明治37年(1904年)2月10日、日本はロシアに宣戦布告しました。日露戦争です。当時ロシアは世界最強の軍隊を持っていましたが、日本は辛勝なが らも連戦連勝を続けます。ロシアは日本を一気に潰すため、バルト海からバルチック艦隊を派遣する手段に出ました。ロシアはバルチック艦隊のほかに黒海艦隊 を持っていました。日本海軍としてはやってくるのはバルチック艦隊だけか?黒海艦隊も来るのか?というのが重大な関心事でした。黒海艦隊が地中海に出るに はイスタンブールのボスボラス海峡とその先のダーダネル海峡を通過しなければなりません。そこで、駐オーストリア特命全権公使、牧野伸顕(まきの のぶあき)はイスタンブールにいる山田寅次郎に黒海艦隊の動向を秘密裏に監視する密命を与えました。
山田寅次郎はトルコの軍艦エルトゥールル号の遭難事故をきっかけにオスマン帝国・イスタンブールにやってきて、日本とトルコの交易のほか民間大使のような役割を行っていました。当時、日本とトルコは正式国交はなかったのです。
寅次郎はボスポラス海峡の入り口にある一軒家を借り終日望遠鏡で海峡を監視しました。またイスタンブールの中心街の高台にあるガラタ塔でトルコ人20人 を雇って交代で黒海艦隊の動静を昼夜にわたって監視させました。そして7月4日、怪しい船を発見します。ロシアの義勇艦隊の三隻が貨物船のように偽装し、 食料や飲料水を補給して出航の準備をしているのを目撃したのです。寅次郎はすぐさま牧野伸顕に報告し、牧野伸顕から本省へ打電されました。
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小村外務大臣
第113号
「コンスタンチノープル」ヨリノ密報
義勇艦隊ノ汽船二隻兵員ヲ載セ七月四日海峡ヲ通過セリ 尚ホ一隻ウラル号ハ同シク七月四日ニ通過シタル筈 右ハ仏国(フランス)ニ向ヒタリト云フ 「ツーロン」又ハ「マルセーユ」ノ内ニ寄航スルナラント思ハル 義勇艦隊ノ動作ハ「バルチック」艦隊ノ進退ニ関係ナキカ 右ウラル号は「オウレル」号ノ間 違ナルベシ
※コンスタンチノープルはイスタンブールのこと。
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ロシア義勇艦隊のペテルスブルグ、スモレンスク、オリョールの三隻が七月四日、ダーダネルス海峡を通過し、南下したという報です。そしてこれらの三隻の 動向は追跡され、二隻はスエズ運河を通ってウラジオストックに向かったと報告され、一隻は病院船に使用する目的のようだと報告されています。
「日本外交文書第37巻・第38巻別冊日露戦争I第3節中立諸国交渉事件1 ダーダネルス海峡通過問題2」には牧野伸顕からの発信で「コンスタンチノー プルよりの私報」「在コンスタンチノプル諜報者」という言葉が見られ、これらは寅次郎のことを指していると見て間違いないでしょう。寅次郎はオスマン帝国 皇帝の見解を報告しています。
「予ノ確メ得タル所ニヨレバ土耳古(トルコ)皇帝ハ黒海艦隊ノ海峡通過ノコトニ反対セリ是レ英国ノ抗議を受クルニヨル」
外交文書を見ているとオスマン帝国軍士官からもペテルブルグ号に重砲が積み込まれたという通報があったことが報告されており、トルコ側からも情報提供があったことがわかります。
黒海からは三隻がバルチック艦隊に合流したのみで、黒海艦隊の出撃はないとわかり、日本海軍はロシア艦隊は一つである前提で作戦をたてました。そして 翌、明治38年(1905年)5月、日本海海戦において連合艦隊はバルチック艦隊を撃滅しました。日露戦争後、時の外相、小村寿太郎は寅次郎の功績に対 し、銀七宝花瓶一組を感謝状とともに渡しています。
ロシアに苦しめられていたトルコ国民は日本の勝利に熱狂し、東郷平八郎将軍、乃木希典将軍にあやかってこの時期に生まれた子供にトーゴーやノギと命名す るのが流行しました。寅次郎がトルコの人々から絶大な祝福を受けたのは想像に難くありません。(『かつて日本は美しかった』より)