのは、誰がどう考えても、おかしいと言わざるをえないのです。

文民は平和を守り戦争回避のために全力を挙げる。
戦争に至ったならば、それを回避できなかった文民は腹を斬る。
そして軍人は国を守るために全力で戦う。
戦争に敗れた将軍は腹を斬る。
シビリアンコントロールを言うのならば、それがあるべき姿なのではないかと思います。

責任を問われることのない者が、権力を行使するというのは、あってはならないことです。

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