月別アーカイブ: 2016年5月

《 日本の報道はタブーと自己検閲だらけ、日本のマスメディアは異常である。そして国家としての日本もおかしい。》

国際ジャーナリスト組織「国境なき記者団」が纏めた2016年の「報道の自由度ランキング」で、日本は72位という不名誉な順位を付けられた。因みに、自国に関わる近現代史の真実を全てタブーとし、親日を罪と規定している為に自己検閲しているお隣の韓国は日本より上位の70位である。

この当てにならないランキングは、ジャーナリスト、弁護士などを対象とする各国・地域の報道機関の独立性、報道の多元性、自主検閲などに関するアンケート調査から作成したという。

報道の自由度が最も高いとされたのはフィンランド。2〜10位は順に、オランダ、ノルウェー、デンマーク、ニュージーランド、コスタリカ、スイス、スウェーデン、アイルランド、ジャマイカである。16位ドイツ、38位英国、41位米国、45位フランスと続く。ナチス関係の歴史の真実探求をタブー視しているヨーロッパの国々が報道の自由度が高いというのはご愛嬌である。

つい10年ほど前まで日本は11位に付けていた事を考えると、東日本大震災に伴う福島第一原発事故に於ける日本政府と東電の情報の出し渋りが、順位を下げる要因となった事は想像に難く無い。因みに、日本は昨年は61位だった。ジャーナリストには「特定秘密保護法」が極めて評判が悪い。アジア諸国は51位台湾、69位香港が上位で、その他のアジア諸国は軒並み100位圏外である。

日本の72位は果たして妥当だろうか? 私は72位は寧ろ高過ぎると感じている。ザックリ捉えて100位くらいが相応しいのではないかと考える。日本で普通に暮らしていると日本人は自由の国に暮らしていると錯覚してしまうが、日本の報道ほどタブー、自己検閲している国は格別珍しいというのが実態である。

分かりやすい例が、東京都が3月16日に「東京韓国学校」(新宿区若松町)の増設の為、旧都立市ヶ谷商業高校跡地(同区矢来町)を、韓国政府に有償で貸し出す事に、都庁には数日で6000件以上の抗議の電話が殺到しているが、この騒動をどこのキー局も報道しない。韓国の不利益になる事はテレビ局が自己検閲して報道しないのである。

帰化朝鮮人の倅(せがれ)舛添要一都知事の韓国贔屓むき出しの都政運営の下、東京都庁は、この一等地である都有地への、「保育所 建設計画」や「福祉施設建設計画」申請を門前払いして、定員割れしているという韓国学校増設を強引に進めようとしている。都議会で議論した形跡は一切無い。「保育園 落ちた。日本 死ね!」騒動をあれほど報じたテレビ局がこのニュースをスルーしているのである。

ネットを見ない国民にはこの理不尽は知らされない。政治資金の公私混同、血税の私物化が取り沙汰され、大問題になっているのがせめてもの救いである。国際関係は「相互主義」が原則であるが、〈舛添東京都知事が都有地を韓国に強引に貸し出す一方、韓国政府は駐韓日本大使館の改築を拒絶〉しているのが実態である。

韓国政府は周囲の建物の半分の高さしかない日本大使館だけが「高さ制限に違反して高過ぎる??」として改築を拒否している。そこで別な場所での用地取得を模索したが、これも拒否された。現在の日本大使館は安全保障上問題があり、反日活動の韓国人に取り囲まれたり投石されているが、韓国警察は一向に取り締まらない。一方で、日本にある韓国大使館は最新建築に改築され、お披露目パーティーが大々的に執り行なわれた。勿論、日本の警察官数百人が常時包囲して警護している。

何かと問題を起こす韓国という国の大使館を厳重警護するのは国家として当たり前だが、一方で、駐韓日本大使館への国家ぐるみの嫌がらせに真面な抗議もしない日本政府の腑抜け振りには呆れる。改築妨害や大使館真正面に醜い少女像を設置された段階で、日本は駐韓日本大使を召還させるべきであった。韓国政府のこの行為は朝鮮民族特有の「弱い者虐め」以外の何物でも無い。日本は何をされても強硬には出ないと見切られている。相互主義に反する事 甚だしい。

舛添氏は「韓国にはお世話になった」とか「恩返ししたい」などと言っているが、その根拠は示していない。日本が、いつ「韓国のお世話になった」というのだろうか?「恩返し」するべきは韓国政府の方ではないか?報道の自由が聞いて呆れる。日本のマスメディア、特にテレビ局は在日韓国朝鮮人に支配されているようだ。

5月4日のBSフジ「プライム・ニュース」で面白い出来事があった。米国大統領選挙を論じた小森義久氏が「馬鹿でもチョンでも…」と発言すると、次のコマーシャル直後に、秋元優里キャスターが例の如く「番組中、不適切な発言がありました」と謝罪した。不適切な発言が何だったかも明らかにせず、ただ謝罪した。民放とは言え公共性の高いテレビでの発言としては、特定の民族を馬鹿と並び称する事は確かに褒められた事では無いが、どの言葉がどう不適切だったかも説明せず、感情を押し殺して謝罪原稿を読むのは「臭いものに蓋」の典型である。

日本人は、この言葉を既に数十年間も普通に遣っている。「馬鹿チョン カメラ」などは実に重宝な言葉である。無理を承知で提案するが、この言葉がどういう歴史背景で生まれ、遣われ出したかをフジテレビは解説したらどうか?その上で、この言葉がどう不適切であるのかを説明して頂きたい。事実関係に向き合わずに〈言葉狩り〉を率先するのは、テレビ局の自縄自縛というものだろう。まぁ、韓流ゴリ押しで悪名高いフジテレビには、言うだけ無駄か。

およそ表現の自由が認められている国では、報道の自由が認められており、少なくとも建前上は報道にタブーなるものは存在しない筈である。日本に於いても日本国憲法により言論の自由・報道の自由が認められており、見かけ上はタブーは存在しない。併し、実際には諸事情により、マスメディアが特定の事件や現象について報道を控える話題・問題は多数存在する。日本ではキー局や全国紙など広範囲に影響を与えるメディアほどその傾向が著しい。

更に、日本国内に蔓延する在日韓国朝鮮人・韓国朝鮮系帰化人・韓国政府に対する腫れ物に触るような気の遣いようは、真面な日本人には何とも言えない不快感を齎す。政治家が彼らに対する正当な主張を自主規制するに至っては絶望的である。「近現代史に於いて、日本人が韓国人に謝罪する必要が何処にあろうか?寧ろ感謝されて然るべきだ」という自明の事実を主張する政治家が、いつになったら現れるか。そういう政治家が主流になって初めて日本は正常な国家に戻れるという事に、多くの日本人は気付くべきである。

追記:FBFの仲兼久德博氏より、下記の事を教えて頂いた。
『丁稚』の丁と書いて『チョン』、つまり半人前の意味で、朝鮮人を指すものでは無いハズですが、朝鮮人に毒されたカスメディアが『差別語』として元来の日本語 の意味を曲解した言葉狩りです。『チョンの間』とか、半人前の小僧が遊ぶ女郎宿、遊郭をそう呼んでいた事からも明らかかと…。

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▪️報道の自由度 タイ136位、日本72位
http://www.newsclip.be/article/2016/04/24/29051.html

石川 久遠さんの写真

《 本来、アメリカとは孤立主義の国。日本は嘗ての敵「United Nations」に幻想を持たずに、独力で生きられる国づくりをしておくべきだ。》

オバマ大統領の任期は2017年1月迄である。果たしてドナルド・トランプ候補かヒラリー・クリントン候補か、何れがアメリカの新大統領になるにしても、アメリカによるTPP主導は頓挫するだろう。何れの大統領候補も、上下両院議会も、TPPには反対している。そんなアメリカの変化の兆しを目の当たりにしながら、日本は未だにTPP審議に前向きである。日本政府は果たして2017年以降のアメリカの動向を研究しているのだろうか?

TPPは悪しきグローバリズムの象徴のような枠組である。項目の多くは日本の将来に取り返しのつかない禍根を残す。私はアメリカのTPP加盟反対に期待する。アメリカはグローバリズムの本家本元のように見られているが、ポスト オバマのアメリカは間違いなく内向き志向、孤立主義(モンロー主義)の国になる。元来、アメリカという国の本質は内向きである。アメリカの歴史を見ると、第二次世界大戦・大東亜戦争 後にアメリカは初めて外向きの国になった。それ以前は一貫して内向きの国であった。

アメリカはその国土の広大さと資源の豊富さ、そして下層労働者と三拍子揃っている為、植民地を必要としない。国内で生産し、国内で消費して成り立つ稀有な国である。人工的な実験国家ではあるが、元来自己完結型の国である。ウォールストリートの支配層が欲をかかなければ、自国だけで立ち行く国である。アメリカ本来の外交姿勢は孤立主義であった。

アメリカ史を見渡せば、〈戦後の71年間だけが特別であった〉事が分かる。国際連盟はウッドロウ・ウィルソン米大統領の主導で設立されたが、アメリカは国際連盟に参加しなかった。アメリカ外交の原則は、モンロー宣言以来の孤立主義、合衆国の名誉が侵害されない限り外国の紛争に巻き込まれない事が大事であった。アメリカ国民と議会は世界より国内に目を向けていた。日本を特別敵視したフランクリン・ルーズベルト大統領は、自身もユダヤ人であり、ユダヤ人を差別・迫害するドイツのヒトラーの政策を座視して居られなかったが、アメリカ国民はアメリカの参戦を良しとはしなかった。

イギリスのチャーチルの緊急要請により、日本と戦う蒋介石支援用のフライング・タイガーの航空機は急遽イギリス空軍仕様に塗り替えられて、ルーズベルトが企み許可した日本爆撃計画は未然に潰えた。1941年8月(真珠湾攻撃の4箇月前)に、ニューファンドランド沖で行なわれた会談で、ルーズベルトとチャーチルは、第二次世界大戦後の連合国の戦後処理構想、国際協調のあり方についての大西洋憲章を宣言している。ここでは日本の永久武装解除の密約も成された。日本を「騙し討ちした国だ」などとよく言えたものである。

ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した後、共和党員であったチャールズ・リンドバーグはアメリカの孤立主義とドイツの政策に対する支持者となり、各地で講演を行なった。アメリカ・ヨーロッパ間無着陸飛行のリンドバーグである。彼は1941年1月23日にアメリカ連邦議会で演説し、ドイツと中立条約を結ぶべきだと主張した。リンドバーグは孤立主義者の団体である「アメリカ・ファースト」の主要なスポークスマンであった。

共和党の大統領候補ドナルド・トランプ氏が度々強調する「アメリカ・ファースト」と同じ意味合いである。スローガンにすると聞こえは良いが、その真意は「アメリカさえ良ければ他国はどうなっても良い」という身勝手な利己主義思想である。「イランや北朝鮮が核武装しようと、南支那海で中共が何をしようとアメリカには関係無い」。国際政治に無知ゆえ、「中共の覇権主義行動もアメリカに危害を加えない限り放任する」という考えだ。勿論、トランプ氏は尖閣諸島の事など全く知りもしない。

1941年9月11日のアイオワ州デモインでのリンドバーグの演説は、イギリス人とユダヤ人がアメリカに連合国側での参戦を働きかけていると非難した。この発言にユダヤ系アメリカ人が反発し、ユダヤ系のルーズベルト大統領はリンドバーグのアメリカ陸軍航空隊での任務を解いた。

ルーズベルト自身、「あなた方の息子を戦場には送らない」と公約して大統領になった経緯もあり、自らヨーロッパ戦線に参戦する事は公約違反になり、身動きできない境遇に歯軋りしていた。そこで狙われたのが日本である。日本は有色人種の身でありながら、人種差別撤廃を主張し、アジア地域のヨーロッパによる植民地支配に反対して「大東亜共栄圏構想」を描いていた。ルーズベルトはあらゆる汚い手を使って、日本を追い詰め、挑発して、日本の宣戦布告を待ち侘びた。

ABCD包囲網という過酷な経済制裁の果てに、有名な「ハルノート」を突き付けられ、流石の日本も立ち上がらざるを得なかった。駐米大使館員の不始末で宣戦布告文を手渡すのが1時間も遅れてしまった事をいい事に、ルーズベルトは真珠湾攻撃を「騙し討ち」だとして、アメリカ世論を参戦賛成へと誘導した。ルーズベルトは晴れて参戦する何年も前から建前の中立を破っていた。中華民国への軍事支援は明らさまであったし、真珠湾攻撃 以前にフライング・タイガーによる日本の各都市爆撃の命令書にもサインしている。第一、アメリカは自国が戦争を始める時に前以て宣戦布告した事があっただろうか?

公平に考えて、ルーズベルトは「狂人」と見做して差し支えないだろう。戦争がしたくて仕様がなく、あらゆる汚い策を弄してアメリカを本当に戦争に突入させたアメリカ大統領を、真実の歴史を知ったアメリカ国民は擁護できるだろうか?広島・長崎で原子爆弾の生体実験を強行したトルーマンも「狂人」である。日本の不幸はアメリカという超大国の大統領が2代に亘って「狂人」であった事である。

ここで日本は「歴史に学ばなければならない」日本は米国の経済制裁に耐え切れず、その足下を見た「ハルノート」により、アメリカとの開戦を余儀無くされた。「歴史に学ぶ」なら、日本は「経済制裁に耐えられる国づくり」をしておくべきだろう。国際分業を丸々否定はしないが、いざという時、国民の命を繋ぐ「穀物」と「エネルギー」は、自国で賄えなければならない。「コメは自給率100%」を目指すべきだし、エネルギー輸入が途絶えた時の為に「原子力発電」は最低限維持していくべきだ。

ロシアも、イギリスも、フランスも、オランダも、国際戦略物資である「穀物」だけは自給率が高い。いざという時、国民が飢えないように手を打っておくのが政府の責任であるからだ。ロシアはアメリカを観察して「穀物」が国際戦略物資である事を学んだ。英仏欄は植民地を失なった時に実際に飢えた経験があるから「穀物自給率」には敏感だ。経済制裁で一度痛い目を見ている日本だけが、穀物自給率39%で更にそれを下げるTPPに熱心なのはどういう訳か?

アメリカは本来の「孤立主義」の国に戻る可能性が高い。日米軍事同盟の「核の傘」は、実はキッシンジャーが中共を訪問した45年程前から有名無実化している。今、その名目さえも潰え去る可能性が出てきた以上、日本政府は自主防衛(核武装を含む)を視野に入れた政策を選択肢に加えるべきである。最悪の事態を考えれば、日本政府は第二の経済制裁をいつ発動されても良いように覚悟しておくべきだろう。「国連」「国際連合」というのは誤訳である。United Nations とは正しく「連合国」の事である。いざという時、アメリカを始め、嘗ての敵「連合国」が何とかしてくれると考える日本人はお気楽過ぎる。

《「伊勢志摩サミット」参加のついでに、広島での安っぽいパフォーマンスを目論むオバマ大統領の行為は、日本人としては受け容れ難い。》

2009年に米オバマ大統領は名ばかりのノーベル平和賞を受賞している。メディアの報道を見る限り、2009年4月にチェコのプラハで表明した核廃絶に向けた国際協調外交推進の理念表明、そして6月にカイロで行なったイスラム世界に対する融和と対話の呼び掛けなどが受賞理由である。

併し、その後のオバマ外交はノーベル平和賞に値しない惨憺たるものであった。イランには事実上、核開発を認めたも同じである。イランは核開発に必要な遠心分離機を6104機に削減し、最初の10年は5000機に止めるという。要するに今よりゆっくりと核開発しなさいという事だ。イランがそれを守る保証はどこにもない。おまけに北朝鮮の核開発は野放しのまま黙認し、責任は中共に丸投げしている。

そんな最悪の核情勢をつくっておきながら、大統領 任期切れ間近のオバマ氏の広島訪問が取り沙汰されている。4月11日のケリー国務長官による歴史的な広島訪問は、日本国民のみならず、米国民にも大きな驚きを齎した。原爆投下に対する日米間の捉え方には、未だ決定的に大きな開きが存在する。米国退役軍人を始め、大多数の米国民は原爆投下を肯定的に捉えている。

日本国民は米国大統領に謝罪など求めていないが、非人道的かつ不必要であった日本への核兵器使用を心から許してもいない。この日米両国の原爆投下への認識の差を埋める努力もせずに、「伊勢志摩サミット」のついでにオバマ氏が広島だけを訪れ、中身空っぽの核不拡散パフォーマンスを演じる行為を、日本人は安易に喜ぶべきではない。

任期残り少ないオバマ大統領の核不拡散パフォーマンスは大統領退任への絶好の花道にはなるだろうが、そんな猿芝居は原爆犠牲者への冒涜である。だいいち何故、広島を訪問しながら長崎には目もくれないのか? 現職の米国大統領の広島訪問を、多くの日本人は歓迎するだろうが、私は素直に喜べない。

米国では、第2次世界大戦(大東亜戦争)は、「Just War(正しい戦争)」と言われている。米国が戦争に介入しなければ、ナチスがヨーロッパを支配していたかも知れないし、日本がアジア諸国に進出して〈大変な事〉になっていただろう。然も、米国が戦争に突入したのは日本が真珠湾を攻撃したからであるとされている。米国から仕掛けた戦争ではないらしい。降伏しない日本に対して、原爆は戦争を終わらせる為の唯一の手段であったそうだ。米国人はこう教えられ信じている。

これは大きな嘘っぱちである。ドイツには落とさず、日本には平然と投下できた背景には、日本人に対する人種差別があった事は、紛れもない事実であろう。併し、公にこれを言う事は憚られてきた。当時、米国(白人)が日本人を含む有色人種を、自分達と同じ人間と見做していなかった事は、紛れもない事実である。因みに、ドレスデン空爆について米国はドイツに謝罪しているが、東京大空襲を始めとする多くの都市部絨毯爆撃について、米国は日本に謝罪していない。

凡ゆる策を弄して日本を戦争に引きずり込んだ F・ルーズベルト大統領は、駐米英国公使ロナルド・H・キャンベル氏との会話で、スミソニアン博物館の研究者による、「日本人の頭蓋骨は「我々(白人)のより約2000年発達が遅れている」という見解を紹介した上で、「人種間の差異を重視し、人種交配によって文明が進歩する」などと語ったという。

「インド系やユーラシア系とアジア人種、欧州人とアジア人種を交配させるべきだ。だが『日本人だけは除外』する」、「日本人が敗北した後は、『(白人以外の)他の人種』との結婚を凡ゆる手段を用いて奨励すべきである」とキャンベル氏に語った。これはこの地球上から日本人の純血種を消し去る『日本民族浄化思想』である。日本人の血をこれほど憎んだ米国大統領は後にも先にも居ないだろう。

F・ルーズベルト大統領の死後、後を継いだ副大統領ハリー・S・トルーマン氏は、多くの反対意見を承知で謂わば秘密裏に大急ぎで「原子爆弾投下」を命じた。白人至上主義団体「Ku Klux Klan」(KKK)の元構成員であったトルーマンが、全米有色人種地位向上委員会で演説を行ない、公民権運動を支援した初めての米国大統領と言われているのは実に皮肉な事である。

日本人は硫黄島や沖縄に於いて、米軍が予想もしなかった壮絶な抵抗を見せた。最前線の兵士は日本人の決死の抵抗に恐れをなしただろうが、米本国は完全に勝利を確信していた。だから〈日本に原子爆弾を落とす必要は無かった〉。原子爆弾を開発した科学者の中には、〈実戦使用ではなく、無人の地でのデモンストレーションで事足りる〉と、日本への実戦投下に反対した者も多くいたと聞く。

併し、トルーマンを始め米国中枢部は、反対の声に耳を貸さなかった。寧ろ、原爆投下前に日本に降伏される事を恐れていた。日本人など実験動物にも劣る憎悪の対象でしかなかったのであろうと良心に問いかけてみよと言いたい。日本への2種類の原爆投下には、生体実験の意味合いが強かった。実際に米国は多くの被験者の苦しみの上に、膨大な放射能被爆データを得る事に成功する。

原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)。
これは原子爆弾による傷害の実態を詳細に調査記録する為に、広島市への原子爆弾投下の直後に米国が広島市比治山々頂に設置した機関である。ABCCは被爆被害の調査が目的の機関である為、「被爆者の治療にあたる事は一切なかった」。これは同じ人間として冷酷過ぎる。ここでの調査研究結果が、放射線影響の尺度基本データとして今も利用されている。

ABCCは、日本への「2種類の」原爆投下は、終戦を早めさせ、結果100万人の米兵の損害をなくす為であったとする米国の大義が嘘である事を示す何よりの証拠である。米国の被爆被害調査は余りにも用意周到であった。

1945年8月、広島・長崎に原子爆弾投下。翌9月には米国陸軍・米国海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院に収容された被爆者から陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、日米合同調査団を編成、約1年間の被爆被害調査を行なった。

併し、収集資料の解析に日本の研究者の参加は認められず、全調査資料(検体を含む)は米国に送られ、米国陸軍病理学研究所に保管された。大勢の日本人被爆者の苦しみの上に得た研究データは米国だけの財産になったのである。

こういう経緯を知り、語り継ぐ日本人が居る限り、原爆投下という生体実験を巡る、「日米両国間の真の和解」には、まだまだ時間が掛かるだろう。日本人が『東京裁判史観』という呪縛から逃れ、米国政府が真の反省から日本人に自発的に謝罪したいと思わない限り、「日米両国間の真の和解」は無いと思う。この〈崇高な和解〉を邪魔しようとするに違いない、中共・韓国からの妨害も撥ね退けねばならない。中韓はこの点では現状維持(日本悪玉論)を信奉している。

何より、〈米国の現職大統領の被爆地訪問は崇高であらねばならない〉。日本人の中にオバマ氏の被爆地訪問を〈政治利用〉したい者が居る事は承知しているが、名ばかりのノーベル平和賞受賞者、オバマ大統領 退任の花道を飾るパフォーマンスに被爆者が利用されるなど論外である。

一昨年の6月6日のノルマンディ上陸作戦々勝記念式典に於いて、巨大スクリーンに映し出された「日本への原爆投下 映像」を会場の最前列に陣取ったオバマ氏は足を組み、ガムを噛みながら、笑顔で拍手を送りつつ観ていた。各国首脳の中で唯一、プーチン氏だけはロシア正教会の方式に則って、目を閉じ、頭を垂れて、胸で十字を切っていた。政治信条はともかく、人間性の違いとはこんな所に出るものなのである。

今月のケリー米国務長官の広島での献花とその後の演説の後、米国のアーネスト報道官は「伊勢志摩サミット」参加の為に訪日するオバマ氏が、広島を訪問する可能性について言及した。4月25日にはオバマ氏自身も広島訪問に言及した。繰り返すが、〈被爆地への現職米国大統領の訪問は崇高であらねばならない〉。安っぽく中身の無い核不拡散パフォーマンスでの大統領退任の花道づくりは、総ての原爆犠牲者に対する冒涜である。

 

国家の安全保障を否定すると経済も医療も科学も学問も衰退する

20160427 地球_th

イザナキとイザナミは、最後のお別れのときに、千引岩を間に挟んで、
ミ「愛しき我が夫の命(みこと)よ、お前がこのようなことをなさるなら、私は汝の国の人草を一日に千人絞(くび)り殺しましょう」
キ「愛しき我が妻よ、おまえがそうするなら私は一日に千五百の産屋(うぶや)を建てよう」
と対話しました。

一日1000の死と、1500の誕生なのですが、現在の地球全体での世界の人口は、1年に6千万人が亡くなり、1億3千万人が産まれているのだそうです。
もう少し細かく言うと、世界の人口は、1分に137人、1日で20万人、1年で7千万人増加しています。
いまや世界の人口は73億2366万人(2016年4月末現在)です。

先の大戦の頃の世界の人口は、約20億人でした。
もっとずっと昔の1万年前には、地球の人口は全世界で1万人だったそうです。

まさにいま、バンデミック状態で人口が激増しているわけですが、このままの調子で人口が増え続けると、あたりまえのことですが、食料不足がやってきます。

日本の食料自給率は、すでにカロリーベースで39%、つまり日本人は食料の受給の6割を輸入に頼っているわけです。
実に簡単な話ですが、どの国においても食料は、輸出よりも国内需要を優先します。
あたりまえです。
自国民の生存のために国家の政府があるのです。
その国の政府は、他国の人々の生存に責任を負っているわけではなく、自国の民の生存に責任を負っているのです。
民主主義国家なら、なおのことそうです。

つまり、世界の人口が増え、世界的に深刻な食料不足が起きると、食料自給率の低い国は、自国で食料を賄えない分、人が餓死して人口を減らすしかなくなってしまいます。
話を単純化していえば、日本の食料自給率が4割しかないということは、6割の人は死ななければならなくなるのです。

しかも、それは現在の話です。
日本の農家の平均年齢は、とっくに70歳を超えています。
あと30年経ったとき、日本国内には、ほとんどの農地も農家も、なくなってしまっている可能性があるのです。
おそらく、このままの調子でいくと、30年後には日本の自給率は10%以下になるであろうと予測されています。
そして世界的な食糧難が襲うということは、日本人は10人中9人までが餓死しなければならない事態が、あと30年のうちにはやってくるということになります。

日本のすぐちかくには、昔から一般民衆が食糧難状態におかれ、農業生産が間に合わない分、人の肉を食べることで、巨大な人口を保持してきた国がありますが、日本人にはそのようなことは、おそらくできません。
そして、自分が死ぬこと以上に、我が子の死を見るのは辛いことですし、まして餓死させるなど、考えもつかない恐ろしいことです。
けれど、そういう事態は、このままの日本の状態が進めば、必ずやってくるのです。

イスラエルはユダヤ人国家で、人口わずか800万人の国で、四方を敵に囲まれています。
2千年の時を越えて、やっと自分たちの国家を再興することができた彼らは、
ノーベル賞の受賞の22%、
数学者に送られるフィールズ賞の30%
チェスの世界チャンピオンの54%
ノーベル経済学賞の過半数を常に保持しています。

ドローンは、日本国内では問題視されましたが、これを開発したのもイスラエルで、軍事技術として開発されたドローンは、いまでは、蝿くらいの大きさの小型のものまで誕生しています。

そしてそのイスラエルは、砂漠にある国でありながら、世界有数の農業立国であり、食料自給率は100%をはるかに超えた、つまり、農業輸出国になっています。
つまりユダヤ人国家であるイスラエルは、砂漠国でありながら、予測される世界の人口増加に伴う食糧危機についてちゃんと準備し、研究を重ね、国民が決して飢えることがないように、先に手を打っているのです。

では、なぜイスラエルが、世界の最先端の科学者や経済学者を多数輩出し、また食料受給に関しても先進的な手を講ずることができる国家となっているのでしょうか。
実はその理由が、「国家の安全保障」なのです。

イスラエルでは、小学教育の段階から、国を護ることの大切さを教えられ、またイスラエルやユダヤ民族の歴史を正確に教えられます。
そして国民全員が、国家の安全保障について、しっかりとした認識を持つように国をあげて取り組みがなされています。

そのため、国民にはその基本的生き方として、国を護るために自分にできること、という思考が自然と備わっています。
ですから、学者さんであれば、国を護るために最先端の科学技術等の研究に取り組もうとするし、民間の産業分野においても、国を護るために必要な産業の育成が図られ、人々はそのために必要な努力を惜しみません。
そしてまた農業分野においても、極端な言い方をすれば、世界がなくなってもイスラエルの民だけは決して飢えることなく安心して暮らしていけるようにと、あらゆる努力が、国をあげて図られています。

つまり、国家の安全保障への自覚が、国民を豊かにし、安全に安心して暮らせる国家を形成させているのです。

実は、いま、日本に欠けている最大のポイントがここにあります。
日本は、占領憲法によって、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と前文で規定されているのです。

つまり国家の安全保障を、「他国の信義に信頼するだけで、自分たちでは何の努力もしませんし、させもしません」と、このように「決意した」と書かれているのです。
これでは国民から国家の安全保障意識がなくなるのもあたりまえです。

下にあるのは、日本の衛星写真です。
特に関東、愛知、東北の太平洋沿いで極端に緑が減っていることが、おわかりいただけるでしょうか。

20160427 日本列島_th

そもそもいま、世界にある多くの国家は、日本も含めて、いわゆる「国民国家」と呼ばれるものです。
国民が主役となって、国家を営み、それぞれの国ごとに自活の道を探していくというのが、国民国家です。
つまり、よく言われる「グローバル・スタンダード」というのは、実は、それぞれの「国民国家」が、自国が生き残るために、それぞれの立場でしのぎを削るというのが、現在の世界の標準なのです。

そして国家における国民国家の最大の使命は、自国民が、今も、これからも、いかにして豊かに安全に安心して暮らすことができるようにしていくかが、最大の使命であるということができます。
そして、この使命こそが、まさしく「国家の安全保障」の意味するところということができます。

国家が安全保障意識を失えば、早晩、世界中から食い物にされ、富を失い、安全も安心も失われます。
当然のことです。
長く続く不況?
あたりまえです。
国家が安全保障意識を失えば、その国の富は、奪われ、流出します。
私たち日本人が、いまを、そして、これからの未来を本当に豊かで安全で安心して暮らせる社会にしていくためには、国家の安全保障意識を、国民が共有していくこと。何よりもそこが本来の出発点であるということです。

つまり自国の安全保障について
国をあげて真正面から取り組んでいる国は経済も医療も科学も学問も発展し、
国をあげて真正面から否定している国は、経済も医療も科学も学問も衰退するのです。

日本人の生き方 醍醐忠重海軍中将

20160423 ヒナゲシ

写真は、この時期によく見かけるヒナゲシの花です。
ヒナゲシは虞美人草とも呼ばれ、花言葉はいたわり、思いやり、忍耐です。

日本人といえば、特定の三国を除いて、世界中の人々から勤勉、親切、真面目、正直、礼儀正しい、助け合う、優しい、協力的といったイメージを持たれているようですが、その実態は、思いやりと、忍耐力にあろうかと思います。
そこで今日は、日本人の生き方というタイトルで、醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将をご紹介したいと思います。
終戦当時日本海軍の第六艦隊司令長官だった方です。
第六艦隊は潜水艦隊です。

醍醐中将は、明治二十四(1891)年、名門貴族の醍醐家の嫡男として生まれました。
醍醐家は旧侯爵家です。
れっきとした華族のご出身です。

華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
けれど醍醐中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人でした。

醍醐忠重海軍中将
醍醐忠重海軍中将

醍醐中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めました。
けれど醍醐中将がまだ八歳の頃に他界しています。
母も相次いで亡くなりました。
醍醐忠重中将は、ですから孤児となって一條家にひきとられています。

子供の頃の醍醐中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業しました。
とても強かったそうです。

明治四十二(1900)年に、海軍兵学校に、第四十期生として入校しました。
入校時の成績は、百五十名中、百二十六番です。
それが入学後の猛勉強で、卒業時には百四十四名中、十七番になっていました。
たいへんな努力家でもあったのです。

兵学校で同期だった福留繁元海軍中将によると、兵学校当時の醍醐中将は、
「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、
上品で服装もきちんとしていた。
酒を飲んでも少しも乱れることはなく、
謹厳で、しかも謙譲な奴だった」そうです。

昔は、海軍兵学校で成績上位者は、一定の現場勤務のあと、海軍大学校に進学しました。
卒業すれば、高級士官になるからです。
けれど醍醐中将は現場勤務を選択し、巡洋戦艦「吾妻」の乗組員になりました。
そして大正六(1917)年に、初の潜水艦勤務に就きました。
このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生を決定づけました。

当時大尉だった醍醐中将は、練習艦隊参謀にという内示があったけれど断っています。
醍醐中将は生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行いました。
このとき醍醐中将が艦長を務める潜水艦は、たった一隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させるというはなれ業をやってのけています。

もちろん演習ですから実弾は使用していません。
けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく全滅させられたのです。
この手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれています。

昭和十三(1938)年、醍醐中将にご皇室の侍従武官の話がもちあがりました。
このとき彼が海軍大学校を出ていないからと反対意見があったそうです。
しかし人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官になっています。

当時を振り返って、入江侍従は、
「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

さて、戦争も末期となった昭和二十(1945)年五月のことです。
醍醐中将は第六艦隊司令長官に就任しました。
このとき第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えました。
潜水艦を愛し、潜水艦を知り、部下たちの心を理解する醍醐中将の長官就任は、まさに艦隊全員の喜びだったのです。
醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新されたといいます。

この頃、第六艦隊で、作戦可能な潜水艦はたったの九隻でした。
けれど醍醐中将が司令長官となった潜水艦隊は、以降、めざましい戦果をあげます。
重巡インデアナポリス撃沈。
駆逐艦アンダーヒル撃沈。
駆逐艦ギリガン大破。

インデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
そのインデアナポリスに、伊五十八潜水艦は、六本の魚雷を発射し、三本を命中させて撃沈しています。
このことを、当時のニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の一ページ」と書いています。

この頃の第六艦隊の潜水艦は、どれも人間魚雷「回天」を搭載していました。
醍醐中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与し、激励しました。
そのとき、出撃する「回天」の乗員ひとり一人と握手するとき、醍醐中将の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
優秀な若者を特攻させなければならないのです。
そのことに醍醐中将は深く悩んでいたのです。

終戦直後のことです。
艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。
このとき第六艦隊には、かなり巨額の金が残っていたのです。
そしてそのお金の処分が醍醐長官の決定に委されました。

醍醐中将は、
「このお金は国家のお金です。
ですから一銭たりとも私すべきものではありません。
何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談しました。

鳥巣参謀は、
「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。
本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、
この混乱の中ではとても手が回りかねます。
回天関係ならば全員わかっていますから」と答えました。
醍醐中将はこの方法に賛成し、即座に決定しました。

決定は、昭和二十一(1946)(年正月から春にかけて実行に移されました。
各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えました。遠距離でどうしても行けないところには郵送しました。

このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
以下にその弔辞を引用します。
わかりやすさを優先するために、いつものねず式で、現代語に訳してみます。

*****
【弔辞・謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ】

去る八月十五日、終戦の大詔下りました。
皇国は鉾(ほこ)を収めて、ポツダム宣言受諾のやむなきに至りました。
まことに痛恨のきわみにして、何をもってこれをたとえたらよいのか、言葉もありません。
散華されたみなさんの忠魂を思えば、哀々切々の情、胸に迫って胸が張り裂けんばかりです。

かえりみるに、みなさんには、志を立てて海軍に入り勇躍大東亜戦争に臨んでいただきました。
けれど戦い中途からの戦況は厳しく、そのためにみなさんは回天特別攻撃隊員となり、そして戦勢を挽回しようとしてくださいました。
その闘魂は、まことに鬼神をも泣かしむるものです。

みなさんは秋霜烈日の訓練に従事されました。
ひとたび出撃するや、必死必殺の体当り攻撃をして敵艦船を轟沈する偉功を樹ててくださいました。
そして、悠久の大義に殉じられました。
まことにその忠烈、万世に燦然と輝くものです。

けれど、みなさんの武勲が赫々(かくかく)たりしものであったにもかかわらず、戦い利あらず、ついに今日の悲運となりました。
いったい誰が、今日のこの事態を予期したことでしょうか。

私達は、みなさんの期待にそうことができませんでした。
ですから、みなさんの忠魂を慰めることなどできかねます。
ああ、なんと申し上げたら良いのでしょう。

けれど、みなさんの誠忠遺烈は、万古国民の精髄です。
必ずやみなさんの七生報国の精神は、脈々と続き、永遠に皇国を護ることでしょう。

今、皇国は、有志以来最大の苦難に直面しています。
今後におけるイバラの道は、実に計り知れません。

けれど、私達は必ずや、みなさんの特攻精神を継承し、たえがたきをたえ、忍び難きを忍び、もって新日本の建設に邁進することをお誓いします。

願わくば、やすらかにお眠りください。
ここに、敬弔の誠を捧げ、みなさんの英霊を慰める弔辞とします。

元第六艦隊司令長官
海軍中将 侯爵 醍醐忠重
**********

遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた人がいました。
彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共に喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になりました。
その話を聞いとき、鳥巣元参謀は心から喜ばれました。
「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」
しかしそのとき、醍醐中将はすでにこの世の人ではありませんでした。

昭和二十一(1946)年十二月のことです。
醍醐中将は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けました。
そしてその日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年二月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されました。

醍醐中将は、昭和十八年十一月から第二十二特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのです。
そこでポンチャナック事件に遭遇していたのです。
ポンチャナック事件というのは、概略次のような事件です。

昭和十八年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化させていました。
こういう作戦は、戦時においてはあたりまえのようにあったものです。
後方をかく乱させ、敵の戦力を削ぐために、反乱分子にカネや武器を渡して、その反抗をあおるのです。

ある日、ポンチャナックの特別警備隊長をしていた上杉敬明大尉のもとに、副隊長の中村少尉から、ある情報がもたらされました。
それは、十二月八日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を混ぜて、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものでした。

報告を受けた第二十二特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令しました。
そして調査の結果、逮捕された千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されました。

しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没しています。
つまり、逮捕した犯人を、別な島に送ることができない情況あったのです。

加えて日本軍の警備隊といっても、人数はたかだか百人ほどです。
逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかわからない。
いったん反乱が起きれば、むしろ日本側が全滅するのは目に見えています。
そこで司令部は、四月上旬、上杉大尉に彼らの即時処刑を命じました。

一方、終戦後のボルネオでは、逆に、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていました。
オランダにしてみれば、日本を追い出しさえすれば、ボルネオが手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ人を、ボルネオの人々は排除したがっていたのです。

そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、「君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ」という、報復裁判を演出しようと企図しました。
こうして醍醐中将は、戦争終結後一年半も経ってから、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されました。

このポンチヤナック刑務所というのがひどいところでした。
郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになります。
しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
貯めた天水には、ボウフラがわきました。
不衛生極まりない悪環境です。

昭和四十九年になって、上杉大尉と同期だった小説家の豊田穣氏がこの地を訪れているのですが、三十年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかったと、著書に書いています。

醍醐中将は、昭和二十二年二月にこの刑務所に入れられました。
刑務所の周囲には、深さ二メートルほどのドブがありました。
そこは猫の死体などが浮いていて臭気のひどいところでした。

看守は、そのドブさらいを醍醐中将に命じました。
普通、これはありえないことです。
海軍中将といえば、国際的には三ツ星のヴァイス・アドミラルです。
それだけの高官は、世界中どこに行っても敬意をもって迎えられるものだからです。

けれど、オランダの醍醐中将に対する措置は真逆でした。
それは、報復のためでした。
醍醐中将は、真っ暗なドブにもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけてドブの掃除をしました。
それだけではなく、毎日、笞で打たれたり、殴られたりもしました。
しかし醍醐中将は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしませんでした。

インドネシア人の看守は、ついに醍醐中将の堂々とした態度に心惹かれてしまいました。
そして、
「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになりました。

どのみち報復目的の一方的裁判です。
すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか三時間で終わりました。
そして十月三日、醍醐中将に死刑の判決が言い渡されました。

死刑の判決が出ると、その後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定するのです。
死刑が確定した時、通訳が醍醐中将にそのことを伝えました。
醍醐中将は、
「ありがとう。大変お世話になりました。
オランダの裁判官の皆さんに、
あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

処刑は民衆の面前で行なわれました。
処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

「醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、
身には真っ黒の洋服を着用、
頭にはラシャの帽子を被り、
目かくし布はなかった。
努めて平静の様子だった。
刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、
彼は国歌を歌った。
その歌調には壮絶なものがあった。
歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。
それが終わると、
直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、
全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。」

陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐中将の四カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐中将の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著「生命の実相」という本の行間に、針の穴で次の文を書き綴りました。
これはのちに彼の遺品として日本に返還されています。
そこには、次のように書いてあります。

「十二月五日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。
実に立派なものだ。
一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。
かつて侍従武官までされた人だったのに。

十二月六日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。
余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。
その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。
予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、
予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、
閣下は私のお貸しした『生命の実相』をよくお読みになり、
死の前日、そのお礼を申された。
閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。」

東日本大震災の現場でも、そして目下の熊本地震の避難所でも、たいへんな暮らしの中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がたくさんいます。
よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、
「顔晴る」なのだそうです。

醍醐中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれた人です。
華族でありながら、普通の日本人と一緒に働く方でした。
誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世しました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。

明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接しました。
君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれました。

醍醐中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがあります。
醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。

シビリアン・コントロールはなぜ危険か

20160423 オスプレイ

「シビリアン・コントロール」という言葉をみなさんご存知のことと思います。
英語では「civilian control of the military」です。
直訳すれば、軍人でない一般人(市民)による軍のコントロールで、日本語では「文民統制」と訳されます。

WIKIによれば、その意味は、
「民主主義国における
軍事に対する政治優先
または軍事力に対する
民主主義的統制のこと。
主権者である国民が、
選挙により選出された国民の代表を通じ、
軍事に対して、
最終的判断・決定権を持つという
国家安全保障政策における
民主主義の基本原則」と書かれています。
「主権者である国民が」としている点、いかにも戦後日本らしい思考回路で、これが「民主主義の基本原則」と書かれているわけです。

さらに続けて、
「民主主義国において戦争・平和の問題は、
国民の生命・身体の安全・自由に直結する、
最も重要な問題といえるからこそ、
主権者である国民が、国民の代表を通じて、
これを判断・決定する必要がある」のだそうです。

何度も繰り返しますが、主権在民というのは占領地における被占領国民の取扱いもしくは位置づけのことですので、これまた、きわめて戦後日本的思考ということができます。

ただし、国民主権という言葉を除けば、シビリアンコントロールに関する考え方は、世界の標準ということができようかと思いますし、また軍事が「国民の生命・身体の安全・自由に直結する重要な問題」であることも、間違いのない事実であろうかと思います。

ただし、大事な点に関する考察が、抜け落ちています。
それは、「意思決定権者の責任性」という問題です。

人の上に立つ者が行う意思決定は「権力」の行使です。
戦争を起こす、始める、維持継続する、終わらせるという大事は、誰かが決めなければならないことで、それを「武力を持った軍人が決めるのは危険だから、軍人でない者が決めることが正しい」という思想が、シビリアンコントロールです。
つまり、シビリアンコントロールは、国民によって選ばれた国民の代表が決めることであったとしても、それが最終的に「意思決定権の行使」であり、「権力の行使」となることは間違いのないことです。

そして本来、「権力」と「責任」はセットになるべきものです。
つまり、「意思決定」を行って「権力を行使」する者は、その決定した内容に「責任」を負います。
これは当然のことです。

逆に、「何の責任も負わない者が権力を行使して意思決定を行う」といことが、どれだけ危険なことなのかを考えれば、それがどれほどまでに短絡的で危険なことなのかは、あえて説明する必要すらないものであると思います。
毛沢東やスターリンや李承晩が、戦争でもないのに自国民を大量虐殺できたのは、彼ら自身が自国民をどれだけ殺しても、一切、その責任を追求される心配がなかったからです。

軍人は、ひとたび戦いが選択されれば、戦地に赴き、負ければ死にます。
戦いは常に命がけなのです。

これに対し、いくら国民の代表だとは言っても、文民は、戦って死ぬことはまずありません。
特に日本の軍人であれば、戦地で負ければ、たとえ戦闘で生き残ったとしても、自ら腹を斬るのが常識です。
軍人にとって、戦の勝ち負けは、まさに命がけなのです。

ところが文民には、戦争にせよ、戦闘にせよ、その勝敗についての責任がありません。
むしろ開戦にあたって文民の意思決定責任は、その戦いによって、自分がいくら儲かるかにあったりします。
戦争となれば、大金が動くのです。
大枚が動くところに関与すれば、必ずそのオコボレに預かることができます。
そして、戦争によって、どれだけ自国の軍人が死のうが、戦闘による死傷責任は軍人にあって、文民にはないとされます。

シビリアンコントロールと、カタカナ英語を書かれると、何やら素敵な思想のように見えますが、実は、これはとんでもなく大きな危険を内包している思想ということができるのです。

先の大戦を例にとってみます。
軍は政治に関与すべきではないというのは、実は明治時代からの日本の常識です。
江戸時代までは、戦は武士、つまり軍人が行うものでしたし、その意思決定も武士が行いました。

明治以降は四民平等となり、徴兵も敷かれて民間人も戦いに参加するようになりましたが、その分、ひとたび戦争が起きれば、徴兵された民間人が、軍人として死ぬことになりました。
また、第一次世界大戦以降の世界の戦争は、一般人が巻き込まれて死傷する事態が起きるようにもなりました。

日本は、戊辰戦争以降、昭和20年の大東亜戦争の終戦まで、わずか80年の間に、
戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、第二次世界大戦と、大きな戦争だけで、なんと7度も行い、都度、多くの命が失われました。
そしてこれらの戦争のすべてが、実は「シビリアン・コントロール」のもとで行われています。
そしてひとたび戦争となれば、軍は命を賭けて戦いますし、敗れれば将校は腹を斬ります。

しかしその前に、「本来戦争は避けなければならないもの」であるはずなのです。
戦争が起こらないようにと、ありとあらゆる権限を与えられ、最大限の努力によって戦争を回避し、かつわが国の国民の生命財産の安全を保持するのが、本来の文官の役割です。
なぜなら、武官、文官を問わず、「国民が豊かに安全に安心して暮らせるようにする」ことが、「国家に与えられた最大の使命」であるからです。

整理すると、戦争を起こさないために、あらゆる権限を行使して戦争を避けるのが、文官の役割です。
ひとたび戦争となれば、命がけで戦うのが軍人の役割です。
繰り返しますが、「戦にならないようにするのは文官の役割」です。

つまり、戦が起きたということは、文官がその役割を全うできなかったということです。
ドンパチが起きないように、あらゆる権限を与えられている文官が、結果としてドンパチに至ったとするならば、それは「文官としての責任を果たせなかった」ということであるはずです。

そうであるならば、勇敢に戦って敗れた将軍の処罰をする前に、
「戦いが起きることを防ぐことができなかった文官」が、戦いが起きた責任をとって腹を斬る必要があるはずです。
権力というものは、常に責任とセットだからです。

戦を起こさないで平和を守るのが文人の役割です。
戦に勝利することで平和を守るのが武人の役割です。

武人は、敗れれば責任をとって腹を斬ります。
では、戦前の日本の文人で、戦が起きた時責任をとって腹を切った人がいたのでしょうか。
あるいは世界の指導者で、戦争を起こした指導者はたくさんいますけれど、戦争に至ったことを苦にして腹を切った指導者は、果たしているのでしょうか。

ルーズベルトは、「絶対に戦争を起こしません」と国民に約束して大統領になり、堂々と戦争を起こしました。
これは国民をたばかったことになります。
「戦争を起こしません」といって、ありとあらゆる権限を与えられた、つまり最高権力を与えられていながら、ルーズベルトは戦争を起こしたわけです。
ならば、開戦に至った時点で、自殺しないまでも、せめて大統領を辞任すべきです。
それがあるべき権力と責任の関係です。

「軍人は政治に介入すべきでない」と言われ、「シビリアン・コントロール」は、政治の常識であるかのように宣伝されていますが、では、戦争が起きたことについての責任をとって、腹を斬った文官が、歴史上、ひとりでもいたのでしょうか。

「シビリアン・コントロール」の目的は、どこまでも戦争を避けることにあります。
それならば、結果として戦争を招いてしまったなら、コントロールする立場にいた文民は、戦争を避けるために与えられた権力を十分に活用できずに戦争という現実を引き起こしているのですから、当然に責任を問われるべきです。

けれどシビリアン・コントロールによって防げなかった開戦の責任を、問うための仕組みや法すらできていないのが世界の現実です。
むしろ、少々露骨な言い方をするならば、戦を起こすことで文官は儲かり、軍人は死ぬのです。

ということは、シビリアンコントロールというのは、戦争が起きて多くの国民の命が失われても、ぜんぜん責任を問われることのない、むしろ戦争が起きることによって利益を得たり得なかったりする人たちが、実際の開戦にあたっての権限を、「責任をとることなく行使する」のがシビリアンコントロールということになります。

これは極めて恐ろしいことです。
軍人は、戦が起きれば死ぬのです。
文人は、戦を招いても死ぬ危険がないのです。
それでいて、開戦責任も、敗戦責任も、だれも取らないのです。

そういう責任のない人たちが、国民の生命財産の安全についての権力を行使しますというのが「シビリアン・コントロール」です。
そして、いまの日本では、それが疑いの余地のないほど正しいことであり、世界の常識であり、教育に必要なことであり、マスコミを通じて拡散すべきこととなっています。
これは恐ろしいことです。

軍人が開戦の意思決定をすることが良いということを申しているのではありません。
「シビリアン・コントロール」をいうなら、その統制する文民自身が、開戦責任をとらなければならないと申し上げています。

そもそも、絶対に鉄砲玉が飛んでこない安全なところにいて、戦争を回避するための全権を委ねられていながら、その責任をまっとうできないような者が、一切の責任を問われることなく開戦の意思決定権を持つのは、誰がどう考えても、おかしいと言わざるをえないのです。

文民は平和を守り戦争回避のために全力を挙げる。
戦争に至ったならば、それを回避できなかった文民は腹を斬る。
そして軍人は国を守るために全力で戦う。
戦争に敗れた将軍は腹を斬る。
シビリアンコントロールを言うのならば、それがあるべき姿なのではないかと思います。

責任を問われることのない者が、権力を行使するというのは、あってはならないことです。

リットン調査団

リットン調査団といえば、昭和7年3月に満州国の正統性をめぐって支那国民党の提訴に基いて国際連盟から満州に派遣された調査団です。
近現代史の重要なエポックであり、ご存知の方も多いかと思います。

リットン調査団は、満州に向かう途中、日本に立ち寄りました。
このとき日本国内では単に実務的かつ事務的な実情の説明会を開催し、海外の賓客として、型通り食事等のおもてなしをしました。
ここまではきわめて普通のことです。

続けてリットン調査団は、支那に渡り、そこで蒋介石率いる国民党のもてなしを受けました。
蒋介石は、港で調査団を盛大に迎えたあと、宿泊施設に調査団を案内しました。
その沿道には、あらかじめ多数の乞食や傷痍軍人が配置されていました。
そしてそれらがすべてが、日本軍の非道によってもたらされた惨状だと調査団に説明しました。
港での歓迎と、沿道の地獄絵図、それは見事な対比でした。

宿泊所では、リットン調査団のひとりひとりにに、最高の支那人美女の性接待が付きました。
そして調査団のひとりひとりに、中世支那の高価で贅沢な品物がプレゼントされました。
そして、それら高価な品々を生産できる支那が、日本の横暴によって破壊されているのだと調査団に告げました。

リットン調査団は、このあと満州に入り、実情をつぶさに調査しました。
そして結果は、日本が満州においてきわめて素晴らしい建国への協力を惜しみなく行っているという事実を全て認めながら、結論だけは違法な建国であり、日本の満州建国は許されるべきものではないとされました。

実際には、沿道にいた多数の乞食は、もともと支那社会の貧困がもたらしたものです。
並んでいた可哀想な傷痍軍人は、実は支那では、軍人とヤクザと暴徒は同じものです。
つまり、自分が悪いことをしたから怪我を負った者たちです。
性接待をした多数の美女たちは、言うことを聞かなければ自分が殺されるだけでなく親兄弟まで殺され食べられてしまうという恐怖を、しっかりと味合わされている女性たちでした。
また、多数の金品は、何もリットン調査団のために用意されたものではなく、もともとは清朝の紫禁城内にあった宝物を、国民党が勝手に横領強奪したものでした。

つまり国民党によるリットン調査団の出迎えは、すべて計算された籠絡でした。
日本が正直にありのままの実情を調査団に見てもらおう、何事も包み隠さず、良い所も悪いところも、彼らの第三者としての視点で自由に見ていただこうとしたのに対し、国民党は、まさに宣伝工作によって、リットン調査団を籠絡していたのです。
そして結果は、国民党の思う壺となりました。

支那社会では、カネと女で籠絡し、言うことを聞けば天国のような贅沢と大金と権力、言うことを聞かなければ地獄のような仕打ちを受けて殺されるという二者択一による工作は、これは古い昔から行われたあたりまえの方法です。
残念ながら、日本にはそのような風習はありません。
なぜなら日本は、神話の昔から、そのような籠絡を軽蔑し、正々堂々と事を前に進めるということが国のあるべき姿であり、常識とされてきたからです。

この姿勢は、古事記の国譲り神話にあります。
国譲り神話では、中つ国への降臨を指名された天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)が、「下界は騒々しい」と言って帰ってしまわれたことから、天孫降臨のための下準備として天菩比神(おめのほひのかみ)、続けて天若日子が大国主神が治める葦原の中つ国に派遣されています。
けれど、天菩比神は大国主神に媚びて三年経っても復奏せず、次に派遣された天若日子も、大国主神の娘を充てがわれて八年経っても、復奏してきませんでした。

つまり、巨大な財力と武力、つまりウシハク権力によって籠絡されてしまうということは、実は神代の昔からあったわけです。
これに対抗しえたのは、建御雷神でした。
圧倒的な武力と、揺るぎない強い信念と責任感を持った建御雷神の登場によって、はじめてウシハク主が脱帽して、国譲りが行われています。

この国譲りを迫ったときの建御雷神は、出雲国の伊那佐(いなさ)の小浜(をはま)に降りると、波の上に十掬剣(とつかのつるぎ)を逆(さかさま)に立て、その剣の前(さき)におおあぐらをかいて座ると、真正面から堂々と大国主神に、
「汝(いまし)が宇志波祁流(うしはける)葦原中国は、
我が御子の知らす国ぞと言依(ことよ)さし賜ひき。
ゆえに汝(いまし)が心は奈何(いか)に」
と問うています。
そして大国主神が、「息子二人の意見を聞かないと」と言い訳をすると即座にこの二人を追い詰め、国譲りを承諾させています。

まさに「圧倒的な武力と、揺るぎない強い信念と責任感」のみが、買収に籠絡されない秘訣であることが、古事記に説かれているわけです。
逆にいえば、「圧倒的な武力と、揺るぎない強い信念と責任感」がなければ、ウシハク支配者からの籠絡を防ぐことはできないということも、この物語は示しています。

戦前において日本は、まさに文民統制によって、大陸への戦力の逐次導入を行いましたが、結果として十分な成果を上げることができませんでした。
そしていまでも、中共政府は、中共政府が行ってきた悪事の数々は、ことごとく日本によってもたらされたものだと国内で教育し、世界で宣伝しています。

戦前の軍人のみなさんが、「揺るぎない強い信念と責任感」を持って大陸に出兵していたことは事実です。
しかし、では「圧倒的な武力」を保持していたかといえば、それは違います。
武力では、良くてイーブン、多くの場合、むしろ装備の点では、英米独の後ろ盾を得た国民党軍の方が、優秀な装備を持っていました。
兵力に至っては、常に20倍から50倍の敵と戦うことが常でした。

振り返ってみれば、
1 圧倒的な武力
2 揺るぎない強い信念
3 責任感
のうち、2と3はあったけれど、1が欠けていました。

ではいまの日本はどうでしょう。
戦前と実は、何も変わっていないのではないでしょうか。
日本は、中共に対して圧倒的な武力を持っているどころか、中共政府が武力強化できるように資金援助までしているのが実態です。
情報面においても、ありとあらゆる捏造による情報操作をしてくる中共や韓国に対して、日本はほとんど一方的に言われっぱなしです。つまり圧倒的という意味では、捏造情報が、事実を情報量で上回っています。

では、揺るぎない信念はどうでしょうか。
学校教育の段階から反日教育を仕込まれ、テレビや映画では、リアルでは絶対に勝てないケンカの仕方しか放送されない。
特亜は、全然事実と異なるけれど、反日教育の成果として、日本は悪い国という揺るぎない信念を持っているのに対し、日本では、揺るぎない信念を持った人は職を追われたり逮捕されたりするというありさまです。

結局いまの日本が、日本として成立しているのは、自衛隊員の国を守る責任感と、米国の軍事力の傘の下にあるという、この2点だけが、かろうじて日本の主権を支えているということができます。

なかなか不況から抜けだせないでいる日本ですが、実は、日本が軍事を強化することは、景気を一変させるインパクトを持ちます。
実は、いまの内閣の経済対策が、かならずしもうまくいかなかった原因は、金融マンの世界では、しごくあたりまえのことでしかありません。

なぜなら、政府の景気対策金は、その多くが銀行に対して、貸付準備金として交付されるというカタチでした。
公共事業費にすれば世論の批判を浴びるということで、銀行に金を渡して、市中にばらまいてくれとやったわけです。
ところが銀行からみれば、貸せる先がないし、焦げ付けば不良資産になります。
そうやすやすとは金を貸せない。

企業もこのご時世です。
カネを借りたくない。
いくら金利ばかりを下げられても、いつ銀行にカネの回収を求められるかわからないご時世の中では、安心して銀行からカネを借りることなどできません。

また貸す側の銀行にしてみれば、こんなに金利が低ければ、リスクヘッジができないし、貸しても儲けがないのです。
そうなると、お金をただ銀行の金庫の中に寝かせるだけになり、結果として、お金は市場に流通しません。
あたりまえのことです。
だから、景気対策金に莫大な予算が計上されても、世間の景気は一向に良くなりません。

要するに、新たな産業振興(育成)による資金の循環がなければ、景気回復はありえないのです。
そして実は軍事は、ものすごい産業です。
では、日本国政府が、震災などの災害対策や情報面を含めて、自衛隊の国防予算を、年間20兆円、10年で総額200兆円の予算を組んだらどうなるでしょうか。
日本国内景気は、軍事関連需要によって、まちがいなくいっきに好転します。
同時に災害に強い国家つくりができ、さらに支那や韓国から舐められない国がまちがいなくできあがります。

要するに、責任を問われることのない、無責任な連中や政党が、国防をないがしろにし、国民が最も求める豊かで安全で安心な国作りを、阻害しているのです。

パチンコ産業にいくらカネを費やしても、日本の景気は良くならないし、日本の国際的地位もあがらないのです。
ところが国防に力をいれれば、日本の景気はいっきに回復するし、世界から侮られない日本が誕生するし、国民の生活は豊かになるし、安全になるし、安心して暮らせる社会が実現できるのです。
そして世界に向けて、堂々と、卑劣なインチキを告発することができるようになると、私は思います。

結果の出せる組織の大改造

20151108 天孫降臨

源頼朝が幕府を、京の都から遠く離れた鎌倉に置いたことはみなさまよくご存知のことと思います。
公家政治から武家政治へと、国家の政治組織の大改革を実現しようとするとき、その経営組織の要員をまるごと入れ替えることができるのなら、場所は京の都でも良かったのです。
けれど天皇を中心とした世の中という本質(国体)を崩すことなく、政治体制(政体)を改めようとするなら、政治の中心となる場所そのものを移動させる、その必要があったからこそ頼朝は幕府を鎌倉に開いています。

こうしたことがなぜ行われたのかを考えるには、まず日本神話が常識として共有されていなければなりません。
日本神話では、もともと大国主神が葦原の中つ国を治めていたとあります。
ところがその統治の在り方が、必ずしも高天原の意向に沿うものでなかった、つまりウシハク統治となり、その結果、狭いところに蝿がブンブンと飛び回るような騒々しさと、まるで悪鬼悪紳がはびこったような享楽社会に陥っていたわけです。

そのために天照大御神は、高天原と同じ統治が中つ国でもなされることを希望され、天孫を中つ国に派遣することを決断されます。
これが「天孫降臨」です。

 この「天孫降臨」は、いまでは話がものすごく単純化されていて、「天照大御神によって邇邇芸命(ににぎのみこと)が中つ国に降臨した」とだけしか理解されなくなってしまっていますが、実は全然違います。
どう違うかというと、まず天孫降臨をご決断されたのは、もちろん勅令は天照大御神のお名前によって発せられていますが、その政治的決断をしたのは、天照大御神を輔弼(ほひつ)された高木神と、八百万の神々との共同作業です。

つまり今風にいうなら、高木総理と閣僚たちが国会の承認を得て天孫降臨を決め、天照大御神の御名において、その命を下した、ということになります。
そういうことが明確に区別されるように古事記には書かれています。

そして天孫として、新たな統治者となるべく中つ国に降臨した邇邇芸命は、おひとりで降臨されたのではなくて、五伴緒(いつとものおのかみ)といって、5柱の神々を降臨に際して同行させています。
この五伴緒というのは、「伴」が技術集団、「緒」はその長(おさ)を意味します。
つまり五伴緒とは、「五組の技術集団の長」という意味です。

では、どのような長を同行させたのかというと、
天児屋命 「天児屋」は、天の小屋、つまり大工。
布刀玉命 「布刀玉」は、布(織物)や玉や刀等を製造する職人。
天宇受売命「天宇受」は、天の声を受ける巫女。
伊斯許理度売命 石(いし)の鋳型を用いて鏡を鋳造する職人。
玉祖命  勾玉などの宝玉を加工する職人。

つまり五伴緒のうち、天宇受売を除く4柱が全員「ものつくり」をする神様であり、その天宇受売は神々の命(みこと)を授かる神様ですから、簡単にいえば諸命をもって、「ものをつくる」集団が地上に派遣されて、それまでとはまったく別な政体を作ったということがわかります。

つまり「モノつくり国家」としての日本のカタチは、まさに邇邇芸命の時代に築かれたのですが、これはそれ以前にあった、社会体制とはまるで別なものです。
どういうことかというと、それまでの大国主神の国家では、人々が自己の欲望を満たすことを優先する社会が営まれていたわけです。
民衆がそれぞれに自己の欲望を満たすために努力する社会ですから、経済は発展します。
水上交通が盛んになり、交易圏が広がり、遠く朝鮮半島までが大国主神の版図にはいった様子が、古事記に描かれています。

ところが、人々が個々の欲望を満たすために生きるということは、互いに欲と欲がぶつかり合い、相手よりも少しでも優位に立とうとして、互いに競い合う社会となります。
人の欲望を満たせばカネになるわけですから、人々の欲望があおられ、より欲の深い者が自己の欲望を満たすために人を支配し、収奪します。

結果、交易圏は広がるものの、誰もが少しでも利得を得ようと騒ぎ立てていますから、世の中は騒々しくなるわけです。
そして騙し騙されの欲望や私心といった悪鬼悪神がはびこる世の中となり、その結果、世の景気が成長する一方で、圧倒的大多数の民衆は飢えと貧困下に置かれるわけです。

現在の世界は、おおむねこれに近い社会構造となっています。
そして先日書いたように、世界の人口の70%以上が電話を使ったことがなく、世界で3人に1人は戦時下に暮らし、タイガー・ウッズが帽子をかぶって得るスポンサー料が一日当たり5万5000ドルで、その帽子を作る工場労働者の年収の38年分という世が生まれているわけです。
つまり富がごく一部の人や地域に集中し、それ以外の圧倒的多数は貧困にあえぐ社会となってしまっていたのです。

そこでこれをどのように変えるか、ということで邇邇芸命が五伴緒を連れて派遣されてくるわけです。
邇邇芸命が五伴緒を連れてきたということは、それまで政治の中心にいた人々を、ほぼ全員政治の第一線から引退させ、人事を作新して、まったく新たな政治体制を築いたということをあらわします。

その政治体制が目指した統治が、「高天原」と同じ統治です。
ご存知の通り、高天原は神々のおわすところです。
そこにおわすのは、すべて神々ですから、一部の富者のために他が犠牲になるという社会構造ではありません。
すべての神々が神として尊重されるところです。
つまり、高天原と同じように、すべての民衆が、神と同様にその尊厳が認められる社会を築こうとしているわけです。

そしてそのために必要なことは、誰もが豊かになること。
そのためには、できあがった作物を奪う社会ではなく、「つくること」そのものが大切にされる社会へと変革が行われています。

欲望社会は自分のために「奪う」社会です。
ものつくり社会は、人のために「つくる」社会です。

そして欲望社会における政治は、ウシハク者の収奪のための政治です。
ものつくり社会における政治は、つくるためにひとりひとりが大切にされるシラス社会です。
そこでは政治は庶民の生活をサポートするものが政治、という位置関係です。

だからこそ天孫降臨に際して、モノ作りの神様が五伴緒として同行し、政治の中心地も、それまでの出雲ではなく、新たに日向の高千穂に、都が設けられているわけです。
鎌倉幕府も、これとまったく同じことをしたのです。

鎌倉幕府は武家幕府ですが、当時の武家は、ほぼ全員が農耕主でもあります。
わかりやすく言うならば、貴族政治を、農民政治にあらためようとしたのが鎌倉幕府なのであって、その農村の地主さんが御家人と呼ばれたわけです。

モノ作りではない点は、邇邇芸命と異なりますが、すでにこの時代には、政体に関わらずモノ作りは日本に完全に定着していたわけで、だからこそ、あらためて農耕を根底とした政権を、頼朝は誕生させているわけです。

しかもその政治の中心地は、大国主神のいた出雲ではなく宮崎の高千穂に天孫降臨したのと同様、それまでの政治の中心地であった京の都を離れて、鎌倉に幕府が開かれています。
つまり源頼朝の鎌倉幕府の設立は、その原型が神話の世にすでにあったことを、あらためて再現したものということができます。

いまの時代、頼朝が鎌倉幕府を開いたということは学校で教わっても、なぜ鎌倉に幕府を開いたのかについてを教わることはありません。
もちろんそれは諸説あることです。
どれが正しいとはいえないことであることも事実です。

けれど「どれが正しいかわからないから教えずに、そこは避けて通る」ということでは、教育の名に値しないと思います。
そうではなくて、「なぜそうした選択をしたのか」を考えながら、自分なりの答えを見出していくことこそ、新時代を切り開く知恵と勇気を与えることになるのだと思います。

日本は、天皇を中心とし、天皇によってすべての民衆が「おおみたから」とされるという根底があります。
これが日本の国の根幹のカタチで、これを「国体」と言います。
そして政治体制、つまり「政体」は、その国体の中にあります。
ですから、政体が変わっても、国体は変わりません。
むしろ、国体を維持するために、ドラスティックに政体を変えることが可能な組織が、日本という国家の特徴であるということができます。

このことは、たとえばある会社が経営方針の大転換を図ろうとするときに、同じことがいえます。
トップが経営方針を示すだけでは変わらないとき、おもいきった人事の作新によって、その新方針を明確にする。
そうすることで実は企業風土をいっきに変えることができます。

孫子の兵法で言う用兵は、「兵は拙速なるを聞く」「国を全うするを上と為し、国を破るはこれに次ぐ」「十なれば則ちこれを囲み、五なれば則ちこれを攻める」等々がありますが、用兵の迅速攻守において、何より大事なことは人であること、誰を用いるかにかかっていることは、およそ企業戦士であれば、誰でもが知ることです。

要するに人事こそが要諦で、古事記ではその人事については、シラス統治においても、トップである天皇(高天原なら天照大御神)が、絶対に手放してはならないものと書かれています。
そしてその人事は、部門の責任者を変えるだけでなく、方針を大きく変えるときは、その下にいるサブ・リーダーまでも含めて、いっきに作新しなければならないということが、実は古事記の天孫降臨にかかれているわけです。

いま、日本の統治をみると、なるほど国会与党第一党の党首が、行政府である内閣の総理となります。
そして総理は、閣僚(大臣)を任命します。
その総理には、各省庁の次官や、局長、部課長等の任命権はありません。
しかし、そこまで徹底しなければ、政体のカタチを大きく変更することはできません。

つまりいまの日本国憲法下の体制は、占領統治状態を「変えない」ことを前提にした憲法であり体制であるように見受けられます。
ということは、変えるときは天皇を中心とした国体によって、いっきにこれを変える。
いまの体制護持では、実は何も変わらないのです。

このようなことを書くと、過激派扱いされてしまいそうですが、そうではなくて、変えることを急ぐのではなく、まずは日本人が日本人としての文化意識をしっかりと取り戻す。
それだけなら、どういう体制下にあるかを問わず、人々の問題意識だけで実現が可能なことだと思うのです。
そして人事や場所も含めて政体の抜本的な見直しをするのは、次のステップへの準備なのではないかと思います。
言い換えれば、次の体制、求める政体への十分な確信と準備がなく、拙速にそれを求めることは、かえって世を荒らす原因(もと)になってしまうのではないかと思います。

もっとも、現実の問題として、日本人のふりをした日本人でない人たちの排除は、喫緊の課題ですが、これは政体の問題というよりも、むしろ犯罪者撲滅の議論に近いと思っています。

世界虐殺者ランキング

この顔見つけたらご用心
20160419 1925年ころの毛沢東
1925年ころの毛沢東

上にある写真は、1925年ころの毛沢東なのだそうです。
32歳です。
「こんな顔を見つけたらご用心」と申し上げたいと思います。

「世界虐殺者ランキング」というものがあります。
第一位は、毛沢東です。
なんと、7,800万人を殺害しています。
さほど遠くない未来、歴史が思想抜きに見直されたとき、人類史上最悪の魔人といえば、この人を指すようになるのではないかと思います。

第二位は、ソ連のヨシフ・スターリンです。
2,300万人を殺したと言われています。
日本人の中には、いまでも旧ソ連を人類の理想国家と思い込み、このヨシフ・スターリンから名前をとったりしている人がいたりします。
ソ連はとっくに崩壊しましたが、それでもこの悪魔性に気付かない、おかしな人が日本人の中にいまだに存在しているということは、世界的に見ても極めて異常なことということができます。

第三位は、カンボジアのポル・ポトです。
なんと170万人を殺害しています。

第四位は、北朝鮮の金日成です。
160万人を殺害しています。

第五位が、韓国の初代大統領の李承晩です。
自国民を恐怖して150万人も殺しまくりました。

日本が侵略しただの虐殺しただのとかしましく宣伝されていますが、そのような事実はありません。
むしろ、当時の支那においてなら、国民党兵は国際法に言う軍人として制服を着用し、公然と武器を携帯していた者はごく一部であり、他の大勢は、武器を隠し持った便衣兵でした。

たとえばもし、日本が米国によって占領統治されている時期に、日本人が民間人の服装をしたまま武器を隠し持ち、日本国内といわず、世界各地で殺人行為を繰り返していたなら、世界各国から、日本人というだけで、逮捕され、殺されても文句がいえません。
なぜなら、一部の日本人が民間人の服装で殺戮行為を繰り返していていて、日本国政府なり指導部なりがそれを黙認しているのなら、それは日本人自らが、軍人同士の正々堂々の戦いではなく、民間人と軍人との戦いを望んだことになるからです。
したがってこの場合、日本人が降参しないかぎり、1億全員殺されても文句を言えないし、日本人を殺すことが正当な行為と国際社会ではみなされるのです。

世界の民族紛争と呼ばれる紛争の恐ろしさがここにあります。
軍隊は、軍人が軍人としての服装をし、あきらかに兵士とわかるように武器を携帯し、そして大事なことは、必ず指揮官が存在します。
最初の指揮官が仮に戦死しても、最後の一兵まで順番と序列が決まっていますから、上官によって白旗が掲げられれば、それ以上に無用な殺戮を防ぐことができるし、停戦の交渉もその名宛人が明確です。

ところが民間人や便衣兵というものは、誰が兵なのかがわからないのみならず、指揮官の存在も不明なのです。
こうなると、停戦も休戦も降参もできなくなります。
どこまでも際限のない殺戮を継続させるしかなくなるのです。
世界の民族紛争が凄惨な現場となるのは、まさにこういうことに端を発します。

逆にいえば、支那にいた日本軍が、敵が便衣兵でありながら、その便衣兵に日本の兵士が殺されてもなお、軍人として常に正々堂々の戦いを挑んだということは、世界的にみても、これは実は「ありえない自制心」によるものということができます。
そもそも便衣兵であっても、それを民間人とみなして(日本人の兵隊さんが何人殺されてもなお)保護しているのです。
これは賞賛されこそすれ、文句を言われる筋合いなど、毛ほどもないのです。

それよりもむしろ毛沢東にせよ、李承晩にせよ、戦争でもないのに、自国民を公然と殺しまくっています。
その事実についての総括さえもまったくできていないような情けない国に、日本が戦前戦中のことでいちいち文句を言われる筋合いなど、まったくないのです。

なるほど戦時においては、たくさん殺した人が英雄です。
けれど、平時においてそれを行えば、それは単なる殺人鬼です。
そのような殺人鬼が、建国の父となっていて、そのことについて、何の自浄作用も働かせることができないというのは、これはもう恥ずかしいを通り越して、人畜以下です。
はっきりいって、ケモノだって、そんな虐殺はしません。

日本人の感覚からしますと、たとえば駐車違反で捕まったときに、
「違反しているのはワシだけやないやんけ!
なんで他の車を取り締まらんのや、ドアホ!」
などと、自分のことをタナにあげて、相手をこき下ろすというのは、良識としてありえないものです。

けれど、支那朝鮮に関しては、まさに「自国のことをタナにあげて、日本をこき下ろす」ことが、国家の柱になっているわけです。
どうしてそのようなものに、日本人がまともに相手をしなければならないのか。
相手のいうことに不条理があれば、顔を洗って出直してこい!というのが、日本人の姿勢であるべきです。

《 嘗て日本と朝鮮が手を取り合って、仲良く生きていた時代があった。》

元韓国籍の女性で日本に帰化された呉 善花(オ・ソンファ)氏という方が居る。日本評論家、教員、言論家でもある。氏は済州島出身で大東文化大学(英語学専攻)卒業後、東京外国語大学地域研究 研究科修士課程(北米地域研究)を修了し、現在は拓殖大学国際学部で教授をして居られる。

日韓関係について沢山の書籍を執筆されているが、彼女は小さい頃、親の世代から「日本人はとても親切な人たちだった」と聞かされて育ったという。ところ が、就学年齢に達すると韓国の学校では「日本人は韓国人に酷い事をした」との凄まじい反日教育を受けたという。いつしか学校で教えられるままに、「日本人 は韓国人に酷い事をした」という認識が、彼女の中でも常識となっていた。

呉善花氏は、その後日本に渡って、日本で生活するようになった。すると嘗て親から教えられた「日本人はとても親切な人たちだった」という言葉が、再び蘇っ てきたという。それを機に彼女は、日本と韓国の歴史について、もう一度勉強し直した。やがて彼女は、韓国で受けた反日教育というものが、非常に偏った、間 違いだらけのものである事を知るようになった。こうして彼女は、反日主義から抜け出せたと述懐されている。

呉善花氏は後に、『生活者の日本統治時代』(三交社)という本を出版した。これは、嘗て日本が朝鮮を統治した時代、詰まり日韓併合時代(1910 年~1945年)を実際に体験した日本人や韓国人に直接インタビューして、それを纏めたものである。証言者がご存命中に行動を起こして下さった呉善花氏 に、日本人は尊敬と感謝の気持ちを持つべきである。本来、こうした困難な事案は日本政府が主導してやるべき事であった。

そこには、日本統治下の朝鮮を実際に体験した日韓15人の貴重な証言が書かれている。彼らの体験談を通し、あの朝鮮に於ける日本統治時代は実際はどんなものだったか、という事が非常にはっきり見えてくる。私たちは彼らの証言に耳を傾けてみるべきである。

〈日本統治下の朝鮮を体験した人々の証言〉

阿部元俊さんは、大正9年、3歳の時に朝鮮に渡り、そこで学生時代を過ごした。文字通り、日本統治下の朝鮮を体験したのだが、彼はこう語っている。

【「私が朝鮮に居た頃、日本人による朝鮮人虐めの話は、噂としてもまず聞いた事がありません。特に、ソウル郊外の水原にいた頃は、日本人が少ないからと珍 しがられて、地域の人たちは皆、親切にしてくれていましたしね。少なくとも水原では、私の知る限り、日本人と朝鮮人とが衝突したとか、喧嘩したとか、何か のトラブルがあったといった話は聞いた事がありません。ソウルでもそうでした。」

「学校では…『ここは朝鮮だ、我々は他人の国によそからやって来て住んでいる。朝鮮人と喧嘩したり、朝鮮人を虐めたりは絶対にしてはいけない』…と盛んに言われていましたし、親からも厳しくそう言われていました。」

「私の父は医者で、貧困な農民たちの治療に励んでいましたが、それで病原菌を貰ってしまいまして、腸チフスと赤痢に罹ってしまいました。父が病院を辞める 時には、多くの朝鮮人が家にやって来て、『どうか辞めないで、ここに居てください』と泣いて別れを惜しんでいました。」

「戦後、日本に帰ってから、朝鮮に住んでいた日本人は朝鮮人を盛んに苦しめたという言葉を、当然のようにぶつけられましたが、自分の体験からすると、いっ たいそれはどういう事なのか、どう考えても分かりません。喧嘩という事だけでなくて、問題になるような虐めとか、差別とか、一般生活者の間では殆んど無 かったという事を、私は自分自身の実体験から自信を持って言う事ができます」】

このように阿部さんは、はっきりと朝鮮人と日本人は仲良く暮らしていたと証言している。然るに、韓国は建国以来、延々と反日教育を続けている。反日教育は間違っていると証言する生き証人がもはや居ない中で、韓国は国家ぐるみで捏造した歴史教育をしているのである。

「日帝は、全国至る所で韓民族に対する徹底的な弾圧と搾取を行ない、支配体制の確立に力を注いだ」「日帝の弾圧に苦しめられた我が韓民族は、光復(戦後の 解放)を得るまでの間、植民地政策に対して自主救国運動を展開した」等々、韓国の教科書では、日本人は朝鮮人を迫害・弾圧し続けた事にされている。併し、 実際に朝鮮に於ける日本統治時代を体験した人々は、韓国の反日教育とは全く異なる証言をしているのである。

生まれも育ちも朝鮮の新義州(今日の北朝鮮北部)という林健一さんも、以下のように語ってる。

【「日本人による朝鮮人差別という事は、全くありませんでした。学校で生徒同士は完全に対等で、上級生の朝鮮人が下級生の日本人を呼び寄せて、『お前は服 装がなっていない』とか説教する事なんかが度々ありましたね。朝鮮を出て、日本の内地に行きたいとも思いませんでした。朝鮮の人々は良かったですし、私も 居心地が良かったですから。…骨をどこに埋めるかと聞かれれば、『朝鮮』と答えたものです」】

また、日本統治下のソウルで青春時代を過ごした吉田多江さんは、こう証言した。

【「近所の子供たちともよく遊びました。私は朝鮮の女の子たちの長く束ねた髪の毛が羨ましくて、私が触りたいと言うと、よく触らせてくれました。何の区別 もなく付き合っていました。仲の良かった思い出が一杯で、朝鮮人と日本人の間で虐めたり虐められたりといった事は、本当に見た事も聞いた事もありません。 朝鮮はとても治安が良くて、日本人を襲う泥棒や強盗の話など聞いた事もありません。横暴な振る舞いなど一切ありませんでした。」

「戦後になって日本に送還される時も、家財道具を盗られるなんて事も無く、こちらから知り合いの人たちにあげましたし、彼らは皆 喜んで感謝の礼を表してくれました。こんな素晴らしい事って、あるでしょうか。世界に誇れる事だと思います。」

「創氏改名(日本人名を名乗る事)を強制的にさせたとも言われますが、私のまわりの朝鮮人は皆 終戦までずっと朝鮮名のままでした。戦後の韓国で言われてきた歴史には、余りにも嘘が多いと思います。私はソウルで生まれ、成年になるまでソウルで生きて きましたが、日本人と韓国人が基本的に仲良く生きてきた事は、双方の民族にとって誇るべき事だと思っています」】

韓国人の朴承復さんも、こう証言している。

【「学校では日本人生徒たちからも先生からも、差別された事はありませんでした。今でも日本人の同期生たちと会うと、彼らは韓国語で話したがります。今尚 それほど親しく付き合っている日本人の同期生が何人もいます。商業学校の恩師二人は、とても尊敬できる方でした。一人は松尾先生で、国語の先生でした。こ の先生は韓国人、日本人に関わりなく尊敬されていました。」

「もう一人は横尾先生です。この先生は日本人生徒たちからは嫌われていました。めちゃめちゃに厳しくて、過ちを犯せば決して許さない方でした。併し、私は何故か特別に可愛がって貰いました。色々な相談にものって頂いた大恩師です。」

「卒業後、朝鮮殖産銀行に務めましたが、差別的な扱いを受けた事は全くありません。行員家族全員で地方の温泉地へ一泊旅行に行ったりもしました。日本人も 韓国人も区別なく、皆 仲良く楽しく遊んで過ごしました。日帝時代にそんな事はあり得ないと言われるかも知れませんが、過激な人や極端な人たちの一部での喧嘩や衝突はあっても、 一般の日本人と韓国人のぶつかり合いなんか、見た事もありません。」

「多くの日本人は、朝鮮人から家をちゃんと借りて住んでいました。日本人が勝手に韓国人の家を奪い取るなど、そんな事は無かったです。当時の日本人は本当に質素でした。私自身は当時の日本人に対して悪い印象は全く持っていませんでした」】

ソウルの京城帝国大学で学んだ韓国人の閔圭植さんの証言はこうである。

【「私は個人的には日本人と仲が良くて、悪い感情はありませんでした。日本人が韓国人に恐怖を与えたとか、韓国人が日本人に殴られたとか、何か嫌がらせをやられたとかいった事は、個人的には見た事も聞いた事もありません。」

「日本人が韓国人の家を奪って勝手に使うとか、土地や財産を搾取するとかいう事も、全くありませんでした。神社参拝については、何かの日には学生全部が連れて行かれました。行かなくても別に厳しい文句は言われませんでしたが」】

日韓共同映画『愛の黙示録』を作り、3000人の韓国人孤児を育てた日本人 田内千鶴子さんの生涯を描いた監督 金洙容さんも、こう語っている。

【「農場の日本人たちはとても勤勉でした。日本人は早くから科学的で先進的な農法を使っていました。日本人の経営する農場には、韓国人たちも沢山働いてい ました。日本人は日当をきちんと計算して渡してくれました。彼らはとても礼儀正しく、日当を支払わないような事はまずしません」】

新義州の中学や高校に通っていた李萬甲さんは、こう語っている。

【「朝鮮人は私一人でしたが、日本人の同級生みんなに親切にして貰いました。日本人の先生には立派な方がいらっしゃいました。創氏改名は昭和15年からの 事でした。殆んどの人が変えていましたね。併し、官庁に務める人でも、変えないからといって首になるような事はありませんでした。」

「日本人が韓国人の生活を侵害するとか、略奪するとか、そんな類の事は日本人は全くしませんでした。日本人は法に反する事をしないようにと、非常に気をつけていました」】

総ての証言を確認するまでもあるまい。当時を体験した方々の証言に共通するのは『嘗て朝鮮人と日本人が、共に手を携えて仲良く暮らして居た時代があった』 という事である。韓国も日本も、次代を担う子供たちに〈嘘〉を教えるのは止めるべきだ。韓国政府は被害者を装って日本からカネをせびり取ろうとの醜い行為 は即刻止めるべきだし、日本政府は故なき贖罪意識を国民に植え付けていては、日本に未来は無いと気付くべきである。

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日韓併合時代の真実
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/rekishi02.htm

石川 久遠さんの写真