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《「日帝強占でハングル文字を奪われた」という韓国人の勘違い。》

現代の韓国人は、日帝強占によって、多くの誇るべき朝鮮の文化が破壊され、世界的に優れたハングル文字も日本人によって取り上げられ、日本語使用を強要さ れたと教育され、ほぼ100%の韓国人が、前後の脈絡も理解せず、それを盲信している。日本が統治する以前から朝鮮には独自の素晴らしい文化が花開いてい たと韓国々民は皆、妄想を逞しくしている。

李氏朝鮮は清国の従属下にあり漢文が重視される一方、劣化朝鮮儒教によりハングルは徹底的に軽視され、公文書で採用される事すら無かった。ハングル文字は 散逸し、事実上 忘れ去られていた。李朝末期になって開化派は井上角五郎の尽力によりハングル文字を再発見し、体系化して、1886年に朝鮮で初のハングル使用の新聞・公 文書(官報)である『漢城周報』(同年創刊)を発行した。また、女子の為の教育機関は皆無で、当時の朝鮮女性には人権すらなかった。

「日韓併合」は、朝鮮側からの度重なる懇願により日本が渋々応じたものである。日本の統治が始まると学校教育に於ける科目の一つとしてハングルと漢字の混 用による朝鮮語が導入され、朝鮮語の識字率は一定の上昇をみた。1911年に朝鮮総督府は、第一次教育令を公布し、朝鮮語を必修科目としてハングルが教え られる事となった。「日本人がハングルを奪った」との韓国人の主張は全く史実とは異なり、寧ろ、日本人による朝鮮総督府が、文盲の民にハングル文字を普及 させたのである。

朝鮮語の時間以外の教授言語としては日本語が使用された。朝鮮総督府は1912年に、近代に於いて初めて作成された朝鮮語の正書法である普通学校用 諺文綴字法(おんもんていじほう)を作成し、1930年には児童の学習能率の向上、朝鮮語の綴字法の整理 統一の為の新正書法である諺文綴字法を作成し、その普及に努めた。

日清戦争以降、総督府は日本軍の兵士として朝鮮人を動員する事なども視野に入れ、特に1938年の国家総動員法を受け、朝鮮地域では内鮮一体の名の下で 「朝鮮人」の日本人化を急ぐようになった。今にして考えるに、民族意識が人一倍強い韓国人は、これに反発しているのであろう事は想像に難くない。

ならば何故、大韓帝国は日本との「併合」を懇願したのであろうか?日本との「併合」により朝鮮人が一等国民たろうとしたのであれば、日本人になりたいとい う事であろう。「内鮮一体の日本人化」に反発するのであれば、「併合」では無く「植民地化」を希望すれば良かったではないか?思うに朝鮮側は「併合」の意 味するところが理解できていなかったのではないか?

「朝鮮が日本領である以上、朝鮮語は日本語の一方言であり、内地の方言同様最終的には消滅させるべきである」という朝鮮語方言論や、「帝国臣民である以上朝鮮人はその民族性を捨てて、大和民族に同化せねばならない」とする論が日本側から出てくるのは予見できた事である。

1938年の第三次教育令で朝鮮語が随意科目となった事を皮切りに、1942年には用いる言葉を賞罰の対象にする運動を開始するなど「国語(日本語)常 用」運動が本格化し、公教育からは朝鮮語が排除されていった。文盲だった朝鮮人は、日本人により教育された朝鮮語(ハングル)を、今度は同じ日本人から取 り上げられたのである。現代の韓国人は、こうした前後の脈絡を理解せずに、たた闇雲に「日本人がハングルを奪った」と騒いでいるのである。

要するに、自ら「併合」を望みながら、「併合」の意味するところを知らず、日本人になる覚悟など当然無かったとしか考えられない。当時、「併合」により、 我々四等国民は晴れて一等国民になれたとはしゃいでいたが、実際のところは何ものも失なう覚悟を持たずに、日本の権威を都合よく利用したかった。昨今の朴 槿恵政権が言うところの「用日」感覚であったのだろう。

朝鮮人にしてみれば、(一時的に)「併合」により難局を乗り切れれば、後は日本など必要無い。そういう感覚であったのだろう。生真面目に人材と血税を注い だ日本国民が馬鹿を見たのである。正しく戦前も戦後も朝鮮人は変わっていない。救いの手を差し伸べる日本は、常に馬鹿を見る。「日韓併合」の本質とは朝鮮 人の「用日」感覚に日本が振り回されただけであったのだ。

併し、4回も懇願され、渋々「併合」に応じた日本は「日韓併合」を重く受け止め、最大限、真面目に取り組んだ。生真面目な日本人は、朝鮮人に配慮しながら も、朝鮮人のお気軽な「併合要請」の裏にあった「用日感覚」までは理解できなかった。大日本帝國は文字通りの本気で、誠心誠意「併合」を進めたのであっ た。

韓国政府や韓国人、在日韓国朝鮮人のみならず、日本の国会議員や所謂 識者と呼ばれる者までもが、「併合」を「植民地統治」と間違って呼ぶが、彼らは余りにも無知である。今にして思えば朝鮮人が望んだ「併合」では無く、朝鮮 を「植民地」にしておけば良かったのである。「植民地」なら「日本人化」など考える必要も無かった。朝鮮人には無理でも、日本の政治家や識者には「併合」 と「植民地」の違いぐらいは最低限、理解して頂きたいものである。

「日韓併合」は、日本が大東亜戦争に敗戦する迄は、表向き上手くいっていた。敢えて〈表向き〉と表現したのは、例え敗戦により終了したとはいえ、35年間 も共に歩んだ朝鮮人の〈本質的に邪(よこしま)な人間性〉は何も正す事ができなかったからである。熊本の大地震に歓喜する韓国人を見るにつけ、その民族が 持つ人間性の本質とは如何ともし難い事が良く分かる。

「日韓併合」は、遅々としていたとはいえ表面的には上手くいっていた。「第八十六回帝国議会説明資料」(1944年12月、朝鮮総督府)によれば、 1938年には「国語(日本語)を解する朝鮮人」の割合は前年度の8%弱から13%強にまで伸び、1943年末には22%まで伸びている。一方、1945 年の「敗戦」当時南朝鮮の12歳以上の総人口の78%は依然としてハングル文盲であった。普通初等学校への就学率は1910年で1.0%、1923年で2 桁台に乗り11.2%、1935年で21.7%、1943年で49.0%であった。

日本による統治の末期でも、朝鮮語が日常会話や新聞などから完全に排除された訳では無く、朝鮮総督府に於いても、1921年から1945年の日本統治終了 に至るまで、朝鮮語能力検定に合格した職員を昇進させ、給与に於いて有利に処遇していた。1943年時点で、日本語を解する朝鮮人は1,000人当たり 221,5人で、8割の朝鮮人は日本語を話す事が出来なかった。
(「朝鮮事情」1940〜1944年版)

また、朝鮮総督府は李氏朝鮮の主な文化財の保護の為の総督府令を出している。国宝に指定されたものには南大門などが含まれていた。日本人学者とその朝鮮人 の弟子達によって歴史・語学・文学などの韓国学研究の基礎が作られたのも日韓併合中の事である。当時の事(史実)を調べようともせずに「日韓併合」を「日 帝強占」などと批判的に表現するのは、筋違いも甚だしい。

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《 日韓両国ともに「正しい歴史を直視」しなければならない。》

韓国人は「日帝強占」とか「植民地搾取」などと言う言葉をよく使うが、余りにも歴史を識らな過ぎる。そんな妄想に捉われながら、よくも「歴史を直視せよ」 などと言えたものである。当時の歴史を韓国人は全く学んでおらず、建国以来の反日教育に洗脳され、その心地良い洗脳史観に耽溺し、都合の悪い真実から目を 背け続けている。

併合以前と併合中の真実を体験した韓国人が、この世を去った今、韓国人が真実を知ろうとするなら、韓国と日本 以外の国の文献をあたれば、容易に真実と信じるに足る史実に辿り着けるのだが、殆んどの韓国人は、留学などでそういう機会に恵まれても、史実を受け容れる 勇気を示さない。心地良い洗脳史観・妄想史観の世界に逃げ帰ってしまう。

対する我が日本も正しい近現代史を国民に教育していない。日本は情け無い事に『東京裁判史観』から外れた教育を一切していないし、マスメディアはそれに輪を掛けて悪質な売国気質を持っている。世界中で日本人と韓国人が最も近現代史を知らないのでは無かろうか?

だから、在日韓国朝鮮人に対して、日本国民は故なき贖罪意識に駆られて、「日本人は昔、朝鮮半島の方々に悪い事をしたのだから謝罪と反省の気持ちを持たな ければならない」などと見当違いな配慮を続け、在日は在日で相変わらず〈被害者詐欺〉を続けている。兎に角、日本は度を超した反日教育をしている。代表的 なのが奈良県と和歌山県にある智弁学園高等学校である。ここの生徒は韓国に修学旅行に連れて行かれ、全員一斉に土下座をさせられる。

智弁学園の藤田照清理事長は韓国大統領から表彰までされている。史実を知らないという事は、「滑稽である」と同時に「残酷でもある」。日本政府は毅然とし てこれを止めさせるべきであると思うが、首相官邸も文科省も毎年これを黙認している。スポンジのように知識を吸収する時期の高校生たちはどんな思いで土下 座をするのだろうか?藤田照清理事長ひとりを教育者失格と責めるのではなく、それを毎年黙認する日本政府の罪深さを責め、糾し、正すべきである。

真実の歴史はこうである。「1894年に始まった日清戦争 以来、朝鮮人は、日本人の被害者であった事は一度も無かった」。寧ろ、「朝鮮人により多大な被害を被り続けたのは日本国民の方であった」。在日韓国朝鮮人 はこの歴史を少しでもご存知か?貴方がたは1894年以来、日本による被害者であった事は無く、一貫して日本から恩恵を受け、日本人に対して迷惑をかけ続 けたのである。

日清戦争とは、朝鮮を清国がら独立させる為に起こされた戦争である。勿論、戦争とは一つの要因だけで起きるのではない。日本としては大国ロシアが南下して 来た時、朝鮮が自ら主権を護れる独立国家で無ければ、日本自身が直にロシアと対峙せねばならず、朝鮮にはしっかりとした独立国家でいてくれなければ困ると いう事情もあった。

清国の冊封国、朝鮮は凡そ独立国家とは呼べない状況であった。閔氏政権の重税政策と両班たちの賄賂と不正収奪の横行、そして1876年の日朝修好条規を始 めとした閔氏政権の開国政策により外国資本が次々と進出してくる中、朝鮮民衆の生活は極めて苦しい状況にあった。朝鮮政府の暴政に対し次のような詩が朝鮮 国内に広く伝昌されていた程である。

『金の樽に入った美酒は、千人の血からできており、玉椀にある美味い魚は、人民の油でできている、蝋燭から蝋が滴るとき、人々の涙も滴り、歌舞の音楽が高く鳴り響くとき、人々の怨嗟の声も高く轟く』

朝鮮の改革を巡っては、壬午事変や甲申政変のような政変があったが、何れも蜂起は失敗に終わった。こうした中で政権を手にしていた閔氏は、自らの手で改革 を行なう事ができずにいた。このつけは全て民衆に振り向けられ、民衆の不満は高まり、1883年から各地で農民の蜂起が起きていた。

民乱が収束し、朝鮮は日清両軍の撤兵を申し入れるが、両国は受け容れずに対峙を続けた。〈日本は清に対し朝鮮の独立援助と内政改革を共同で行なう事を提案〉し、英国も調停案を清へ出すが、清は「日本のみの撤兵が条件」として拒否した。

日本は朝鮮に対して、「朝鮮の自主独立を侵害」する清軍の撤退と清・朝間の条約廃棄(宗主・藩属関係の解消)について3日以内に回答するよう申入れた。こ の申入れには、朝鮮が清軍を退けられないのであれば、日本が代わって駆逐する、との意味も含まれていた。当時の日本は何と毅然とした主権国家であったので あろう。

これに朝鮮政府は「改革は自主的に行なう」「内乱が治まったので日清両軍の撤兵を要請する」と回答してきた。その朝鮮国内では大院君がクーデターを起こし て閔氏政権を追放し、金弘集政権が誕生した。金弘集政権は甲午改革(内政改革)を進め、〈日本に対して牙山の清軍掃討を依頼〉してきた。そして豊島沖海 戦、成歓の戦いが行なわれた後、8月1日に日清両国が宣戦布告をし、日清戦争が勃発した。〈朝鮮政府の依頼で日清戦争は始まった〉のである。韓国人・在日 韓国朝鮮人、そして多くの日本人はこのような史実は知るまい。

日清戦争の原因について開戦を主導した外務大臣 陸奥宗光は、「元来日本国の宣言するところにては、今回の戦争はその意全く『朝鮮をして独立国たらしめん』にあり」と回想した(『蹇蹇録』岩波文庫)。近 代化された日本軍は、近代軍としての体を成していなかった清軍に対し、終始優勢に戦局を進め、朝鮮半島および遼東半島などを瞬く間に占領した。

日清戦争の講和条約は、1895年3月20日、下関の春帆楼で清国全権 李鴻章と日本の伊藤博文、陸奥宗光両全権との間で、会談は3回に亘って開かれた。3回目の会談の帰途、李鴻章が狙撃され負傷する事件が起った為、日本側は 急遽軟化を余儀無くされ、同 30日休戦条約を締結、次いで4月17日、日清講和条約 11箇条が調印された。

『日清講和条約11箇条(下関条約)の主な内容』
1)朝鮮の独立を認める事
(この直後、朝鮮は大韓帝国と国名を変え、独立を宣言する)
2)遼東半島を日本に譲り渡す
(支那と朝鮮の間にある半島で日本の戦略的にかなり重要な土地)
3)台湾を日本に譲り渡す
(これにより日本は初の海外植民地として台湾を獲得した。)
4)澎湖諸島を日本に譲り渡す
(これは台湾と支那本土の間の島々)
5)賠償金2億両を日本に支払う
(約3億1000万円。当時の日本の国家予算の2倍以上のお金)
6)日清通商航海条約を結ぶ
(清に欧米と同条件の不平等条約を日本とも結ばせた)

条約というものは、一番重要な事を第1条に持ってくるものである。第1条を正確に表現すると、『清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国である事を確認 し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。』とある。正に清国との戦争目的は「朝鮮の自主独立」であった証 である。大韓帝国として史上初めて自主独立させて貰った事を、韓国政府と在日韓国朝鮮人は知るべきである。

然るに、大韓帝国は国家運営も真面にできずに国家を破綻させ、国内はもとより日・清・ロの間でも、陰謀と裏切り行為を繰り返した果てに、大韓帝国の王 純宗、李完用首相と当時最大の政治結社「一新会」を中心に「日韓併合」を求め、4回に亘って渋る日本に併合を要請してきた。日本は4回目の懇願に応えて 「日韓併合」に踏み切ったのである。

1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で寺内正毅統監と李完用首相により調印され、同月29日に発効、大日本 帝国は大韓帝国を併合し、その領土であった朝鮮半島を領有した。一体これのどこが「日帝強占」なのか?用語も意図的に変えられている。「日韓併合」は、植 民地化では無く、飽くまでも「併合」または「合邦・合併」である。

日本人による統治も欧米列強諸国群が目を見張るほど生真面目で慈愛に満ちたものであった。日本の統治の成果は一々挙げたらきりが無い。朝鮮の庶民は元々ほ ぼ100%文盲であった。数%の両班などの貴族階級と王族たちが漢文を扱えたに過ぎない。1886年に井上角五郎が埋もれ散逸していたハングル文字を体系 化して、朝鮮で初めてハングル文字による官報や新聞を出した。朝鮮では当時30%以上が奴隷であったが、総統府は階級制度や拷問などの因習を禁じ、度量衡 を統一し、学校を建設して、等しく文化的な生活ができる様にした。

また、全くと言って良いほど無かったインフラ(道路・鉄道・橋・ダム・商業施設)などを造り、治山治水を教えた。植林を指導して禿山を無くし、灌漑設備を 整え、効率的な稲作も教えた。35年間で朝鮮の人口が倍増したのは病院建設などで近代医療を普及させた事と穀物生産が3倍増したからである。その結果、毎 年餓死者を出していた朝鮮半島から日本内地に米を販売するまでになった。産業無き朝鮮半島に産業を齎したのである。これらを今の韓国では「日帝の植民地搾 取」「産業の収奪」と教育しているのだから呆れる。

繰り返す。朝鮮人は日本による被害者などでは断じて無い。韓国政府・韓国人・在日韓国朝鮮人は「正しい歴史を直視しなければならない」。そして日本政府も 国民に「正しい歴史教育をしなければならない」。両国ともに、歴史観を正さなければ、必死に生きたご先祖様に申し訳が立たないとは思わないか?

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《 日本人が在日韓国朝鮮人を「差別視」して何が悪い?》

結論から言って、史実を知る日本人(私)には超え難い差別感情が有り、「実社会で在日韓国朝鮮人が差別されたと感じる事は多い」と思う。日本には「因果応 報」という〈言葉、考え方〉があるが、「在日への差別感情」とは正にそれであり、差を付けて別に扱われる事は当然の事であると考える。日本人に対して、あ れだけの事(後述)をしておきながら「何も悪い事はしていないのに日本人は差別する」と本心から考えるなら、韓国や民譚・総連と関係のないところから史実 を客観的に学び直すべきである。

誠に情けなく認め難い事だが、日本の義務教育も「米国GHQ・韓国・民譚・総連」に多大に影響された偏向教育を行なっているから、日本の教育機関や教材も 当てにはならない。真実を探究する覚悟があるなら、右左に関わらず、兎に角、近現代史の書籍を沢山読む事である。インターネットが普及している現代では、 色々と検索してみる事も有益だろう。但し、ネットには嘘も多いので偏った検索は寧ろ危険であるとの認識は必要である。客観的に沢山の情報に触れて、真実を 見抜く目を養う事が必要だろう。

一括りに「差別」と言っても、〈許されない差別〉と〈止むを得ない差別〉に分けて考えるべきだと考える。〈許されない差別〉とは、「故なき差別、本人の努 力では如何ともし難い事への差別・侮蔑」であり、〈止むを得ない差別〉とは、「差別を生み出すに足る原因があり、本人たちの努力で如何様にも乗り越え、解 消できる差別・区別」である。

これを語り分ける前に、どうしてもはっきりさせておかねばならない事がある。日本が大東亜戦争に敗れた直後から始まった、朝鮮人の恩知らずな鬼畜の蛮行で ある。先ず、満州や朝鮮半島からの日本人引揚者に朝鮮人は何をしたか?日本が敗戦したと知るや朝鮮人たちは、寄ってたかって日本人に獣の様な蛮行を働い た。

先ず、朝鮮半島に住んでいた日本人への仕打ちを、生粋の韓国人である金完燮氏は述べておられる。「韓国人というものが余りにも情けなく、えいっと殺してし まいたい時がある。なぜ日本の蛮行(?)は暴くのに自分たちの汚い利己心と低劣な根性には目を瞑るのか?日帝時代、朝鮮に移り住んだ日本人の中には、明ら かに立派な人々も多かった。ところが、和夫一家殺害事件のように韓国人は自分たちの間違いを、日本がやった(?)から俺たちもやったんだというふうに弁明 し、事件を矮小化、隠蔽しようと躍起になっている。」
〔文中の(?)は投稿者が挿入〕

「和夫一家殺害事件」というのは、朝鮮半島に移り住んだ日本人一家が、それまで引き取って養い育ててきた朝鮮人孤児たちに、敗戦と同時に寄ってたかって強 姦・惨殺され、そのショックで気が触れた和夫の年端も行かない娘が野垂れ死にするのを誰一人として助けようとしなかった、人間の仕業とも思えぬ猟奇的事件 である。よくも大恩ある里親一家にこんな鬼畜にも劣る残虐行為ができたものである。

日本人引揚者に対する略奪・強姦・惨殺も常軌を逸していた。満州などに住んでいた日本人は、敗戦と共に本国 日本へと帰国の途についた。帰国ルートは長年(35年間)同じ日本人として過ごした朝鮮半島が一番安全だと信じて疑わなかった。併し、そうした日本人の希 望的観測は見事に裏切られた。朝鮮半島が一番危険だったのだ。今の韓国人が信じ込んでいる様な〈過酷な植民地搾取〉などしていたら、朝鮮半島は避けていた だろう。

福岡県筑紫郡二日市町(現筑紫野市)に、厚生省(現 厚労省)引揚援護庁の医療施設の、「二日市保養所」があった。ここは、レイプ被害に遭った日本人女性(引揚者)に堕胎手術や性病の治療を行なった施設である。

終戦直後より在満・在朝日本人は塗炭の苦しみを味わう事になった。追放や財産の略奪に止まらず、強制連行や虐殺などで、祖国の地を踏む事なく無念のうちに 斃れた者も少なくなかった。これに加えて女性は、朝鮮人やソ連兵、支那人などによる度重なる強姦を受けた末、心ならずも妊娠したり、性病に罹ったりした。 それにも関わらず、何ら医療的治療が施されずにいた。そして強姦により妊娠・性病罹患した女性の中には、これを苦にして自殺する者が少なからず出たとい う。

そういう女性たちの堕胎手術をしたのが、この「二日市保養所」である。麻酔薬が不足していた為、麻酔無しでの堕胎手術も行なわれ、多くの女性が術中に死亡 したと言われている。二日市保養所の医務主任だった橋爪将の報告書によると、施設の開設から2箇月間で強姦被害者への加害男性の国籍内訳は、〈朝鮮28 人、ソ連8人、支那6人、米国3人、台湾・フィリピンが各1人〉だった。1947年の施設閉鎖までに500件の堕胎手術を行なったという。

辿り着いた女性被害者の内、朝鮮人による強姦被害が突出している事からも朝鮮人の強姦犯罪者の数多さが歴然と窺える。帰国途中、無念の内に斃れた日本人 は、誰に埋葬されるでも無く、野晒しで朽ち果てた。今の韓国人はその上で平然と暮らしているのである。野に死し朽ち果てた日本人からは、持ち物、装身具は おろか金歯まで抜かれ、遺体はそのまま捨て置かれた。

朴槿恵韓国大統領は8000柱の韓国人の遺骨返還を日本政府に要求するというが、日本の地で果てた朝鮮人は皆、寺に埋葬されている。だからこそ正確な数が 割り出せたのである。併し、今の韓国には帰国道半ばで斃れた日本人の遺骨は何柱埋葬されているだろうか。一柱も無い。ならず者国家、北朝鮮でさえ日本人が 日本人を埋葬した盛り土 程度の粗末な墓を保存している。この点に於いては韓国人は人間ではない。

在日韓国朝鮮人がタブー視する「朝鮮進駐軍」も、彼らの望み通り忘れ去ってはいけない。詳細の記録は省くが、GHQの占領中ゆえ武器の携行を許されていな かった警察官の無防備をいい事に、彼らは日本中で暴虐の限りを尽くした。GHQの記録によれば、首相官邸を襲撃した朝鮮進駐軍の大暴れなどで4000人の 日本人が亡くなっている。こうした動かざる記録が残っているにも関わらず、在日たちは「朝鮮進駐軍」など無かった事にしようと必死である。在日に支配され たマスメディアも「朝鮮進駐軍」を取り上げる事は無い。

そして全国の駅前一等地に展開されているパチンコ屋。これは在日朝鮮人が日本人の土地を横暴にも力尽くで不法占拠して、戦後の混乱に乗じて不法に登記してしまった土地であり、そこで今も堂々と営業している、違法な民営賭博である。

在日韓国朝鮮人は「強制連行されて来た」と言い続けているが、人口統計を調べれば、それが嘘である事は簡単に証明できる。現に在日一世であるパチンコ業界 大手のマンハン会長の韓昌祐 氏は、自らが密航者である事を公言している。孫正義 氏の父親も密航者であった。密航までして日本に入国したがる朝鮮人をなぜ強制連行してくる必要があるのか?これは「売春させろデモ」までする朝鮮人女性を なぜ慰安婦として強制連行する必要があるのか?という疑問にも通じる。

韓国人は日本に「創氏改名」を強制されたと、これまた嘘の主張をするが、ならば何故、今の日本で多くの在日が本名を名乗りたがらない?なぜ通名という偽名 にしがみつく?日本人に差別されるからか?そうだ。多くの日本人は在日韓国朝鮮人を真っ当な人間ではないと差別視している。冒頭で「因果応報」という「言 葉・考え方」が日本にはあると述べた。縷々述べてきた通りの蛮行を朝鮮人は為してきた。

先に〈許されない差別〉と〈止むを得ない差別〉があると述べた。在日韓国朝鮮人が日本人の視線・接し方に差別感情を感じるとしたら、それは後者の差別であ る。在日韓国朝鮮人は被害者であった事など一度として無い。大東亜戦争後だけに限って見ても、在日韓国朝鮮人は一貫して日本人に対しては「加害者」であり 続けた。被害者の振りは止めて頂きたい。見苦しい。

〈許されない差別〉とは、朝鮮民族による〈黒人差別・混血児への差別・弱者(敗戦直後の日本人やベトナム戦争時のベトナム村民)への差別〉などを言う。

米国の黒人暴動では何故コリア系米国人の店だけが狙われたのか?韓国系ハーフタレントはなぜ韓国ではなく日本で日系に成り済まして活動するのか?韓国人が 最も軽蔑する動物は犬(ケセッキ)であるという。では何故、孫正義氏の SOFT BANK の CM では、白洲次郎氏に見立てた日本人家族の父親が犬で長男が黒人なのか?在日は何故あのCMを見て溜飲を下げるのか?それこそ〈許されない差別・侮蔑〉であ る。本人の努力や改心では乗り越えられない事への差別である。

今、日本で在日韓国朝鮮人に向けられる差別感情は、『本人たちの努力で如何様にも乗り越えられる、解消できる差別』である。差別視されて当然の事をしてき たのだから、差別が嫌なら、それを解消すべく努力をしたらいい。今のように〈在日特権〉の上に胡座をかいて何も努力をせず、〈被害者詐欺〉を続けているな らば、差別感情は無くならないどころか益々強まるだろう。

ローマ法王の仰った通り、『韓国々民(勿論、在日を含む)は、倫理的・霊的に生まれ変わる事を望む』。ローマ法王がここまで仰るのには、余程のお考えあっての事だろう。

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▪️熊本地震で韓国人が「気持ちの良いニュースだ」と本性剥き出し状態
http://youtu.be/_crjPEWDFSg

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《 満州国建国は、日本の侵略などでは無かった。》

悪しき『東京裁判史観』に塗れた戦後教育では、満州事変は日本の支那への侵略であるとしている。我々 戦後世代は、当然の事のように日本は侵略国家だと教育されてきた。真面目に勉強した者であればあるほど、日本は悪い国だと固く信じる構造ができあがってい る。義務教育を終える頃には日本悪しかれの確信犯になっている。大学で歴史を学べば、その度合いは更に強まる。

NHKや朝日新聞も『東京裁判史観』に沿った報道しかしないし、テレビ朝日の長寿番組「朝まで生テレビ」でも司会を放棄した司会者 田原総一朗氏が大声で「満州事変は日本の侵略だ!」と叫んでいた。真面目に知識欲のある者ほど、『東京裁判史観』に絡め取られる社会構造になっている。更 に、故 本多勝一氏の「中国の旅」シリーズを読破すればコテコテの反日家の出来上がりである。

嘘ばかり報道するNHKと朝日新聞に馴染み、根っからの朝鮮人二人、田原総一朗氏と本多勝一氏に囲まれれば、普通は狂った反日日本人になってしまうだろ う。私は反日日本人はいずれこの国を滅ぼすのではないかと危惧している。彼らにかかれば満州事変が日本の支那侵略である事は規定の事実なのだろう。併し、 日本は本当にそんなに悪い国なのだろうか?

1932年(昭和7年)1月、関東軍作戦参謀 石原莞爾は満州の現地の人々の政治能力を高く評価し、満蒙領有論を後退させ、〈独立建国論〉への転向を表明した。関東州も全部返納し、日本の機関は最小限 に縮小し、新国家に日本人も支那人も区別無く採用し、新国家で活動したい在満邦人は国籍を移す事などを語っている。満州国独立の為に日本国籍を棄てろと言 うのである。日本が本当に侵略国家ならば、その軍の作戦参謀がそんな事を言うだろうか?

同年2月には奉天に張景恵ら満州の要人が集まり行政委員会が組織された。3月には内モンゴルとホロンボイル(バルガ族ら遊牧民の地)の代表を加え、東北行 政委員会が満州国建国を宣言し、清国の皇帝溥儀が執政に就任した。民族協和・満州国の独立完成を目指し、満州協和党(後に満州協和会)が結成されたのであ る。

石原莞爾は協和会を建国の理想を護持する団体と見ていた。政府の動きを監視する事を重要な役割として、近い将来、関東軍は協和会に主権を譲り、満蒙の治安維持に専念すべきと考えていた。

これらの建国の流れを見ていると、清朝の溥儀を頂点とした各地方、民族による国家建設である事がはっきりと分かる。勿論、関東軍の影響力は大きく、閣僚は総て満州国人だったが、国務総理の下位に位置する総務庁の重要ポストはほぼ総て日本人官僚が独占していた。

この点を突いて侵略と決め付けるのはおかしい。国家がいきなり独り立ちできない状況では、その国家の後ろ盾となるしっかりとした国家が国政・外交を指導し て行く事は極めて自然な事である。これを侵略呼ばわりしては、理想に燃えて日本国籍さえ棄てようとした我々のご先祖様が余りに不憫であるし、先人への礼を 失していると言わざるを得ない。

後ろ盾となる国家が、見返りを求める事も外交慣例上 当たり前である。官僚にも生活はある。如何に理想の為とは言え、人間は霞を喰って生きては行けない。日本の明治維新も近代化を進める上で多くのお雇い外国 人に高給を払ったではないか。大東亜戦争 敗戦後になって、日本に利する事柄だけを摘まみ取って、満州国は日本の傀儡国家だと後知恵で批判するのは卑劣である。

「満州国を日本の傀儡」と見做すのであれば「蒋介石の国民党は米英の傀儡」であり、「毛沢東の共産党はソ連の傀儡」という事になるが、実際はそうでは無かった。

1931年(昭和6年)、南満州鉄道が爆破される柳条湖事件が発生した。これには関東軍の陰謀説があるが、それを証明する証拠は無い。翌年、日本は清朝最 後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国した。同年3月、中華民国の提訴と日本の提案により国際連盟から英国のリットン卿を団長とする調査団が派遣され、3 箇月に亘り満州を調査、9月に「リットン報告書」を国際連盟に提出した。

リットン調査団はその報告書で、満州国を認めない報告を国際連盟に提出した。併し、内容は「満州に於ける日本の権益と貢献」は認めている。要するに「日本 が初めて試みた『民族協和の独立国家 創出』は認めないが、日本が欧米式に満州を植民地化するのであれば、その権益は認める」と言うのである。従って、「リットン報告書を以って、日本の侵略と 認定された」と理解するのは、歴史歪曲である。

「リットン報告書」について、日本の歴史解釈はその偏向を全面的に正されるべきである。当時の世界中の新聞では日本支持の論調は数多くあり、有識者の論調 も満州国を支持するものが幾つも残っている。米国人ジャーナリストのジョージ・プロンソン・レーは著書でこう述べている。

「日本は凡ゆる正当なる法律、並びに戦争法規に基づき、支那が日露戦争に参加した事に対し、支那から現金を持って賠償を受くるか、或いは其の代わりに1895年に正式譲渡し、後に至って還付を余儀なくせしめられた満州の土地を受くる権利があると確信するものである」

「然るに日本がその正当なる法律上の要求権を放棄して満州国の絶対独立および主権を承認し、その独立を擁護する事を声明した事は、筆者の目から見ると侵略行為とか領土征服どころではなく、近世史上に於ける最も特筆すべき自制的および利他的行為であるのである」

「満州国の独立および主権を現に尊重する事が日本の根本的政策であると日本は世界に表明して居るのであるから、其の約束の言葉を疑い、日本の真意を疑い、その動機をあれこれ言う事は米国がフィリピン独立の約束を疑うのと同一であって理由のない事である」

EUの父と呼ばれたクーデンホーフ・カレルギーは次のように述べている。
「日本は国際連盟で鄭重なる言辞を以って、而も強硬なる行動をもって世界に対し、『満州より手を引いてくれ』と叫んでいる。日本は第三国の干渉や仲裁を用 いずに、直接の商議を支那との間に開かん事を要求している。則ち、日本は極東に於ける『モンロー主義』を要求しているのである。

(中略)米国及び英国の『モンロー主義』を承認している国際連盟がひとり極東の『モンロー主義』だけを否定し、アジアを無制限に国際連盟の権力下に置かんとする事は困難であろう」

我々の先人は世界で初めて「人種差別撤廃」を白人列強国家群に訴えた。世界に「八紘一宇」「民族協和」を希求した先人の理想を穢す戦後教育の風潮は、断じ て間違っている。歴史研究者は『東京裁判史観』に穢された、先人の行為を一つひとつ検証し直し、真実の歴史を日本国民に教育し、国際社会に訴えて行くべき である。特に、政治家には正しい歴史観を身に付けて頂きたい。

石川 久遠's photo.

《 徹底的に腐っている日本の対韓国・対北朝鮮 外交。日本は国運を賭けて一度 洗濯する必要がある。》

多くの日本人政治家は朝鮮総連や民譚によって手なずけられている。旧社会党の幹部や書記長クラスは当然の事として、朝鮮総連と民譚はかなりの国会議員に賄賂を贈るように指示している。そして実際贈った全ての国会議員が受け取ったと言われている。更に、故 土井たか子氏 以来、旧社会党(現 社民党)党首は皆、韓国朝鮮系の帰化人である。

日本の政財界は、工作員から見れば、朝鮮総連と民譚と一蓮托生になっている。国民が不可解に思う対韓外交・対北朝鮮外交は、そうした状況に身を置く日本政府の姿勢の表れである。朝銀が不良債権の為に整理銀行となっても、内情は日本国民に充分知らされる事無く血税で救済された。国民に知らせてはならない内情があるからだ。

実際、日本の大手都市銀行も韓国・北朝鮮への送金にはかなりの部分関与しており、これを政治家も財務官僚も了解している。このような事が白日の下に晒される事は決してない。日本の政財界は韓国朝鮮の在日に骨の髄まで侵食されている。今の韓国経済は事実上 既に破綻状態だが、昨年の不可解な「日韓合意」の後、韓国への経済支援のアドバルーンが上げられた。韓国が経済破綻すれば困るのは日本だという御用学者の発言である。実際に困るのは韓国に入れ込んだ一部の企業と、韓国とズブズブの関係にある大手銀行だけである。

韓国の李明博 前大統領が大阪の在日朝鮮人であった事は周知の事実である。李明博政権が誕生して一番喜んだのが、他でもない韓国民譚と民主党(現 民進党)である。在日企業や一般企業の在日幹部らも喜んだ。大阪の元在日 李明博氏は韓国財閥と結び付き、特にサムスンを世界企業に押し上げた。その陰に居たのが「みずほ銀行」である。

現在、みずほ銀行はサムスンの大株主でサムスンが傾けば、みずほ銀行も一緒に倒産すると言われる程の額、十兆円規模を貸し込んでいる。この十兆円規模のカネは100%返ってこない事は欧米投資家や有力銀行が断言している。だから外国人投資家は日本の「みずほ銀行」の株だけは絶対に買わないしファンドにも組み入れない。

韓国の国家予算を超える借金のサムスンの有利子負債・社債発行額もとうとう31兆円を超えた。傾いている韓国財閥企業は、サムスンを筆頭に幾らでもある。寧ろ傾いていない財閥企業を探す方が難しい。

2014年、みずほ銀行は韓国に5億ドルを超低金利で追加融資した。融資案件は、みずほ銀行の頭取室で交わされた。当時も韓国はディスカウント・ジャパン工作に狂奔していた真っ最中であり、私は強い違和感を感じた。日本から韓国への通貨スワップが消滅して行く中での巨額融資であった。日韓通貨スワップは2012年の700億ドルをピークに2015年2月に終了する頃には100億ドルにまで減っていた。

みずほが融資したのは韓国輸出入銀行で、この銀行の事業は、工場設備・インフラへの融資だから、正に経済の要の銀行である。同時期に三菱東京UFJ銀行も韓国に2億5千万ドルの融資をしている。政府補償つきで5年間の貸付けという。

経済の要の銀行で外貨が足りないという事は、如何に韓国が追い込まれていたか分かろうというものである。その状態で韓国は日本の通貨スワップは必要ないと強がっていた。反日意識と根拠なきプライドにより韓国政府は日本に支援を乞えなかった訳である。昨日の韓国与党セヌリ党の大敗は、経済を犠牲にした朴槿恵政権の過度の反日が原因と言われている。朴氏の反日に大喜びしていた国民が、勝手なものである。

実は、みずほ銀行からの5億ドル融資には面白い裏話がある。

韓国は英国の大手保険会社から「韓国船舶に対して保険対象にしない」と通告されていたのである。韓国が保険会社にも嫌われた理由とは、サムスンのクレーン船がインドタンカーに突っ込んだ事件である「ヘベイ・スピリット号事件」の判決で、全責任はインドにあり、賠償は全てインド側が支払えとして、数億ドル(数百億円)の賠償命令が韓国司法裁判所から出た。韓国司法が自国の落ち度を認めないという愚かな判決を出し、世界を呆れさせたのだ。

真相は、台風よけの為に港に停泊していたタンカーに、港湾局の制止を無視して韓国のクレーン船が無謀な航行をして風に煽られタンカーに突っ込んだというものである。 英国ロイズ保険は韓国のふざけた裁判に対し、今後は韓国船舶に対して保険対象にしないと通告したのである。ロイズの判断に世界中の保険会社も追随して、韓国船は世界中の保険会社からボイコットされた。

それでも、タンカーのインド人船長達は有罪になり刑務所送りにされた。加害者のサムソンクレーン船側はお咎めなしである。タンカーに突っ込んだ為に原油が流出したが、タンカー側加入の保険に被害の補償をさせようと愚かな判決を韓国の裁判所は出したのである。現在、韓国籍の船舶は無保険で世界中を航行している。

こうした形振り構えない苦境の中での、みずほ銀行からの巨額融資であった。韓国の常識外れを象徴する事件であるが、この手の話は枚挙に暇が無い。韓国が国際的信用を失う所以である。

そういった常識外れの国、韓国を常に支援し続けてきたのが世界で唯一、日本政府である。冒頭述べた様に、多くの日本人政治家は朝鮮総連や民譚によって手なずけられているのである。政治家自身が日本に帰化こそしているが、心は常に韓国や北朝鮮にある。今は国会議員ではないが、東京都知事の舛添要一氏の韓国愛は常軌を逸している。多くの帰化人 国会議員も舛添状態であるのが恐ろしい。

生粋の日本人でありながら、朝鮮総連や韓国民譚に逆らえない政治家も多過ぎる。都有地の韓国人学校への貸与問題、止まる事を知らない在日犯罪、日本人韓国旅行者の強姦事件の多発に対する傍観…国会で韓国問題・在日問題が議題にすら上がらないのは、日本政界の在日汚染の深刻さを物語っている。これらを一切報じないマスメディアも腐っている。

そもそも、韓国の仮想敵国は日本である。韓国の軍備は防衛目的で北朝鮮に向けられているが、防衛装備で最も対抗心を露わにしているのは日本に対してである。韓国は明らかに日本の敵性国家である。竹島も侵略・強奪されたままである。そんな敵性国家 韓国に媚びを売る国会議員集団が日韓議連(日韓議員連盟)である。

現在、現役の内閣総理大臣が日韓議連の副幹事長を務めていた。日韓議連は、日本の超党派の議員連盟で会長は自由民主党の額賀福志郎氏。その他、総理大臣の安倍晋三氏をはじめ大半を自由民主党の議員で構成する。 前身は1972年に米国の意向で発足した日韓議員懇親会で、1975年に現在の名称に改称した。

韓国の議員との交流などを積極的に行ない、友好関係促進により、アジアでの米国の影響力の促進を目的としているという。他に日韓関係の議員連盟としては朝鮮通信使交流議員の会、日韓海底トンネル推進議員連盟等が存在する。

政治家といい、大手銀行といい、マスメディアといい、日本は完全に韓国に取り込まれている。世界市場で専有率トップの東レの炭素繊維の主力工場も、2013年1月から韓国で操業を開始した。主力工場を韓国に持って行く正当な理由は何も無い。日本のお家芸も何れは韓国の主力産業になってしまうだろう。事ほど左様に日本は韓国の喰い物にされている。もはや部分修正では済まされない。坂本龍馬の名言「日本を今一度 洗濯 致し申し候」が今ほど求められている時は無い。

 

《 女性に暴力を振るい、内面より外見を重視する国、韓国 》

韓国ほど厄介な国はない。海外に出た韓国人の多くは、自国の悪習を内心では分かっているのではないだろうか? 例えば、韓国では離婚した女性は殆んど真面な職に就けない。結構大きな子供を持つ年齢でも、離婚した女性の多くは売春をして糊口を凌ぐしかないと聞く。だから、父親側に残された子供が大学生くらいであっても、友達には親が離婚したとは絶対に言わない。母親が売春婦だと告白するようなものだからだ。

日本の二世俳優である高島氏の泥沼離婚劇があったが、あれなど妻側が明らかに狂っていた。そして離婚回避に必死であった。実際彼女にとっては〈『離婚』=韓国では差別の対象〉になる訳だから、死に物狂いで復縁を迫った。明らかに夫側と妻側で意見が食い違い、誰の目にも異質に感じた訳である。まぁ、芸能人など話題になってナンボのものだから、あれで高島氏は嫌な思いをした分、宣伝にもなった訳だ。あれなど韓国人を知る者にとっては『至って普通』の事である。

海外ではイスラム等を除けば、女性を殴る事は普通は無い。卑劣な男はどこの国でもいるものだが、韓国では普通の男が女性を平気で殴る。一般的な韓国の父親は母親をよく殴るという。兄弟姉妹であっても男は普通に姉を殴ったりする。皆それを当然だと韓国では思っている。韓国人は強がりを言ったり、自国に対する誇りを口にするが、留学したりして、韓国が卑劣な国である事に気づくと、皆あっさりと国を捨てる。

韓国人は世界一、外国に永住する国民である。3年前の資料だが、韓国人は世界185箇国に永住している。支那人を大きく引き離してのギネス記録級である。厄介な事に彼らは簡単に祖国を捨てる癖に、民族意識は絶対に捨てないと言われている。何処の国に帰化しても朝鮮民族である事は忘れない。それは舛添要一都知事の韓国学校への都有地 貸与ゴリ推しを見ても明らかである。その上、韓国人は歴史を学ばないから、朝鮮民族は偉大だという妄想から逃れられない。

韓国では女性にとって『離婚したら差別対象になる事が確定』する。それほど韓国では男尊女卑のレベルが高い。日本人の感覚では有り得ないレベルだ。彼ら韓国人男性の場合は『長男・韓国人』この二つだけで素晴らしいステイタスがあると考え、更に女性に対しては『何をしても良い、何故なら韓国人だから』…と考えている。

国粋教育の所為からか『韓国人 = 世界一の民族 = 韓国人の全ての行為は正当化』される、と韓国人以外には理解不能な思考をしている訳だ。そして韓国国内ではそれが『男尊女卑』という形に変換されるので、男性は女性にターゲットを掏り替え、上述のように暴力を振るうのである。

反日活動家の在日韓国人、辛淑玉氏が、日本を指して「卑劣な国家(日本)の成れの果てが暴力亭主(慰安婦に対する旧日本軍)である」と折りに触れ発言されるが、彼女は日本で生まれ育っているから、祖国の韓国人男性の本質を知らないのだろう。

1910年の日韓併合により、日本人は朝鮮人に「差別意識・階級制度・弱い者苛め」は悪い事だと教え、禁じた積もりだったが、たった35年では民族性までは変えられなかった。差別、虐げるなどとにかく自分自身が優位に立たなければ気がすまない民族性は変わらない。そう考えると日韓併合中には卑屈なほど恭順の意を示しながら、実は腹わたが煮えくり返っていたであろう事も今となってみれば容易に想像が付く。執念深く恨み言を言い続け、カネをたかるのも民族性なのだろう。

優位に立たなければ気がすまないという民族性は、優位に立つ為には手段を選ばない。威張る為であれば『嘘をつく事をも容認』する。『韓国人は息を吐く様に嘘をつく』という表現は決して大袈裟な表現ではないのである。その上、男性による女性への暴力、突出した性犯罪の多さ、強姦好き、女性の貞操観念の無さが民族性とは、どう考えても異常である。

韓国人は、「試し腹、近親相姦、強姦国技」などの伝統的 因習により、遺伝子的欠陥を持っている事も近年明らかになってきた。韓国政府自体がそれを分かっているから、韓国では従兄弟でも結婚は不可であるし、1998年までは同姓同士の結婚も違法であった。同民族である北朝鮮の人々の写真を見れば分かるが、韓国人の様に異常なつり目もエラも目立って確認はできない。朝鮮半島の北は両班(貴族階級)で南は白丁(奴隷階級)だった事が簡単に見て取れる。

韓国人を最もよく表す言葉として『外華内貧』という四字熟語がある。これは朝鮮半島を統治中に日本人が朝鮮人を見てつくった比較的新しい言葉である。

韓国では小学生でもプチ整形が売上を伸ばし、高校生にもなると両親が卒業祝いとして整形費用をプレゼントするほど美容整形が一般的だという。美容整形する費用があったら何冊の本が買えるだろうか。併し、韓国人は内面を磨くより、手っ取り早く見映えを良くする整形手術を選ぶ。

未成年の発育途中の顔面整形はとてもリスクが高いにも関わらず、親が整形を奨励し、手術の日程を高校の卒業アルバム撮影日に間に合わせる程だという。韓国政府はこの未成年の整形が如何に危険かを国民に訴え掛けているそうだ。整形とはそれほど韓国人にとって〈魅力的〉なのである。女性だけでは無く男性も同様に美容整形をするのが一般的だ。

結婚、お見合いの席で『卒業アルバムを見せ合う事で整形の有無を確認』するそうだ。だから両親が卒業祝いとして整形費用をプレゼントするなどという異常な事が習慣化している。謂わば〈家族ぐるみで結婚相手の家族を騙す〉訳である。李氏朝鮮の時代から女の子がその美貌を見初められて、両班や王族の寵愛を受ければ、一族全員が豊かに暮らせた。そんな悪習が現代の韓国に歪んで伝わっている訳だ。

美容整形は、それを内密にしている段階で〈相手を騙している〉事になる。朝鮮人を指して『外華内貧』とは言い得て妙である。私たちのご先祖様は朝鮮半島の統治にさぞ苦労した事だろう。韓国という独立国家になっても、国民が生み出す製品も、そして韓国の国民までも、内容より外見を重視する。度を越した『外華内貧』『国家ぐるみの整形大国』韓国とは、最も隣国になって欲しくない国である。

 

あまりにも情けない戦後教育

20160419 戦前の授業風景

戦後教育で神話教育が奪われたのは、もともとはGHQのWGIPの一環としての「4大教育司令」によります。
このため、神話教育が奪われ、戦後生まれの私たちは、義務教育期間中に学校で神話を学ぶことがありません。
また義務教育以外では、せいぜいグリム童話やイソップ物語と同じ延長線上のものとしてしか、日本神話を学ぶ機会がありません。
高校、大学や社会人以降となると、古事記を学ぶとはいっても、文章が古くてむつかしい言い回しになってはいるものの、内容的には、やはり童話の延長線上の解釈しか、現実に提示されていないのが現状です。

ところが私たちの先輩は、みなさんこぞって「神話を読め学べ」とおっしゃいます。
そこに日本の心のすべてがある。
日本人として大切なことが全部書かれているのだとおっしゃいます。

けれど、そう思って古事記や日本神話を読んでも、頭が八つあるキングギドラのような大蛇が出てきたので酒を呑ませてやっつけたとか、大国主神はウサギと話すことができたとか、そういう筋書きしか書いてありません。
現職世代といいますか、いま現役のビジネスマンとして、バリバリに責任あるお仕事をされている方々、毎日忙しい日々を送られている方々が、「大蛇が酒を飲んだ」とか「ウサギとお話した」とかいう話を聞いて、「なるほどこれが日本的精神の根幹か!」と思えるとしたら、見方によっては、それはちょっと変わった方かもしれません。
むしろ「その話のどこが、何が大事なのか?」と疑問を抱かれることの方が、正常な精神の持ち主といえるのではないでしょうか。

もちろん、最初に筋書きを学ぶことは大切です。
幼児教育の一環として、そうした全体の筋書きが頭にはいっていれば、次のステップとして、そこから何を得るか、何を学ぶかという話になってこようかと思います。
ものごとを理解するには、
まず、全体像を把握する。
次いで、部分の深掘りをする、
という順番が必要であると思うからです。

つまり、先輩諸氏は、その深掘りした何かをご存知だから、「神話を学べ」とおっしゃるわけです。
ところが私たちに提供されている情報は、全体像の把握に必要な「あらまし」だけで、それが何を意味しているのか、何を学び取るべきなのかを示す、深掘り情報の提供が、実はまったくなされていないのです。
そこに大きな世代の断絶というか、思考や学びの落差があります。

小学校1〜2年生の子供が神話を習うなら、キングギドラやウサギさんのお話でも良いのです。
たとえば因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)なら、
「むかしむかしね、ウサギさんが
海を渡ろうとして、サメを騙したの。
そしたらサメが怒ってね、
ウサギさんの毛を剥いでしまったの。
こわいわよね。
だからね、人を騙したりしてはいけないの。
それで大怪我をしたウサギさんをね、
オオナムチっていう若者が助けてあげたの。
オオナムチっていう人はね、
そういうやさしい人だったから、
末には大いなる国の主の神様になったのよ。
だからね、偉くなる人は、心にやさしさが大事なの。
◯◯ちゃん、わかる?」

といった物語という理解で、それは足りるのです。
けれど、戦前、戦中は、神話は何も小学校1〜2年生の授業ではなく、尋常小学校の高学年でも学んだし、中学でも学んだのです。
それが果たして、上にあるものと同じ話だったのでしょうか。

実は全然違うのです。
そこで、まず全体像の把握をしてみます。
だいたい次のような展開になります。

大国主神には、たくさんの兄たち(八十神)がいた。
八十神たちは、美人の誉れ高い隣国の美女、八上比売(やがみひめ)をめとろうと、出雲に向かった。
当時は通い婚社会であった。
通い婚は、勝手に夜這いして子を孕ませるという乱暴なものではない。それでは強姦になってしう。
娘の両親とも面会して、この男性なら!と見込まれて、はじめて通うことが許された。
だから八十神たちは、ウサギ(弱者)を騙した(傷口に塩を塗りこんで痛みを増させた)という悪さがバレて、結局縁談を断られている。
ウサギを誠実に助けた大穴牟遅神(おおなむち=大国主神の若いころの名前)は、その誠実さが認められて、八上比売と結ばれる。
ところが、これが八十神達の妬(ねた)みを生む。
妬みは恐ろしい。
彼らは大穴牟遅神を亡き者にしようと、真っ赤に焼いた石を抱かせたり、木の俣に挟み込んで身動きができないようにして殴りつけたりと、乱暴狼藉をはたらいた。
いまでいうイジメである。
あまりのイジメの残酷さに、耐えかねた大穴牟遅神は、親戚の須佐之男命(すさのお)を頼って根の堅州国に逃げる。
そこで須佐之男命の娘の須勢理毘売(すせりひめ)と出会って、父の須佐之男命から婚約者であることを認められる。
ただし武勇をもって知られる須佐之男命にしてみれば、ただイジメられて逃げるしか能のないような男では、大事な娘の婿にするわけにいかない。
そこで大穴牟遅神を、蛇の部屋、ムカデの部屋、蜂の部屋に閉じ込めて訓練を施す。
大穴牟遅神は、須勢理毘売から受け取っていたヒレ(肩衣のこと)を振ることで、蛇やムカデや蜂を退散させ、朝までぐっすりと眠ることができた。

さて、ここまでのお話の前段で、人を騙したりせずに、誠実に生きていることが、良い女性と結ばれるのに必要なことであることは、わかったと思います。
しかしそれが原因で、妬まれ、イジメを受けることがあることもご理解いただけたかと思います。
大穴牟遅は、良い男です。
ウサギを助けていますし、八上比売の両親も結婚を認めているわけですし、須勢理毘売に一目惚れされているくらいの男なのですから、きっと性格も良く、古代の医療技術を身に着けているという優秀さも持ち、見た目も素敵な良い男であったろうことは容易に想像がつきます。
ところが彼は、八十神たちにイジメを受けています。
つまり、弱いのです。
不条理に対する戦いの術を持っていないのです。

須佐之男命は、娘の婚約者である彼を、蜂やムカデや蛇の部屋に入れています。
では、それは何のためだったのでしょうか。
須勢理毘売のヒレ(肩衣のこと。布でできたショール)を振ったら、蛇やムカデが退散してくれたので「ぐっすり眠れた」とありますが、軟弱な男を一人前に鍛えるために必要なことは、「ぐっすり眠る」ことなのでしょうか。
それとも「ヒレをパタパタと振る」ことなのでしょうか。

最近、書店さんの店頭で売られている古事記の本は、どの本をご欄いただいても良いのですが、すべて、「須佐之男命が蛇や蜂の部屋に閉じ込めたが、須勢理毘売の機転によって、大穴牟遅神はぐっすりと眠れた」というようにしか書かれていません。
もちろん、筋書きはそのように古事記に書かれています。
けれど、須勢理毘売の父親の身になって考えてみてください。
娘の旦那になるということは、そこから生まれる子は、自分の子孫です。
その子孫が軟弱な子孫になっては、家が持たない。
娘の旦那は、見た目が良くて、頭が良いばかりではなく、同時に強い男であってもらわなければ困るのです。
つまり、強くない(=弱い)ということは、男として、それだけで半人前なのです。

だからこそ須佐之男命は、娘の彼を蛇や蜂の部屋に入れています。
ということは、半人前の男を一人前に鍛えあげるのに必要なことは、「ヒレを振ってぐっすり眠る」ことなのでしょうか。
そもそもこの大国主神神話というのは、はじめ、人が良いだけでイジメられっ子だった青年が、後には大いなる国の主(大国主神)になったという物語です。

つまり、見た目が良くて頭も良いけれど、弱虫で、みんなからイジメられっぱなしだった男が、ある機会を経て、そこから立ち上がり、偉大な王にまで成長したという物語です。
西洋の童話風に言うなら、「アーサー王は何故、歴史に残る偉大な王となることができたのか」を描いたのが、大国主神神話です。

その理由が「ヒレを振ってぐっすり寝た」としか読めないことが問題なのです。
戦前の尋常小学校や国民学校の教室なら、ここで先生が、
「では、蛇やムカデや蜂は、何を意味しているのか、みんなで考えてみよう!」と声をかけたわけです。

生徒たちは、子供でも、ちょっと考えればここで答えがわかります。
蛇は「手も足もでない苦境」です。
ムカデは「たくさんの選択肢に迷う葛藤」です。
蜂は「心身の苦痛」です。
これらを、いかにして乗り越えるのかを、須佐之男命は大穴牟遅神に学ばせているのです。
そして、苦境や葛藤や痛みを乗り越えのに必要な力は、愛する者の支えと、愛する者をいかにして守ろうとするかにあることがここで教えられます。

八十神たちに命を奪われるほどのイジメを受けているというときに、これに打ち勝つために必要なことは、喧嘩に強くなること、腕を磨き体力を付けるということの前に、何より「愛する者を守ろう」とする覚悟が大事だと教えられたわけです。
自分一人なら、イジメられたらガマンするだけでも足りるかもしれません。
あるいは、そこから逃げ出すことだけで良いのかもしれません。
しかし愛する者ができたとき、その愛する者を守るためには、愛する者とともに、互いに支えあい、それを乗り越えていかなければならないのです。
そしてその「乗り越える力」というのは、まさに愛の力そのものであるということが、ここに書かれていることと学ぶわけです。

手も足も出ない苦境や、たくさんの選択肢に迷う葛藤や、心身の苦痛は、人生のあらゆる場において現実に必ず起こることです。
そしてそれは「乗り越えなければならない試練」でもあります。
これを乗り越えるには、何より愛の力が大事だということを、ここで学ぶのです。

こういうことは、物語の上辺だけを読んで、「ヒレを振ってぐっすり寝た」としてしかこの物語を理解しなのと、そういう深いところまでをしっかりと学ぶことでは、教育という面から見た時、あるいは人を育てるという点から見た時、まさに雲泥の差となってあらわれます。

このようなことを書きますと、
「なるほど良い話を聞きました。ついては、そのことがどの本に書かれているかを教えて下さい」というコメントが毎度必ずつきます。
申し訳ないけれど、そんなことはどこにも書かれていません。

理由は、簡単です。
ひとつは、こんなことは、かつての日本では、そのようなことは自慢気に本にしなければならないようなことではなくて、あたりまえの常識に他ならなかったことであったこと。
もうひとつは、何かに書かれているものを紹介するだけなら、むしろその本を紹介すれば足りることで、私の解説など必要無いということです。

どこかの本の引用なら、その本を紹介すればことが足りるのです。
書いてないから、書くのです。
あまりにもあたりまえすぎて、かつては書く必要さえないほどあたりまえだった常識であり、小学生でもわかったようなお話が、いまでは、大人になっても気付かない、そのことをちゃんと書いている本がないから、書いているのです。
70年前なら、こんなことを書いたら、逆に馬鹿にされます。

東南アジアの人々は、日本人と支那人や韓国人を簡単に見分けます。
実に簡単です。
ご飯を食べ終えたとき、日本人は食後に不思議なじゅもんを唱えるのです。
だから日本人とわかります。
支那人や韓国人には、それがありません。

日本人にとっては、食後に「ごちそうさまでした」というのは、ただの常識です。
それは空気のようにあたりまえの習慣です。
ですから日本人に「どうして食後に呪文を唱えるのか」と聞いても、答えられる人はあまりいませんし、「なぜ日本人は食後にごちそうさまと言うのか」について書かれた本も、ありません。
それが日本人にとって、あまりにあたりまえのことだからです。
つまり、あたりまえのことは本になど書かれていないし、書く人もいないということです。
けれど、それが失われたなら、書かなければなりません。

インパールの戦いで7万人の日本兵、つまり若い日本人男性が戦場から引き揚げてくる時、そのうちの約5万人が街道筋で餓死しました。
日本兵の遺体が延々と並んだその街道は、後に白骨街道と呼ばれています。
日本人の白骨が街道に連なったからです。

ところが、この街道の両脇は農地です。
場所は熱帯ですから、年中、そこには作物が稔っているのです。
つまり道端には、食べ物がたくさんあったのです。
にもかかわらず、日本の若い軍人さんたちは、餓死しました。
なぜでしょうか。
その作物を、勝手に泥棒して食べるということをしなかったからです。

ところがインパールの戦いを書いた戦記や体験記で、「私は路肩の農作物をひとつも泥棒しませんでした」などと自慢気に書いている本など、ひとつもありません。
たとえ飢え死にしても、人のものを盗らない。
そんなことは、あまりにもあたりまえの常識だったし、それを自慢気に書きでもしたら、それこそ戦友たちから馬鹿にされたからです。
ところがこのことは、世界の戦の敗残兵という視点でみたら、とてつもなく、ありえないことです。

しかし「書いてないから、なかった」ことにするには、あまりに悲しすぎる出来事です。
だからかつての常識が通用しなくなった今、これはあらためて書くべきことになっています。
なぜなら、歴史は学ぶものだからです。

神話も同じです。
大国主神の物語が成長の物語なら、その成長のいわば、ターニングポイントになったのが、ウサギとの出会いであり、蛇や蜂の部屋であるわけです。
そうであるなら、その「何が成長を促したのか」を考え、読み取ることが大事なのではないかと思います。

(昔)
「この和歌は、恋の歌です。」
「どうしてですか?」
「はい。タイトルに『恋』と書いてあります」
「不正解です。もういちど勉強してきなさい」

(いま)
「この和歌は、恋の歌です。」
「どうしてですか?」
「はい。タイトルに『恋』と書いてあります」
「正解です。たいへんよくできました」

日本人がアホになるわけです。

《 韓国の教科書は、自らの悪事は一切書かず、悪い事は全て日本の所為にする。昔も今も韓国人の歴史観は大差ない。》

韓国は史実を調べもせず、古代に文化を日本に教えてあげたなどと根拠の無い優越感を持っているが、実際のところ、韓国側に資料は無く、全て日本書紀などの記述を根拠としている。併し、古代に日本が朝鮮半島の任那を支配していたと日本書紀などの記述を根拠として主張すると、そんな事は有り得ないと、またもや根拠無く日本側の資料を否定する困った隣国である。

韓国の中・高等学校教科書を見ると、百済・高句麗・新羅三国の文化が日本に伝えられた話が出てくるが、その内容は日本古代の史書である『日本書紀』を土台にしているもので、朝鮮の史書によるものでは無い。何しろ朝鮮に「日本書紀」に匹敵する古い史書など無いのである。

ところが、日本の学者たちが『日本書紀』を土台にして、古代日本が200年余り朝鮮半島南部の伽耶(任那)地域を支配したという「任那日本府説」を主張すると、韓国の学界では、それは信じる事ができない資料なので、その学説も信じる事ができないと主張する。

『日本書紀』には日本が『任那日本府』という機構を置いて朝鮮半島南部を支配しつつ三国文化を伝播させたようになっている。併し、韓国の中・高等学校では三国文化が日本に伝播される国際関係に関しては何の説明も無く、ただ高句麗、新羅、百済の三国が日本に文化を伝えた事実だけを教えている。

韓国の教育は学生たちに日本を客観的に理解する事を教えず、無条件に対日優越意識だけを助長する結果を齎している。海外に留学した韓国の学生が、日本側の主張をそのまま取りあげた任那日本府説に接して戸惑うのも無理もない。

元寇は、元と高麗の連合軍によって構成されていた。従って、高麗は(高麗が今の韓国だと仮定すれば)秀吉の朝鮮出兵の三百年も前に、既に日本を侵略していた事になる。さてこの元寇について、韓国の教科書はどう書いているか。

『元は日本を征伐する為に軍艦の建造、兵糧の供給、兵士の動員を高麗に強要した。元はこうして二次に亘る高麗・元連合軍の日本遠征を断行したが、全て失敗した。元は日本征伐の為、高麗に征東行省という役所を置いた。征東行省は、日本遠征が失敗した後には元と高麗との公共連絡機関として運営された。』

…たったこれだけである。秀吉の朝鮮出兵には何ぺージも費やす韓国の教科書が、自ら日本を侵略した行為については僅か数行の記述で済ませている。然も、何と高麗は元に「強要」されて、仕方なく日本に「遠征」したのだそうである。これも大嘘である。『高麗史』によれぱ、元寇の発端は高麗の忠烈王が元の世祖にしきりに働きかけ、執拗に東征を勧めた事による。(下條正男 著『日韓・歴史克服への道』)

韓国人は、自らが為した都合の悪い事は、全て強要されたなどと他人の所為にする。大東亜戦争時に我れ先にと旧日本軍に志願した事実も、今は日帝に強要された事にして、大東亜戦争の責任は一切取ろうとしない。韓国朝鮮人は民族的に不誠実なのであろう。

然も、高麗軍は日本で何をしたか。最初に侵略を受けた壱岐・対馬の二島では、住民の男は悉く殺され、女は手に穴を開けられて数珠繋ぎの捕虜にされた。二百人の童男童女は高麗軍に連れ去られ、忠烈王に献上された。今も泣く子を黙らせる為、母親が子に「モッコ(蒙古の訛り)来るぞ」とあやす言い方が全国各地に残っているが、元寇から七百年を経過した今尚、日本人の蒙古・高麗に対する潜在的な恐怖心は消えていないのである。当時の日本人の恐怖は、想像するだに余りある。

実は後年の倭寇も秀吉の朝鮮出兵も、この元寇と無関係ではない。李朝後期に安鼎福が書いた『東史細目』では、倭寇の原因が元寇にあったとし、秀吉の朝鮮出兵も究極の原因は元寇にあったとしている。
(下條正男 著『日韓・歴史克服への道』)

倭寇や「壬辰倭乱」(秀吉の朝鮮出兵)は大々的に書き立てる韓国の教科書が、元寇については他人事のように頬被りをして責任逃れをし、たった数行で片づけている。

さて、次はその倭寇であるが、韓国の教科書ではどう書いているか。

『倭寇は、対馬島を根拠地とする日本の海賊で、早くから海岸地方に侵入し、掠奪行為をしていた。恭愍王(きょうびんおう)代には倭寇に江華島まで掠奪され、開京が脅かされる程であった。これにより租税の海上運送ができず、国家財政が苦しくなり、海岸から遠く離れた内陸まで倭寇が侵入して、大きな被害を被るようになった。

高麗は倭寇を抑える為に日本と外交交渉も行なったが効果をあげられず、結局武力で討伐した。チェムソンは火砲をつくって鎮浦の戦いで倭船を焼き払い、チエヨンと李成桂はそれぞれ鴻山と荒山などで倭寇を大いに打ち破った。続いてパクウイは戦艦100隻を率いて倭寇の巣窟である対馬島を征伐し、その気勢を挫いた。

(中略)高麗末に大きな騒乱を起こした倭寇は、朝鮮初期にも我が国の海岸に侵入して略奪を止めなかった。そこで世宗の時、李従茂などが200隻の艦隊を率いて倭寇の討伐に向かい、対馬島を征伐した。』(韓国は近年、対馬を韓国領だと主張し出したが、この教科書の記述を見ると、昔から対馬は 矢張り韓国の領土ではない事が分かる)

こういう記述である。倭寇は「対馬島を根拠地とする日本の海賊」と書いているが、朝鮮に「三島倭寇」という言葉がある通り、倭寇の根拠地は対馬・壱岐・松浦それに博多等、何れも元寇の際、高麗軍の直接の被害を受けた地域の住民であった。

倭寇の記録として、残っている最初のものは高宗10年(1223年)である。元寇の余燼いまだ収まらぬ対馬や壱岐の島で、残虐な高麗軍により親を奪われ、子を奪われ、辛うじて難を逃れた住民が、高麗に深い恨みを抱くに至ったのは、寧ろ人間の情として自然であろう。それに、対馬は土地が狭く、耕作には適さない。太古から日本や朝鮮との交易で生計を立てていた。高麗に交易を阻まれ、生計の道を断たれた結果として、対馬の民は朝鮮の海岸を襲うようになったのである。

当時の高麗は、元寇に先立つモンゴルの侵略により、数十万の男女が捕虜となり、或いは虐殺され、国家自体が非常に弱体化していた。その弱みが一層倭寇の行動を刺激し、誘発した事も事実である。
(田中健夫『倭寇と勘合貿易』)

もう一つ、韓国の教科書が全く無視して書かない重要な事がある。倭寇は日本人だけではなかった。『世宗実録』28年(1446年)の記事によれば、倭寇のうち日本人は一、二割に過ぎず、他は日本人に成り済ました朝鮮半島の民であった。昔から朝鮮人は悪い事を為す時は日本人に成り済ましていたのである。

高麗時代の末期には、軍隊や官吏は統治能力を喪失して、治安を維持できない無政府状態にあった。人々は、「倭寇を仮りて露命を繋ぐ以外に、生きる術が無かった」のである(下條正男、前掲書)。こういう所にも、自分に都合の悪い事実は書かないという、韓国の教科書の悪い癖が表れている。これも、「過去が暗いからといって隠し」ている、韓国の教科書の一例であろう。

扶桑社の『新しい歴史教科書』は、倭寇について次のように書いている。『倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国大陸の沿岸に出没していた海賊集団の事である。彼らには、日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていた。』

簡潔な記述だが、間違いではない。ところが、韓国はこれに異を唱え、『倭寇の発生原因に関する説明が欠落』 『倭寇=日本人』という既存の歴史観を払拭させるため倭寇に朝鮮人と支那人を含めて記述」と言ってきた。おかしな要求である。発生原因など、韓国の教科書を見てもどこにも書いてありはしない。

発生原因など書いたら、それこそ高麗の日本侵略と高麗自身の弱体化に原因があるという事になり、韓国自身、天に唾する結果になるのではないか。それに、「日本人の他に朝鮮人も多く含まれていた」のは「既存の歴史観」の「払拭」などではなく、朝鮮の史書自体が認めている事である。韓国の歴史修正要求とは、このように滅茶苦茶なものである。

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▪️その他の日韓歴史問題1  反日史観を糺す
http://ccce.web.fc2.com/rekisi1.htm

 

昭和天皇行幸

写真は昭和21年2月19日に報じられた昭和天皇の川崎京浜地区の行幸の新聞記事
昭和天皇川崎行幸

おかげさまで、拙記事「マッカーサーを心服させた昭和天皇」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2265.html)の、「イイね!」が4万件を突破しました。
個別記事へのアクセスの解析は行っていないのでわかりませんが、お越しいただいた方はそれ以上になろうかと思います。
昭和天皇のこの記事へのアクセスが伸びたことには、いま何かが日本国内の精神世界に起こっていることを暗示しているように思えます。

そこで今日は、同じく過去記事から「昭和天皇行幸」をお届けしてみたいと思います。
このお話しは、しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」から、すこしねず流に訳してご紹介させていただいています。
大感動のお語しです。
まだお読みでない方は、是非ご一読されることをお薦めします。
ここにも知っておきたい日本の真実のカタチがあります。

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お腹を空かせた者がいたら、パンを与える。けれどそれでは一時しのぎにしかならない。
なので、お腹を空かせた者がいたら、パンを得る方法そのものを諭すことこそが、より良いことなのだと、どこかで教わったご記憶をお持ちのかたも多いのではないかと思います。

だけど日本には、それ以外の第三の道があります。

昭和20年8月の終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。物価も高騰しました。
食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。
それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配していました。

その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がりました。
そのきっかけが、昭和天皇の全国行幸です。

以下は、昭和24年5月の昭和天皇の佐賀行幸のときのお話しです。
昭和天皇の行幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。全行程は3万3000km、総日数は165日に及びます。

実はこれはたいへんなことです。
そもそも陛下の日常は、我々平民と違って、休日がありません。
一年365日、常に式典や祭事、他国の元首その他の訪問、政府決定の承認等があり、その数なんと年間約2000件を超えるご公務があるのです。
そういうお忙しい日々を割いて、全国行幸をされたのです。

この巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。
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この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。
この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。
しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることがわたくしの責任と思う。
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当時、焼け野原になった日本で、人々はそれまで「正しい」と信じて来た価値観を全部否定されました。
それまでの正義が悪とされ、それまでの悪が正義とされるようになったのです。
しかも、たいへんな食料不足で、物価は急激に高騰していました。

お腹を空かせた家族のために闇市に買い出しに行けば、そこは暴力が支配するドヤ街です。
嫁入り道具の着物を持って、ようやく物々交換で米を手に入れると、ならず者たちにそれら根こそぎ暴力で奪われる。
そういう暴力を取り締まるべき警官は、肝心の暴力には一切目をつぶり、むしろ闇米の売買は禁止だからと、苦労して得た一般人がようやく手に入れたお米を、没収する。
そういう情況だったのです。

そんなひどい状況から国内が一日も早く脱皮し、日本人が普通に生活できるようにしなくてはならない。
そんなときに陛下が選択されたのが、全国行幸だったのです。

陛下がおでましになられるのに、街が荒れていたら行政はその責任を問われます。
ですから陛下が御行幸されると通知された地域では、行政府が中心となって、大急ぎで街の復興が図られ、また治安の回復が行われました。

一方、未曽有の戦災を被った日本を不法な闇市を通さなくても十分に食料が分配できるようにするためには何が必要かという問いに対し、おそらくいまの時代なら、すぐに財政出動だ、何々手当の支給だ等という話になるのでしょうけれど、終戦直後の本当に混乱していた時代に陛下が御選択されたのは、「全国民の真心を喚起する」という、その一点だったのです。

国民一人一人が、炭鉱で、農村で、役場で、学校で、会社で、あるいは工場で真心をもって生産に勤しむ。
ひとりひとりの国民が復興のために、未来の建設のために立ち上がる。
そのために陛下は、「全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与え」ようと、全国を回られたのです。

ところがこの時代、全国に、共産主義に感化された人たちがいました。
そうした人たちは、共産主義革命の実現のために、陛下を亡きものにしよう、あるいは陛下を吊るし上げようと、各地で待ち受けていたのです。

陛下が佐賀県に行幸されたのは、昭和24年5月24日のことです。
この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に行幸されました。
因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で、歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ったお寺です。

その御歌は、昭和13年に皇后陛下が戦死者に対して詠まれた次の二首です。

やすらかに眠れとぞ思う きみのため
いのち捧げし ますらをのとも

なぐさめんことのはもがな たたかいの
にはを偲びて すぐすやからを

陛下は因通寺が、この歌を大幟にしたことをいたく喜ばれ、皇后陛下も針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。
また終戦後は、因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていました。

ちなみにこの因通寺のご住職が書かれた本が、「天皇様が泣いてござった」です。
いまではなかなか手に入らなくなったこの本には、通州事件の話などが所蔵され、たいへんに歴史的意義の深い本となっています。

陛下がその因通寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっりました。
道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいたそうです。

その町道の一角には、ある左翼系の男が、麦畑を作っていました。
この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやる、などと豪語していました。
けれど、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放して「ここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていたといいます。

朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。
群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。
群衆の自然の発露として、この声があがったのです。

御料車が停車すると、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。
一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立ちました。
そのあとから陛下が車から降りられました。
そしてえ入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。
その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがりました。

陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられました。
その姿に、群衆の感動はいっそう深まります。

ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない人たちです。
その陛下が、いま、目の前におわす。
言い表すことのできないほどの感動が、群衆を包み込みました。

お車を停められたところから、因通寺の門まで、約700メートルです。
その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていました。
そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていました)でした。
彼は、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープとかの設置もしていませんでした。
陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。

そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。
その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったそうです。

陛下が寺の山門に到着しました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段があります。
その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。
石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。
陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられました。

陛下が、その場で足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝されました。
そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれます。
洗心寮の二階にある図書室に机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。

図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べました。
「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました天皇陛下を目の当たりに・・・・」

けれど、そこまで言上申し上げていた沖森知事は、そこで言葉が途切れてしまいました。
知事だって日本人です。明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていた知事は、陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。

するとそのとき、入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると、不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所のことについてご説明申し上げることになっていました。
自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。
自分はあんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせると、住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ました。そして書いてある奏上文を読み上げました。
「本日ここに、一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ、感激これにすぎたるものはありません」
住職は、ここまで一気に奏上文を読み上げました。

けれど、ここまで読み上げたところで、住職の胸にも熱いものが突き上げてしまいました。
引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿、彼らと一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。

意識は、懸命に文字を探そうとしていました。
けれどその文字はまったく見えません。
発する言葉も声もなくなり、ただただ、目から滂沱の涙がこぼれてとまらない。
どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。

そのとき、誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。
住職は、このときのことを、「前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまった」と述べています。

こうしたことは、外国の大使の方々も同様のことがあるのだそうです。
外国の大使の方々は、日本に駐在していていよいよ日本を離れるというときに、おいとまごいのために陛下のところにご挨拶に来る習わしになっています。

駐日大使というと、長い方で6~7年、短い方でも2~3年の滞在です。
帰国前に陛下にお目にかかってお別れのご挨拶をするのですが、ほとんどの駐日大使が「日本を去るに忍びない、日本には陛下がおいでになり、陛下とお別れをすることがとても悲しい」ともうされるのだそうです。
この言葉が儀礼的なものではないことは、その場の空気ではっきりとわかるのだそうです。
そして陛下とお話しをされながら、駐日大使のほとんどの方が、目に涙を浮かべられ、言葉を詰まらせる。
特に大使夫人の方々などは、頬に伝わる涙を拭くこともせず、泣きながら陛下においとまごいをされるといいます。
因通寺のご住職と同じ状態になってしまうのです。
こうしたことは、その大使が王国であろうと、共和国であろうと、共産圏の方であろうと、みな同じなのだそうです。
不思議なことに、むしろ反日の共産圏の国々の方々のほうが、より深い惜別の情を示されるといいます。

さて、ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上します。

この奏上が終わったとき、何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。
そして「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が、立派な人になるよう、心から希望します」と住職に申されました。
住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままならなかったといいます。

この挨拶のあと、陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしないのです。
昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っているのです。

すると陛下が子供達に御会釈をなさいます。
頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。
それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。
「どこから?」
「満州から帰りました」
「北朝鮮から帰りました」

すると陛下は、この子供らに
「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。
そして、
「おいくつ?」
「七つです」
「五つです」と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、
「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。
この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。悲しかろう。けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。
そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸に沁み込んでいく。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っています。
その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。
鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。
それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。
重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に、近づかれました。
そしてやさしいというより、静かなお声で、「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。
陛下の目は、一点を見つめていました。
それは、三人の女の子の真ん中の子が、胸に抱きしめていた二つの位牌でした。
陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。
「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになりました。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」
この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は
「おひとりで?」とお尋ねになる。父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味です。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけられました。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は、
「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。
この子も、じっと陛下を見上げています。
陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。
部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申された。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちたそうです。

そのとき、この女の子が、小さな声で「お父さん」と呼んだそうです。
これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣いたそうです。
東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。

子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになることになります。
山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいます。

その中に「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、

「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。

遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえてきました。

陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。
「どなたが戦死されたのか?」
「息子でございます。たったひとりの息子でございました」
そう返事しながら、老婆は声を詰まらせます。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は
「どこで戦死をされたの?」
「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨は、まだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」

そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わっています。

そうなのです。
この老婆の悲しみは、陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみとなっていたのです。
そばにいた者全員が、この様子に涙しました。

遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
そして陛下は、「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。
そこには、若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていました。

実はこの人達は、シベリア抑留されていたとき、徹底的に洗脳されて、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もす陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていたのです。

そうした意図を知ってか知らずか、陛下は、その一団の前で足をお止めになられました。
そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられた。

「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。みなさんは、外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国があある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います」

陛下の長いお言葉でした。そしてそのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。
はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまいました。
「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。

そして、
「天皇陛下さま。ありがとうございました。いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。引揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみれば、まるで赤裸です。生活も最低のものになった。ああ、戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。しかし、苦しんでいるのは、私だけではなかった。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。
今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」
と、ここまでこの男が申したとき、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。

「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。
すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。
彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられた。
何も言うことのない、感動と感激の場面だったそうです。

いよいよ陛下が、御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、
「また来てね」と申したそうです。

すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると
「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申された。

御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれます。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていた。

宮中にお帰りになられた陛下は、次の歌を詠まれました。

みほとけの教へまもりて すくすくと
生い育つべき 子らに幸あれ

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先日、皇居勤労奉仕に参加された方が、皇居で今上陛下におめにかかりました。
やはり、目の前が真っ白になって、胸がいっぱいになったそうです。
そして「ああ、私は日本人なんだ」という思いが、心の中をぐるぐるまわったそうです。

日本には、さまざまな国の大使館がありますが、諸外国から日本大使に任ぜられて日本にやってきた大使たちは、日本にやってくると最初に、ご夫婦で陛下にご拝謁されるのだそうです。
この拝謁は、もちろん反日の国の大使たちも同じです。
内閣総理大臣でもなければ国会両院議長や最高裁長官でもない。天皇に拝謁するのです。
つまり日本は、諸外国からは、いまでも立派な君主国とみられているということです。

その大使たちは、任期を終えて本国に帰るとき、やはり陛下にご拝謁なさいます。
そのとき、反日国の大使も含めて、みなさん、帰りたくないと陛下の前で涙を流されるそうです。
なかには感極まって、泣き崩れてしまうご婦人などもおいでになるのです。

日本の天皇という存在は、世界で唯一Emperorの称号が許される存在です。
けれど、おそらく天皇ご存在には、そうした称号がもたらす権威や歴史以上の何かがあるように思います。
それは神に通じる何かであるのかもしれません。

わたしたちは、その天皇のシラス国の民(たみ)としてこの世に生まれてきたのです。
そして天皇は、わたしたちをいまでも「おおみたから」としてくださっています。

この世のすべての出来事は、何か意味があって起こるといいます。
そういう国に生まれ、その天皇から「おおみたから」とされることで、政治権力者とも人として対等に生きることが許容された歴史を刻んできたのが、日本人です。

そこに自然な感謝の気持ちが持てる日本人に、自分もなっていきたいと思うのです。
この世に生を受けさせていただき、感謝です。

戦泥棒

20160415 鎧兜

最近のアニメ映画やテレビの時代劇などで、戦国時代の戦(いくさ)のあと、近隣の農家の人たちが戦場に転がっている武者たちから刀や鎧などを「盗みに」来る姿が描かれることがあります。
おそらくは日本に住んで日本人の名前を名乗る日本人でない監督やスタッフの勝手な思い込みなのでしょうが、実にとんでもない描写です。
死んだ兵の身ぐるみを剥いだ上、食べてしまうどこかの国では、それが常識かもしれませんが、日本には戦国時代にさえ、そのような習慣はありません。

なるほど戦のあと、近隣の農家のみなさんが、戦場となった場所にやってきたのは事実です。
けれどそれは、ちゃんとした理由があってやってきていたのです。
そもそもそこは、もともと彼らの田畑です。
そして、戦のあと片付け料も含めて、ちゃんとその費用を事前にもらっているのです。

戦国大名たちが戦をするときは、事前に戦場となるところを相互に打ち合わせ、あたり一帯の田畑の農作物を事前に買取ました。
ちなみにこのとき、主に田んぼを戦場にしました。
畑地は、あまり戦場には利用しませんでした。
これには理由があって、畑地には、かならず肥溜めがあるからです。

戦の最中に、万一、肥溜めに落ちて、重い鎧兜のためにそのまま沈んで亡くなりでもしたら、それはとっても残念なことだからです。
ですから、農家に依頼し、田んぼのなかにある畑などで、肥溜めがあるところでは、必ず事前に動かないようなちゃんとした蓋をしてもらっていました。

そして戦が行われれば、遺体の埋葬の手当も必要ですすから、それらの費用まで含めて、戦をする側が、事前に作物を高値で買取っていました。
ですから作物の買取費用には、
1 軍用食料の調達
2 戦場となる地域のメンテナンス(肥溜めの蓋など)
3 戦後の後片付け(遺体埋葬など)
4 鎧や刀、槍、弓など、先祖伝来の備品の郷里への送還
などの費用が含まれ、高値で買い取られるのが常識でした。

遺体が転がっていたままでは、そこで農業ができないのです。
ちゃんと後片付けもしなきゃならないし、彼らはそこで再び作物を育てるのです。あたりまえのことです。
戦場に転がる遺体は、そのまま放置しておけば、腐臭を発し、鳥や獣の餌になるだけでなく、寄ってきた獣たちは、こんどは農業を再開したあとの農地を荒らすようになります。
それに、時間が経ってしまうと、遺体は腐乱し、後片付けがしにくくなります。
ですから、戦が終われば、滞り無く、すぐに近隣の農家で力を合わせて、遺体や散乱した武器や幟などの片付けをしたのです。これまたあたりまえのことです。

日本では、遺体は鎧を脱がせてちゃんと埋葬までしています。
鎧を着たままの埋葬はしません。
埋葬は、火葬、土葬と、土地の習慣によってまちまちですが、火葬する場合は、鎧を着ていたら燃やすことができないのです。これまたあたりまえのことです。

そして、脱がせた鎧や武装は、ちゃんと持ち主の家族に送り届けています。
だから、鎧を脱がせる。これまた当然のことです。
武士たちの「もとどり」、つまり「ちょんまげ」にも理由があります。
遺体を遠くまで送り届けることはできないから、髷を切って、それを、鎧や兜、刀槍などと一緒に送り届けていたのです。

田舎の、すこし古い家ですと、いまでもご先祖の鎧をお持ちの家があります。
その祖先は、必ずしも戦で生還したご先祖ばかりではありません。
戦地でお亡くなりになったご先祖もいるのです。
けれど、その「戦地で亡くなったご先祖」が着ていた鎧は、ちゃんと持ち主の家に帰ってきているのです。
それがなぜかといえば、答えは簡単です。
「戦場の近隣の農家の人たちに、ちゃんと送り返してもらっていた」からです。

それができるだけの物流網があり、だから諸国の街道が整備されていました。
勘違いしているどこぞの半島が、日本が統治するまで、諸国をめぐる街道すらなかったのとは、段違いです。
現代のわたしたちは、産まれたときには、すでに道路網が整備された環境にあって、道路なんていうものは、「そこにあるもの、あたりまえのもの」と勘違いしていますが、実はすべての道路は、必要があって、誰かが造ったものです。

それをまるで泥棒でもしていたかのように描写するのは、おそらくその番組のプロデューサーか監督が、日本ではないところの出身者としか考えられません。
まさに、戦泥棒(いくさどろぼう)を映像化することは、歴史の捏造そのものでしかないのです。

そもそも戦泥棒が出るというのは、遺体からの泥棒が悪事と認識されず、民衆が貧しくて貧困に置かれていて、民衆の生活の根幹になる農地などを、民間の都合を無視して勝手にそこを戦場にする不届き者が、民衆の上に君臨している場合に限られます。
そして、まさにそういう状況にあった大陸やどこかの半島では、戦泥棒はまさに社会の常識でした。
それと日本を同じにしてもらいたくないと思います。

そもそも世界中、多くの国において、道路は「軍用」に造られましたが、日本では古代からすべての道路は民生用に造られています。
そして飛鳥奈良平安の昔から、日本では民間の物流機構が整えられていました。
そのために、駅ができ、宿もうまれ、道路網の整備によって、お伊勢参りや、京都御所を守る御垣守(みかきもり)などの参内旅行が庶民の憧れとなり、民間の湯治などの温泉旅行や紅葉見物、花見などが観光地として盛んに行われるようになっていました。

要するに、戦にでかける武士たちは、鎧兜に名前と住所を書いておきさえすれば、自軍が戦に負け、全員、野に散ったとしても、鎧も兜も、先祖伝来の大切な刀も、ちゃんと生家に送り返してもらえる。
鎧の中に、辞世の句を縫いこんでおけば、それもまたちゃんと送り届けてもらえる。
それだけの国柄が、日本ではすでに中世において、しっかりと確立していたのです。

戦場の近隣の農家のみなさんも、事前にお金をいただいており、ちゃんと約束を守る人たちだったからこそ、遺体の処理もちゃんとしてくれたし、遺品も送り返してくれました。
そういう高い民度をもった国が日本なのです。

ただ、どうしても、名前がなかったり、戦場に散乱してしまったために、誰のものなのかわからなくなってしまった刀剣や槍などが生じることがあります。
こうした誰のものかわからないものは「いつか所有者の家族が現れるまで」と、ずっと庄屋さんなどが保管しました。
刀も槍も、鉄製品ですから、保管は実はとてもたいへんなものです。手入れしないと錆びてしまうからです。
何年も保管して、所有者の現れなかった刀剣等は、ですからやむをえず、そこではじめて古物商に売却されました。

これはこれであたりまえのことで、戦が終わって刀剣が大量に散乱している時点で古物商に売ったとしても、十把一絡げに一山いくらでしかひきとってもらえません。
ちゃんと所有者の家族のもとに返し、残り僅かなものとなってからの売却だと、逆に高く売れる。
人の世の中なのです。
いまも昔も、そういうことは何も変わりがありません。

それにしても、メディアにしても大学の教授さんたちにしても、いい加減、目を覚ましていただきたいものです。
そもそも「階級闘争史観」などいうものが登場したのは、19世紀のことです。
それ以前の日本には、そもそも「階級闘争」なるもの自体が、存在しなかったのです。

かれらがよく引き合いにだすものに「下克上」がありますが、下克上という言葉は、もともとが6世紀の支那の隋の書物に見られる言葉であって、もともと日本の概念ではありません。
用語としては日本でも、14世紀頃以降「下克上」という言葉が使われるようになりましたが、その多くは、既得権益を守るために権力と戦う連中が落書において、やや揶揄的に「下克上」と書かれたにすぎません。
戦国期における「下克上」の事例として、室町幕府によって任ぜられた守護大名を廃位して、別な者を大名に据えるということは、よく行われましたが、この場合においても、ほとんどのケースは、その守護大名の親族が後任の大名になっています。

要するに日本における下克上は、室町以来、あるいは鎌倉以来の家柄に安住して民を顧みない主君がいたときに、その家臣団が一致団結して、その主君を引きずり下ろして、別な者を主君に据えたものだし、それが何のために行われたかといえば、主君その人よりも、民・百姓の生活の安定を大切にしたからこそ、それがわからないお馬鹿な主君がいれば、これを家臣が廃位したのです。
とりわけ戦国期のような戦いが頻発した時代にあっては、頭領には人々をまとめあげるだけの器が必要だったし、それがなければ、国が滅び、治安が乱れて民が困るのです。

つまり日本における「下克上」は、階級闘争として行われたものではなくて、あくまでも国を守る必要に駆られて、民を守るために行われたものという性格を持ちます。
階級闘争は、下の者が上の者を殺して、権力を奪うことですが、日本における「下克上」は、お祭りを盛大なものにするために、担ぐお神輿を立派なものに変えただけのものであって、祭りは祭りでしかないのです。

たとえれみれば、古くからある村の祭りを止めにしてしまって、鼓笛隊パレードに変えてしまうのが階級闘争です。
支那の下克上は、まさにそれにあたります。
だから易姓革命です。
統治者の姓が易(か)わるのです。

これに対し、日本で「下克上」と呼ばれたものは、お祭りを保持するために、お神輿を立派なものに造り替えるというものです。ですから階級闘争史観では、説明のつかないことなのです。
説明がつかないものを、無理やり歴史認識にしようとするから、そこに無理が生まれます。

戦のあとに、貧民達が現れて、亡くなった武士たちの身ぐるみを剥がすと描写しますが、仮にそうであったとするなら、剥がした連中は、その剥がした物品を、どうしたのでしょうか。
転売したのでしょうか。
転売するなら転売するで、それなりの流通市場が確立していなければなりません。
流通は、貧困の社会では成立しえませんから、そうなると、身ぐるみを剥がしても、剥がした物品は売れません。
売れないのに剥がす?
自分で使うためですか?
立派な鎧を、武芸のわからないお百姓さんが着たとしても、世間の笑いものになるだけです。
鎧を盗んだお百姓さんは、その鎧を着て、コメディアンでもやったとでも言うのでしょうか。
ここはそもそも震災のあとですら泥棒のでない日本なのです。

戦後生まれの私達は、実にとんでもない大嘘を刷り込まれてきたものです。
しかし何年経っても、どれだけ多くの本に書かれたとしても、どんなに「権威ある偉大な大学教授」が書いたとしても、ウソはウソです。

私達は真実に目覚め始めています。
民衆が真実に目覚めることは、誰にも止められることではありません。