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6月5日から7日にかけてはミッドウエー海戦が行なわれた日

山口多聞中将
山口多聞中将

6月5日から7日にかけては、ミッドウエー海戦が行なわれた日です。
昭和17(1942)年のことです。

そこで今日は、ミッドウエー海戦にちなんで、この海戦でお亡くなりになった山口多聞(やまぐちたもん)中将のことその他を書いてみたいと思います。
山口多聞中将は、旧日本海軍でも「提督の中の提督」として、世界中のファンを魅了している人物です。

生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子です。れっきとした武家の家柄です。
多聞というのは、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名されています。

山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領でしたが、幕末時の藩主は松平家で、山口家は出雲松平家の家臣でした。

この出雲松平家というのは、江戸中期以降、全国の大名が年貢米に頼って藩の財政をひっ迫させた中で、唯一といっていいほど豊かだった藩でもあります。
なぜ豊かだったかというと、実は、タタラによる製鉄事業を藩の産業として育成し、同時に藩の財政を徹底的に改革していたのです。
おかげで寛政年間には八万両もの蓄財をしています。
つまり、非常に合理性を尊ぶ気風があった藩であったというわけです。

この出雲松平藩の合理主義は、幕末にも活かされています。
出雲松平藩は、徳川家の親藩です。ところがはやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の中立、独立を保ったのです。
こうした合理性、客観性を尊ぶ家風は、山口多聞の海軍兵学校生活で、さらに磨きがかけられました。

彼はいまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。
入学時の成績は、150人中21番です。
卒業時の成績は、144名中2番です。
同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎がいます。

旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
卒業時の成績が生涯ついてまわります。
戦後は、このことによる弊害ばかりが強調されていますが、当時の成績順というのは、もちろん単に学業の成績が良ければ事足りるというものではありません。
なにせ、ひとりの生徒に、教師が4人も5人もついて、徹底的に鍛え上げるというのが当時の兵学校です。
すべてを見極めた上で、序列が決められるのです。
ただガリ勉して学科試験の成績が良くなれば上位というものではありません。
栴檀は双葉より芳し。
その栴檀を、双葉から徹底的に鍛え上げていたからこそ、成績順が大事なものとして扱われたのです。

昨今では、日教組が平等教育をうたい、成績の公表すらしない学校が増えていますが、はき違えもいいとこです。
いいものはいい。悪いものはわるい。
能力には上下があるのです。
人として対等であるということと、能力の差異は、まったく別な議論です。
とくに軍隊は、実戦において無能な指揮官が上に立てば、部下は全滅します。
「誰もが平等」というわけにはいかないのです。
これは企業におけるビジネス戦争でも同じです。

日教組の「誰もが平等」なる思想の子供たちへの強要は、教育の名を借りて役立たずの社会人を育成している、それだけで反社会的行為です。

山口多聞は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属しました。
もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦でした。
そして軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向します。

船舶や陸戦は、水平運動です。
潜水艦は水平運動に垂直運動が加わります。
つまり動きが上下左右の三次元行動です。
潜水艦の専門であった山口多聞にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすい媒体であったのです。

山口多聞は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らしました。
彼は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしています。
ちなみに山本五十六はハーバート大学で学んでいます。
そして両者とも、駐米武官を経験した国際派です。
またたいへんな愛妻家、子煩悩家としても知られています。

もともと合理主義の家系に育った山口多聞が、海軍兵学校でその合理主義にさらに磨きをかけ、そして駐米武官として米国の大学で学んだのです。
その合理主義的頭脳に、いっそうの磨きがかかったであろうことは、容易に想像がつきます。

その山口多聞が、駐米武官として最も関心を抱いたのが、日米の国力の違いだったそうです。
なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。
日本は石油消費量の90%を輸入に頼り、しかもそのうちの70%を米国から輸入しています。
石油の備蓄量は、聯合艦隊の2年分だけです。
米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということです。
戦艦を建造するための鉄鋼産出量は、米国は日本の13倍です。

日本は資源輸入を米国に頼っていたのです。
その日本が、米国との関係を悪化させるということは、日本は「資源を失う」ということです。
当時、日本国内では、メディアがさかんに鬼畜米英などといって米国との開戦を煽っていましたが、これが現実なのです。

もし日本が米国と開戦するとなれば、日本は資源を南方の東南アジア諸国に求めざるを得なくなります。
開戦相手は米国だけでなく、東亜諸国を植民地として支配するオランダや、フランス、英国などとも戦争をしなければならなくなることを意味します。
しかも日本は国際連盟から委託された南方の島々の平和を守る責務を負っています。
つまり日本は、太平洋の島々から東南アジア諸国にまで戦線を拡大しなければならなくなるのです。

すでに、支那ではイクサがはじまっています。
これをさらに我が国が戦線を拡大するということは、我が国の国防力を分散させます。
国防力の分散は、すなわち国防力の弱化です。
ですから、米国の現状をつぶさに見聞した山口は、米内、山本らとともに、日米開戦に堂々と反対しています。

この時期、多くの日本の陸海軍人が、日米開戦に反対だったことは注目に値することです。
武人というのは、合理性を尊びます。
戦いは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるものだからです。
そして戦いに敗れることは、武人にとっては即、死を意味します。
死を恐れはしませんが、無駄死にになることは絶対に避けたいし、部下をそのような戦いに用いたくない。
それは、人して当然の思いです。

ところが文人は、能書きが先行します。
平和を維持しよう、戦いはいけない、などなどです。
客観性よりも思想が優先されるのです。
しかも権限に「死」という責任が伴いません。

シビリアン・コントロール(文民統制)なるものが、いかに「いかがわしい」ものであるかは、歴史が証明しています。
「武人は戦争を起こすから、文人が制御すべし」というけれど、私はそんなものは虚構にすぎないと思います。
むしろこのことは、権限と責任の問題として考えるべきことと思うからです。

明治維新で戊辰戦争を戦ったのは、武人たちです。
明治27年の日清戦争も、武人によって開戦が行なわれました。
ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止しようとしたのです。

この日清戦争が、国際的にみて「やむを得ない戦争」であったことは、歴史が証明しています。
けれど日清戦争は、国力からしたら数十倍の国力を持つ清国との戦いです。
日本は、からくも勝利し、ロシアの南下を阻止することに成功していました。
しかし日清戦争による戦果、すなわちロシアの南下をまるで無駄にして、あらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、文人たちの無責任です。

武人が多大な命を犠牲にして日露戦争に辛勝すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげく支那を蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて、支那事変に至らしめたものは、無責任な人道主義に基づく文人たちの「平和外交」です。

平和を愛する「文人統制」といえば聞こえは良いです。
しかし、責任を伴わない者に権限を与えることは、結果として国民が迷惑を被るのです。
そのことは歴史が証明しています。

さて、大東亜戦争開戦時、山口多聞は海軍少将で、第二航空戰隊司令官でした。
日米開戦が決定すると、山口は航空母艦「飛龍」に乗って、真珠湾攻撃に出撃しました。
日米避戦論者であっても、ひとたび開戦が決意されるや、命をかけて戦い、国家を護らなければならない。
それが軍人の使命です。

開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施しました。
この頃、山口は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されたそうです。
「丸」は、彼が太っていたからです。
「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。

山口は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていたし、大飯ぐらいで、体力も強かったそうです。
それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に一切の容赦などありません。
ほんのわずかなミスも許さない。
当然のことです。
150倍の国力を持つ米国と、さらに世界の85%を支配する白人国家全部を相手に日本は戦うのです。
頭が痛い、腹が痛いなどと、甘ったれは一切許さない。

ある日山口は、みなに聞こえるように、
「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、
ありゃいったいどんな感じのものなのかね」と言ったそうです。
訓練生たちにはこの言葉が相当ショックだったらしく、いまも語り草になっているのですが、山口多聞は本気だったのです。

山口多門に訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込んだとき、全員がびっくりしたそうです。
艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされていたのです。
居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれていました。
ドラム缶はむろん、一斗缶まで動員されて、ところ狭しと置いてあったのです。

山口が、船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げさせたのです。
そのため居住区まで重油の臭気が満ち、船の航行中は、船体のピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかったといいます。
それくらい大量の重油が積載されていました。

なぜでしょうか。
実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていました。
けれど両船とも航続距離が短かいのです。
これが第一の理由です。

平時なら油送船を一緒に連れていけばよいだけのことです。
然料が切れたら 洋上で補給すればいい。
けれど、真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動です。
連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定しています。

冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
しかも、のんびり航海していて、途中でどこかの国の船に発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。
要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのです。
そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになってしまいます。

ですから当初、軍令部(大本営海軍部)は、飛行機は他の空母に搭載して、この三艦は内地にとどめおくべし、と決定しました。
けれど、これを聞いた山口少将は、烈火のごとく怒り、即座に南雲中将に面会しました。
そして南雲中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくったのです。
結果、山口の強い抗議と要望で三空母が、作戦に参加することになりました。

なぜ山口は、ここまで航空機にこだわったのでしょうか。
彼は戦争が「艦隊主義」から「航空戦の時代」に変わったことを知っていたのです。
ここにも、先例主義でない、あくまで合理性を尊ぶ山口の個性があらわれています。

理由の第二は、山口の標的は、真珠湾だけでなかった、ということです。
真珠湾にいる米艦隊は、日本が攻めて来ることを予期し待機しています。
だからこそ米艦隊は日米の中間点である真珠湾に艦隊を配備したのです。
だからこそ日本海軍は真珠湾に向かったのです。

もっとも真珠湾で米艦隊が、あれだけの大きな被害を受けたのは、米国の予想をはるかに上回るものでした。
これは日本が真珠湾で、「航空機による浅瀬での魚雷攻撃」という新戦法を、世界で初めて実用化したからです。

真珠湾は浅い湾です。
浅いから敵潜水艦は入れません。
水雷艇がやってくるには、ハワイはあまりにも日本から距離がありすぎます。
ということは真珠湾は魚雷攻撃の心配がないのです。

ということは、米軍が注意を払わなければならないのは、日本の航空機による爆撃と、艦砲射撃だけとなります。
まだGPSによるピンポイントのミサイル射撃などなかった時代です。
揺れる海上から撃つ日本の艦砲射撃に対し、海面が静かで揺れない湾内と、陸上砲台から撃つ米軍の対艦攻撃の方が有利です。
加えて、戦闘態勢をとった戦艦は、絶対に航空機には破壊できないと、当時は考えられていたのです。
その航空機にさえ、多数の米戦闘機部隊を配備することで、十二分に対抗できる。

真珠湾攻撃が、米国にとって、米国の欧州戦線参戦に際して必要なことであり、あえて日本を真珠湾に誘い込もうとしたということは、近年、様々な米国の公開資料によって明らかになってきていることです。
けれども、ルーズベルトの予想と政治は、あくまで真珠湾基地に日本を誘い込み、日本に攻撃をさせながら、逆にこれを徹底して撃退し、米国の強さを世界にアピールするとともに、米国内の国民世論を開戦に向かわせようとするものだったのです。

ここは間違えてはいけないポイントです。
ルーズベルトは真珠湾を日本に晒し、攻撃を受けることを待ち受けましたが、そこで日本にやられるとは、まったく予期していなかったのです。

ところが日本は真珠湾で、米軍がまったく予期していなかった「航空機による魚雷攻撃」という、当時の世界の常識にはありえない前代未聞の戦法をとり、真珠湾の米海軍の艦船を全滅させました。
あり得ないことが起こったのです。

そしてそれが「ありえないこと」であったことは、戦後、まったく語られて来なかったことです。
なぜなら、「日本に攻撃をさせるだけで、絶対に壊滅することのない真珠湾」という所期の予定がくつがえされて、真珠湾が壊滅したことを掘り下げられると、米国と日本の開戦時の関係のもたらす意味が、まるで違うものになってしまうからです。

どういうことかというと、「日本に真珠湾を攻めさせて、その攻撃を米軍が跳ね返す」という予定が、「日本に真珠湾を攻撃されて、真珠湾基地が壊滅した」という結果を招いたことは、これは明らかなルーズベルトの失政ということになります。

そしてもっと大事なポイントは、この真珠湾攻撃において、日本は「航空機による戦艦の壊滅」という当時の常識では考えられないほどの戦果をあげながら、真珠湾における他の周辺施設、すなわち、石油の貯蔵施設や、爆弾などの収蔵施設、あるいは非武装の米兵たちがいる兵舎などに対して、一切の攻撃をしかけていないことです。

繰り返しになりますが、当時、「戦闘態勢をとる戦艦は、絶対に航空機では沈めることができない」というのが、世界の軍事の常識です。
その戦艦が、真珠湾にいるのです。
しかも日本の爆撃機を迎え撃つために十分な数の戦闘機が待機しています。

常識で考えたらわかるのですが、爆撃機というのは、重たい爆弾を腹にかかえていますから、空で軽快な行動をとることができません。速度も遅いし、小回りもきかない。
これに対し、戦闘機は、速度も速いし、小回りも利きます。
つまり、戦闘機からみたら、爆撃機というのは、撃ち落としのための格好のネタでしかなかったのです。

日本が真珠湾に攻撃をしかけてくるならば、それは日本の艦隊では、海上からの陸上への攻撃となりますから、陸上にたっぷりと防衛施設を持つ米軍が、圧倒的に有利です。
しかも戦艦は、戦闘機では沈めることはできず、やってくる爆撃機は、戦艦の持つ速射砲の餌食になる。
加えて日本の爆撃機は、米軍の戦闘機のネタです。

そうなれば、日本は、真珠湾の米艦隊へも攻撃をしかけるだろうけれど、いきおい、狙いは、真珠湾の基地施設、つまり石油の貯蔵庫や、爆弾などの兵器の貯蔵施設、あるいは米兵たちの兵舎になるであろうと予測がつくわけです。
従って、これに対する守りをきっちりと固めていれば、真珠湾が壊滅することはない。
むしろ、遠路はるばるやってくる日本軍の側が、ネタになるのです。

当時、真珠湾に米空母がいなかったことを問題視する人もいますが、ルーズベルトの目的は、日本を追い込んで日本に真珠湾を攻撃させることにあったわけです。
もし、そこに空母がいれば、米国は日本を攻撃に行く意思があったことになりますし、対空防衛力の弱い空母を、何も日本が来るとわかっている真珠湾においておく必要もなかったのです。あたりまえのことです。

そして日本の攻撃は、戦艦への攻撃は航空機では無理、日本の戦艦による艦砲射撃も当たらないとなれば、日本の攻撃は爆撃機による米軍兵舎や、補給施設に限られると予想できます。
そうであれば、米大統領府は「卑劣なジャップ」という印象を米国民に与えることができるし、その日本の攻撃を真珠湾で圧倒的な戦力で「防いだ」となれば、米軍への世間の評価は圧倒的なものとなり、欧州戦線への参戦も容易になるし、おそらく総力をあげてやってくるであろう日本海軍に大きなダメージを与えることで、東亜の攻略さえも容易になる。
それがルーズベルトの「もくろみ」です。

ところが、日本の攻撃は、意に反して、絶対に沈まないはずの米戦艦に向けられたものだったし、日本は真珠湾基地の米軍兵舎や補給施設には、まったく攻撃をしかけない。
しかけないどころが、圧倒的な戦いで真珠湾の米太平洋艦隊そのものを壊滅させただけで、悠々と引き揚げてしまいました。
ということは、日本には、米国を侵略する意思などまったくなく、誰がどうみても、日本はあくまで米国の日本への政治的干渉に対して、乾坤一擲の大槌をふるっただけ、ということになります。

国家の行う戦争というのは、ただ武力を行使するだけの暴力事件ではありません。
充分に計画された政治的問題解決のための手段です。
実際、日本の意思はまさにそこにあったわけです。

「日本に真珠湾を攻撃させて、これを完璧に防ぎきり、米軍の強さを世界にアピールし、返す刀で日本の海軍力に壊滅的打撃を与える」というルーズベルトの「もくろみ」は、完全に崩れました。
米国の真珠湾基地は、日本の艦隊に一発の報復もできることなく、またたく間に、壊滅してしまったのです。
しかもその攻撃は、米軍の「待ち構えていた」攻撃施設に対してだけ行われました。

つまり、真珠湾攻撃で、日本は、米国の対日強硬戦略という政治目的を粉砕したわけです。
そこに日本の真珠湾攻撃という政治目的があったし、そのことは日本の攻撃の仕方、引き揚げ方に明確に現れているわけです。

ようするに日本は、真珠湾攻撃を、あくまで政治目的達成のための手段と位置づけていたということが、ここに明確になります。
このことは、また項をあらためて詳述したいと思います。

一方、読みが外れて困りきったルーズベルトは、まったく異なるへ理屈を持ち出しました。
それが「リメンバー、パールハーバー」です。
「侵略されて反撃するのは正当な戦争行為」という、世界の常識を持ち出したのです。
つまり、これは後講釈です。

そして後講釈であるからこそ、米国は、あくまで対欧州戦線参戦のために、日本を追いつめただけであったのに、結果として太平洋側にまで大きな戦力を割かなければならなくなり、多数の米国人の命を犠牲にしています。
最近、米国内でも、こうした議論が行われるようになってきました。
このことは、おそらく戦後世界の体制を一変させるインパクトを持つものに育っていくことと思います。
真実は、嘘で覆い隠すことはできないのです。

山口多聞中将は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないから、真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すべきあるという立場をとっていました。
そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができない。

これはまったくの正論です。
戦争である以上、勝たなければならないのです。
そのために必要なことを、武人として、山口は堂々と主張し続けていたのです。

けれど、その山口案は、退けられてしまいました。
それでも山口は、情況次第では、そこまでの攻撃をしておく必要性有りとして、ところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。

山口多聞は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。
学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。

しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒る。
体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない。しかもその怒りに筋が通っている。

いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。
しかし、筋の通らないことに怒るのは、男子の美徳です。

さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。
山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。

当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。
六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。
そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせました。

時刻到来。空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。
十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちました。

そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。

待ちに待った電報でした。
このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、
「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。
これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。

米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。

********
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。
日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。
この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
********

実は、山口多聞は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。
真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。
このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。

山口は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。
しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。

双眼鏡を顔から離した山口多聞は、
「南雲さんはやらんだろうな」とつぶやいたといいます。

南雲大将は武人です。武はあくまで敵を懲らすものであり、むやみに戦線を拡大すべきものではないという、信念の人でもあります。
ですから真珠湾での徹底した破壊はしないで、むしろ日本の圧倒的な強さを見せつけ、あとは外交によって、和平の道を探る。そのための道を閉ざしてはならないと考えました。

日本は、真珠湾で米軍の施設を徹底破壊し、そのまま真珠湾を占領し、そこを拠点にして米本土への攻撃をしかけることもできたのです。
それだけの軍事力は日本にあったし、米本土が焦土となる事態となるならば、それは米国としても絶対に防がなければならない事態です。
それだけのことが「できる」ということをはっきりと示したうえで、外交によって問題の早期解決を図る。
真珠湾攻撃の時点における日本の国家としての狙いも、まさにそこにあったのです。

まさか、宣戦布告文書を、前の日の宴会の二日酔いで、モタモタとさぼって米国に日本の駐米大使が手交を遅らせるなどとは、誰も考えない。
堂々と宣戦布告文書を手渡し、その直後に、日本軍の襲来を意図的に待ち受けた真珠湾が壊滅したとの報告がはいれば、それだけで、日本の外務省は、堂々と米国に対して、和平をもちかけ、それ以上の戦争を抑止することができたはずなのです。

ところが、日本の駐米大使は、寝ぼけて宣戦布告文書の手交を遅らせました。
それによって、日本は、「だまし討ちだ」とそしられる外交上の隙をつくり、結果として長引く大戦へと引きずり込まれてしまったわけです。

宣戦布告文書というのは、国家間の戦争に必ず必要なものではありません。
むしろ宣戦布告などないままに、始まるのが戦争の一般的な姿です。
世界の歴史をみたらわかりますが、宣戦布告をしてから戦争が始まるのではなくて、宣戦布告が行われた時は、逆に戦争に至らないことの方が、世界における常識です。
宣戦布告があれば、その戦争をはじめないために、当事者両国が真剣に努力するからです。

もし日本が、米国と徹底戦争をするつもりならば、宣戦布告など、そもそも必要ありません。
事実上、米国の領土、了解をどんどん侵蝕していけば良いのです。
いまの支那が、東シナ海や南シナ海を侵蝕しているのと同じです。
米国の領土了解を、蚕食し、できるだけ前線基地を米本土に近づけて、米国への本土空襲を行い、米国政府を降伏させて、米国を日本の占領下におけば良いだけのことです。

ですから戦いの政治目的がそこにあるならば、日本は真珠湾の米軍基地を配給施設まで含めて徹底的に壊滅させ、真珠湾に上陸し、そこを占領し、ハワイを日本の占領下におさめ、そこを拠点として米国本土への攻撃を加える。
そこまでするのが、戦争というものです。
戦いに勝つには、そこまで徹底した攻撃が必要なのです。

ですから、戦いのプロとして、山口中将は、第二波、第三波の攻撃を進言しました。
けれど、最終的に彼も、南雲大将の指揮に従いました。
大将の意図することを、山口中将自身が、ちゃんとわかっていたからです。

日本は、古来、平和を愛する民です。
しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪う。
そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。

平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。
残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。
そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。

さて、開戦から半年後、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きました。
海戦に先立ち、山口は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。

********
ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。
そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、
空母を中心とする機動部隊を編成すべきである。
空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、
敵機の襲来に備え、
少なくとも三機動部隊を出撃させなければならない。
********

しかし、アリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となってしまっています。

ミッドウエー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しました。
進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。

船は魚雷でなくては沈みません。
しかし、山口は攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。
だからまず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張しました。

すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できないのです。
仮に出撃していたとしても、敵航空機は、最早着陸することができない。
敵航空機は、燃料切れとともに海に没するしかなくなるのです。

しかし、南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。

これが仇になりました。
初動対応を遅らせてしまったのです。
敵に先手を許してしまう結果となりました。

午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、聯合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまったのです。

7時10分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。
「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。

山口は、即座に第一次攻撃隊(艦爆18機、艦戦6)を発進させました。
このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。
「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。俺も後から行く」
すでにこの時点で、山口は死を決意していました。

第一次攻撃隊を発進させた山口は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」を単独で爆走させました。
米空母をめざしたのです。
そして進撃しながら、艦隊司令部に「各損害空母には駆逐艦一を付け、主力部隊の方向 に向かわしめられたく」と要請しました。
この時点で、これは要請とというより命令です。
部下が上司に命令した。

カタチはどうあれ、この時点でもはや他に選択肢はないのです。
生き残った聯合艦隊は、飛龍のあとを追います。

9時10分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を発見しました。
敵空母からは、猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させた。

10時30分、山口の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機10、 艦戦6を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容します。
このとき生還できた機は、発進した24機中、わずか6機でした。
いかに激戦であったかがわかります。

11時45分、第二時攻撃隊が敵空母に到達します。
そして日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮して、魚雷2本を命中させます。

山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた、残りは空母一隻と判断します。

けれど実際には、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、最初に爆撃を成功させた空母「ヨークタウン」だったのです。
つまり、米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷でした。

12時20分、山口は、司令官、第三次攻撃の実施を、夕方に延期することを決定します。
第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついてしまっていたのです。
乗員の疲労も極限に達していました。

午後2時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機13機が飛来します。
敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきた。

このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦といわれています。
「敵機来襲!」と絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、敵の爆弾をなんと7発まで躱(かわ)してしまったのです。
しかしそこまでででした。
見張員が叫び声をあげたのが2時1分、そして2分後には4発の爆弾が、「飛龍」に続けざまに命中したのです。

最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たりました。
昇降機をひきちぎって、空高く放り上げました。
そして舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突します。
艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそぎました。

このため「飛龍」は、一時的に操艦不能になります。
しかしエンジンは動いている。
機関部にいた船員たちは、次々と爆弾が着弾する中、必死の努力でエンジンを回し続けたのです。

「飛龍」は、走りつづけます。
しかし、機関部に海水が流れ込む。
船員たちは、油まみれになって必死の努力で海水を掻い出すのだけれど、日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止してしまいます。

海面が静かな月光に照らされていました。
海上は、夕凪で、波ひとつない静けさです。
その洋上を、「飛龍」が漂う。

浸水がはじまり、艦が左に傾き始めます。
深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、
「残念ながら、飛龍の運命もこれまでと思います。総員退去の許可を求めます」と申し出ます。

山口と加来大佐は、二人揃って、黙って飛行甲板の左舷部に降りました。
そこはまだ火の手が回っていなかったのです。

そこに、汗と煤煙に汚れた800名の乗組員たちがいました。
彼ら乗組員たちは、山口と加来を取り巻きます。

このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。

********
月のせいで、そんなに暗くなかった。
艦は30度くらい傾いていたのではなかったか。
山口司令官の訣別の訓示は、
「皆のお陰で、他の三空母(赤城、加賀、蒼龍)の分もやった。
敵空母二隻と巡洋艦一隻をやつけた
(と、我々はそのときそう信じていた)
どうもありがとう。
しかし飛龍をみて分かるとおり
内地に帰還するだけの力ははすでにない。
艦長と自分は、 飛龍とともに沈んで責任をとる。
戦争はこれからだ。
皆生き残って、より強い海軍を作ってもらいたい」
と訓示した。
********

その場にいあわせた生存者全員が泣いたそうです。
日本男子は、声をあげて泣くことをしません。
人間、ほんんとうに辛いとき、声など出して泣かないものです。
みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロとながしました。
みんなが泣いていました。

そしてみんなで、日本の方向を向いて、山口長官の音頭で万歳をとなえました。
「飛龍」に高らかに掲げられていた軍艦旗と将旗を降ろしました。
退艦儀式を手順どおり進ませました。

主計兵曹がまず、御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶり先頭にたちました。
そして、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦しました。
日本の駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出してくれました。

そのときです。
山口を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、
「司令官!」
と大きな涙声で呼んだのです。

「何か頂く物はございませんか」
山口多聞はふり向き、こんなときでもニヤリと笑ったそうです。

「これでも家族に届けてもらうか」
そう言って頭にかぶっていた黒の戦闘帽を脱きました。

伊藤中佐が受け取りました。
山口は「それをくれ」と、彼が腰に下げていた手ぬぐいを指さしました。

空母が沈むとき浮き上がらぬよう、自分の体をどこかにくくりつけるつもりだったのでしょう。
でも本当は、みんながいなくなったあとに、涙をぬぐう手ぬぐいがほしかったのかもしれません。

日付が変わった6日午前2時、白煙を上げながら漂う「飛龍」に、駆逐艦「巻雲」から二本の魚雷が発射されました。

戦後、ハーマン・ウォークという作家が、「リメンバランス・オブ・ウォー」という本を書いています。
彼はこの本の中で、次のように書いています。

********
ミッドウェー海戦で米国太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、
海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、
陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。
そのため、ヨーロッパや、北アフリカでイギリスを助ける力が弱まり、
(中略)
イギリスは絶体絶命となり、
ヒトラーがヨーロッパの勝者になった可能性が高くなったであろう。
********

ミッドウエー海戦は、なるほど日本の負けに終わったけれど、戦いはまさに伯仲の戦いだったのです。
もし、このとき日本が先に米海軍の機動部隊を発見していたら、海戦は日本の勝利に終わっていました。
戦闘が始まったとき、もし日本が陸上用爆弾を搭載したまま、敵空母を叩いていたら、日本が海戦に勝利していたことでしょう。

いやそれ以前に、もし日本が、真珠湾で米国のハワイ軍事基地を補給基地ごと叩き、さらに敵空母を壊滅させていたら、ミッドウエーは日本の完全勝利に終わったことでしょう。
ミッドウエーは、それほどまでに伯仲した戦いだったのです。
山口多聞は、当時もいまもこれからも、世界の海軍史上に名を残す名提督です。

享年49歳。
そんな提督がいた帝国海軍を、私はとても誇りに思います。

ところで戦後に秘匿された歴史の真実のひとつに、実はこの戦いで、米軍の哨戒機を、日本の哨戒機が先に発見していたという事実があります。
米軍の哨戒機が飛んでいるということは、近くに空母がいる、米艦隊がいる、ということです。
そのことをすぐに日本の哨戒機が、ちゃんと通報していたら、その時点で日本は先に戦闘配備を済ませ、ミッドウエーに100%の確率で勝利していたであろうといわれています。

ところが歴史はそうは動きませんでした。
米軍哨戒機を発見した日本機のパイロットは、その発見の報告を握りつぶしてしまったのです。
戦後、そのときのパイロットは、名前を変え、航空自衛隊の幹部になりました。
それを見つけたある元パイロットが、本人の胸ぐらをつかんで問いただし、事実が明らかになりました。

なぜ、そのときの日本のパイロットは、報告を握りつぶしたのでしょう。
彼は、帰隊したあと、米軍の哨戒機を見つけながら、それを撃ち落とさなかったことで責任を問われることが怖かった、と白状してのだそうです。
しかしそのために、多くの日本兵が犠牲になりました。
そしてミッドウエーの敗戦によって、日本は制海権を失い、大東亜の敗戦に至っています。

ときどき思うのです。
真珠湾でもし、日本が米軍の施設の徹底した破壊を行い、そのまま真珠湾に上陸してそこを占領していたら、その後の歴史はどう変わっていたのだろうかと。
もし、ミッドウエーで、そのパイロットが、勇気をもって早期の報告をし、日本がミッドウエーに勝っていたら、その後の歴史はどのように変化していったのだろうか。などなどです。

神々のご意思は、人の身では計り知れないものです。
ただ、よく言われることですが、戦前の日本はたしかにいっぱい良いところがあったし、とてもつもなく強かったけれど、どこかで日本が、あるいは多数、もしくはほんのひとにぎりの日本人に、謙虚さを欠き、他の諸国の人々を見下す弊はなかったといいきれるだろうか、ということです。

民族ごとに違いはあります。その違いを明確に区別し、よくない者たちに対して、一定の警戒をすることは当然のことであると思います。
けれど、警戒と蔑視は異なるものです。

いまわたしたちは、お隣の国を見て、夜郎自大になっている姿に、辟易しています。
日本が同じようになることなど、おそらく日本人なら思いもよらないと思います。
日本は、武の国ではありません。
どこまでも和と結いの国です。

逆にいえば、先の大戦の敗戦、そして占領、高度経済と20年の沈滞という、様々な経験を経て、またかつて植民地支配を受け、教育さえも奪われていた世界の様々な国が、戦後に自立独立を果たし、誰もが一定の教育を受けることができるようになってきたいまようやく、日本は、本当の意味で世界から対立や闘争をなくす、世界の民衆にとっての素晴らしい世界を提示できるスタートラインに立つことができるようになったといえるのではないでしょうか。

そして、そういう新しい世界を提案していくのは、日本人であるわたしたちの両肩にすべてがかかっているということなのかもしれません。

《 米国は中共とは戦わない。この考えは120年前から一貫している。》

日清戦争で日本に敗れた清朝は、その弱体化を世界に露呈する事となった。すると欧州列強は、早速 支那分割に乗り出した。そんな中、広大な領土を持つ米国はその内部統治に追われて列強の支那分割競争に乗り遅れ、1899年、米国務長官ジョン・ヘイが支那に関して、「門戸開放・機会均等・領土保全」の三原則を支那に進出している欧州列強に対して示した。

これが有名な『ジョン・ヘイの三原則』である。要は貿易活動に於いて、支那市場に割り込む事、飽くまでも米国の目的は商売であった。当時から米国は一貫して〈支那〉に対して大いなる幻想を抱き続けている。凡そ70年前も米国は日本に対しては冷淡で敵視するが、支那に対してはいつも寛大であった。

嘗ての日本人は常に真っ直ぐで、有色人種差別を不条理で許されざる事であると思えば、パリ講和会議の国際連盟委員会に於いて、人種差別の撤廃を明記するべきだと堂々と主張した。これは、大英帝国の自治領であったオーストラリアや米国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソン米国大統領の裁定で否決されたが、国際会議に於いて「人種差別撤廃」を明確に主張した国は日本が世界初である。これは歴史上、世界に誇れる正義感に満ちた行動であるが、戦略的には実直に過ぎた。

白人国家にしてみれば、こういう日本人の言動が癇に障ったのであろう。支那人というのは良く言えば〈戦略的〉で、何をどう話せば相手はどう考えるかを熟慮して行動する。悪く言えば〈常に腹に一物を持って〉行動する。大東亜戦争に至る数年間の蒋介石とその妻、宋美齢 姉妹の行動は正に米国を取り込む為の見事な戦略的行動であった。日本は知らぬ間に米国を敵に回していたのである。

1937年の日中戦争では、当時支那や満州国で日本との利益対立を深めていた米国からの軍事援助の獲得を中華民国総統の蒋介石は目指した。蒋介石夫人 宋美齢は「国民党航空委員会秘書長」の肩書で、蒋介石の「通訳」として、米国側との交渉に同席し、米国からの有形無形の軍事援助を引き出した。宋美齢は、日中戦争中から大東亜戦争の初頭にかけて日本軍と対峙した「アメリカ合衆国義勇軍(フライング・タイガース)」の設立や、日本軍とは比べ物にならないほど遅れていた中華民国 空軍の近代化に大きく貢献した。宋美齢が引き出した米国の対蒋援助は、武器貸与法制定に始まり、1億7000万ドルの支援にまで及んだ。

『タイム』や『ライフ』の発行者であるヘンリー・ルースは、日中戦争の間を通じて反日キャンペーンと共に対中支援キャンペーンを行ない、『タイム』の1937年度「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に日中戦争を戦う蒋介石を選び、誌上でアメリカ市民に対中支援を訴えるなど、宋美齢に協力を惜しまなかった。

米国は日本に対して、死活的なABCD包囲網を仕掛け、戦争の終盤では、ただならぬ残虐な作戦をそれこそ無慈悲に数多く決行して勝利した。WW2後、ヨーロッパは東西対立で冷戦を迎えていた。一方アジアでも、支那大陸、朝鮮半島、ベトナムで対立した結果それぞれで分断国家が誕生。支那大陸では日中戦争の時期に中国国民党と中国共産党とが共同戦線を張ったが、日本の敗戦で日本軍が去った後に国共内戦が始まり、やがて共産党が勝利して1949年10月1日に成立した中華人民共和国と、台湾侵略で生き延びた中華民国の2つの中国が存在する事となった。

中共はソ連を筆頭にした共産主義陣営に属し、中華民国は米国を筆頭とする自由主義陣営に属して、多くの国は中華民国は承認するが中華人民共和国は承認しない状態が続き、中共は米国と冷戦を背景に対峙する関係にあった。特に1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争では、中国人民志願軍(抗美援朝義勇軍)を米軍と韓国軍を主体とした国連軍相手に派遣した戦争の相手国であった。併し、米国は支那に対しては日本に対するような残虐な作戦の実行は控えた。

1972年2月21日に米国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問し、毛沢東共産党主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換してWW2後の冷戦時代の転機となった。世に言うニクソンショックである。

ニクソン米大統領の訪中の準備の為、当時のキッシンジャー大統領補佐官が、1971年10月に周恩来中共首相と行なった会談の会談録が明らかになっている。双方は「日本人の視野は狭い」などと一致、米中の関係改善の背景に対日不信感があった事が裏付けられた。

会談録は日本の経済発展や再軍備の懸念で歩み寄り、米側が「日本について(米中は)同方向の利害を持つ」と明言するなど、対日警戒感を共有した事も浮き彫りにしている。会談は4時間余りに亘り、その4分の1が日本について費やされた。周首相は「日本はWW2の賠償も払わず戦争から利益を得た」と批判、キ補佐官は「日本には全く幻想を持たない」と応じた。

周恩来首相は更に「経済拡大は軍事拡大に繋がる」と強い懸念を表明し「日本を今の状態に太らせた」と米国を批判。キッシンジャー補佐官は「日本を経済的に発展させた事を今は後悔している」と語った。また、日本人への評価としては、キ補佐官が「中共は普遍的な視野があるが、日本は部族的な視野しかない」と述べると、周首相は「ものの見方が狭くとても変わっている」と評価が一致。更にキ補佐官は「日本人は他の国民がどう感じるかの感受性がない」と指摘した。

キッシンジャー補佐官は、日本が大規模な再軍備に走る事態になれば「伝統的な米中関係が再びものを言う」と言明し、米中による日本封じ込めも示唆。米国による日本への核の傘については「日本の為に使う可能性は少ない」と述べている。日本には核武装させない事と、日本の為に米国の核は使わないとの密約が成されたのである。今から45年も前に交わされたこの密約は現在に至るも厳然と生きている事を、日本人は肝に銘じるべきである。

今、南支那海では中共が覇権主義を剥き出して人工島に軍事施設まで建設しているが、米国は手を拱いている。米国の腰の引けた「航行の自由作戦」後も、中共はレーダー施設、ミサイル施設を建設しているが、米国は口頭では文句を言うものの、行動は起こさない。

キッシンジャー、スコウクロフト、ブレジンスキーの3氏は、2010年の段階で「中共と戦争するには遅すぎた。既に手遅れである。」と語っている。現代の大国間の戦争は、「宇宙戦」と「サイバー戦」が雌雄を決する。2011年に米中戦争をシュミレーションした結果、瞬時に米国の水道網も鉄道網もその他諸々全てダウンするという、米国には受け容れ難いものであった。

だから、誰が大統領に就任しようとも米国は中共とは本格的には戦わない。南支那海・西太平洋に限って言えば、投入できる軍事費は米国よりも中共の方が上である。過去からの蓄積された装備で勝っているとは言え、5年後に笑うのは中共である。米国にはそれが分かっているからこそ、中共を刺激しないように細心の注意を払っている。米国の富裕層のトップ0.1%は中共との取引でキャピタルゲインの50%以上を獲得し続けている。

日本は米国の行動予測を誤ってはいけない。我が国を護るのは我が国だけであるとの現実に立って、最低でも200発の報復核で武装しなければ抑止効果は持てない。それに米国は必ず反対し、経済制裁を掛けてくる可能性が高い。それに耐え得る国づくりを急げ。少なくとも穀物自給率だけはカロリーベースで100%を達成しなければならない。歴史に学び『先を読む政治力』が今ほど問われている時は無い。

《 日本は独自に核武装するしか生き延びる道は無い。大東亜戦争前の国際状況から学ぶべき事は多い。米国のような国からの経済制裁に耐え得る国造りを目指すしか無いと、為政者は「歴史から学ぶべき」である。》

米国大統領候補の党指名は共和党はドナルド・トランプ候補で決まりで、民主党はヒラリー・クリントン候補で決まりのようだ。最終的にどちらの候補が大統領に選出されても、米国は日本にとって厳しい政策をとってくる事が予想される。何れも米国は内向きの政策をとる事が予想されるし、ヒラリー氏は夫がアーカンソー州知事時代から中共から多額の賄賂を受け取っている事は有名であり、トランプ氏はそもそも政治家としての資質が疑問視されている。

トランプ氏は誰からの献金も当てにしないで自分のカネで選挙運動をしていると豪語して、クリントン氏とは違ってしがらみが無いと言っているが、それは嘘である。トランプ氏にもちゃんとウォールストリートのユダヤ人、カール・アイカン氏が多額のカネを出している。そして今度は予備選始まって以来の資金集めパーティをするという。勝ち馬に乗ろうとするウォールストリートの欲張りどもが莫大な金を出すだろう。

だから何れの候補が大統領に選出されようとも、ウォールストリートの傀儡となる事は目に見えている。…という事は商売相手の上得意、中共とは争わない。オバマ大統領も平和主義者を演じながらも、シリア空爆などを実行して、軍需産業に利益を齎し、大統領選挙資金の借りはきちんと返している。米国大統領とはそれが本業のようなものなのである。

また、トランプ氏は日韓に核武装させろなどと暴言を吐いているが、韓国に核武装させる可能性はあるにしても、日本に核武装させる可能性は0%である。絶対に無い。彼は〈世界の支配層〉の思惑についてただ無知なだけである。だから日本が核武装を政策の選択肢に加える為には、米国や中共の経済制裁に耐え得る万一に備えた国策が必要なのである。

1941年8月9日から12日にニューファンドランド沖の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ上で行なわれた大西洋会談に於いて、米合衆国大統領のフランクリン・ルーズベルトと、イギリス首相のウィンストン・チャーチルによって調印された大西洋憲章は、大東亜戦争開戦の4箇月も前であり、合衆国はまだ枢軸国に対して宣戦布告すらしていなかったが、この憲章は戦後の世界構想を述べたものであった。

8項目からなるその内容は要約すると以下の通りである。

1)合衆国と英国の領土拡大意図の否定
2)領土変更における関係国の人民の意思の尊重
3)政府形態を選択する人民の権利
4)自由貿易の拡大
5)経済協力の発展
6)恐怖と欠乏からの自由の必要性(労働基準、経済的向上及び社会保障の確保)
7)航海の自由の必要性
8)一般的安全保障の為の仕組みの必要性

憲章の第3条については、ルーズベルトとチャーチルの間で見解の相違があった。ルーズベルトがこの条項が世界各地に適用されると考えたのに対し、チャーチルはナチス・ドイツ占領下のヨーロッパに限定されると考えた。つまり、英国はアジア・アフリカの植民地にこの原則が適用されるのを拒んでいた。

ルーズベルトも結果的には後に、「大西洋憲章は有色人種の為のものではない。ドイツに主権を奪われた東欧白人国家について述べたものだ」と側近に語ったという。この憲章に対して「植民地支配の否定と有色人種に対する人種差別撤廃」を掲げ、日本が提唱したのが「大東亜共同宣言」である。

ルーズベルトとチャーチルの二人は日本に対して酷く憤りを募らせ、ここで米英両首脳は、〈敗戦後の日本は永久に武装解除する〉取り決めをした。これは翌年に開かれたルーズベルトとソ連のモロトフ外相との会談でも確認されている。そして米ニクソン大統領と中共の周恩来首相も〈日本の永久的武装解除〉で意を同じくした。これは現在も厳然と生きている戦勝国側の鉄則である。

日本ほどでは無いにしても、同じ敗戦国、ドイツも同様な扱いを受けている。アイゼンハワー大統領の時代、米国はドイツをNATOに加盟させ、ソ連と対抗させる為に再軍備を許し、しきりに軍備増強を迫った。経済的に疲弊していた独アデナウアーは、軍事費を抑える為に20発ほどの戦術核を持たせてくれとアイゼンハワーに訴えた。すると1959年、アデナウアーの威信は急激に低下し始め、この年、連邦大統領を2期務めたアデナウアーは引退した。裏で次期大統領になるジョン・F・ケネディがCIAを動かしたとの噂が専らである。

米国を始めとした主要国は、日本の自主防衛(核武装)を絶対に許さない。オバマ政権も、日本の安倍首相が嘗ての重光葵、石橋湛山のような自主防衛論者で且つ歴史修正主義者であると警戒していた。「戦後レジームからの脱却」とは(良い意味で当然の)歴史修正主義そのものであったのだから。

併し、安倍首相は河野談話、村山談話を受け継ぎ「戦後70年談話」で謝罪して、見事に『東京裁判史観』を体現して見せた。その結果がご褒美としての「米国両院合同の議会演説」での謝罪を含む演説であり、「日韓合意」での謝罪である。歴史修正主義者のレッテルを見事に剥がし、米国のポチである事を高らかに宣言したのである。日本の総理大臣の生きる道は、これしか無いのだろうか?

本当にこれで良いのだろうか?日米安保に縋(すが)っていれば日本は安泰なのだろうか?日本を狙う中共への防備は将来に亘って担保されているのだろうか?大いに疑問である。米国の軍事費は年間約6500億ドルと突出して世界一であるが、1500億ドルは、アフガニスタン、シリア、イエメンなどに消えて行く。残り5000億ドルの内6割も中東に費やされる。南支那海と西太平洋には2000億ドルしか軍事費を掛けられない。

一方、中共の軍事費は公称1700億ドルであり毎年二桁の伸びを緩めない。併し、発表数字が当てにならない上、ミサイル・核・軍事衛星・サイバーなどは含まれていない。現代の戦争は、軍事衛星の無力化とサイバー戦で初動し、殆んどこの2分野で雌雄が決する。これらの費用を加算すると、中共は米国に対して南支那海・西太平洋で2700億ドルという、米国を上回る軍事費を投入できる事になる。

勿論、戦艦や潜水艦・戦闘機などは過去からの蓄積があるから、これを以って中共優位とは断じられないが、中共という国は30年、50年、場合によっては100年先を見て戦略を立てる国である。この点に於いて現代日本は完全に支那人より劣っている。巷の書店やYouTubeなどでは中共破綻の話題で専らだが、国というものはそう簡単には潰れない事は先日 述べた通りである。中共経済の低迷は何れ回復する。日本は、そう覚悟しておいた方が良い。戦略とは常に最悪を想定して立てておくべきものだ。

日本を取り巻く国際環境を考慮すれば、何れ〈核武装は必ず必要になる〉→すると米国などから〈経済制裁される危険性が高まる〉→その時の為に〈穀物食料自給率とエネルギー自給率だけは確保しておく〉…我が国は、こういう最悪の長期戦略が全く描けていない。日本の平成26年度の食料自給率はカロリーベースで僅か39%である。いざという時、国民が飢えないように手を打っておくのが政府の責任である。仮にこのままTPPに加盟するにしても「穀物だけは自給体制を整えておく」べきではないか?

米国は穀物が戦略物資である事を知っているから農家には税金を投入してでも100%以上の生産体制を課している。ロシア然り。英国やフランス、オランダは植民地からの収奪を絶たれて、一度国民が飢えているから、穀物農家は国からふんだんに補助金を貰って存在し続けている。補助金とはまるで公務員の給料である。賢い国は皆そうしているのに、日本だけは、いざ経済制裁を受ければ半年ともたずに国民は飢えてしまう。愚かな為政者を担ぎ上げた愚かな国民の自業自得である、などと諦める訳にはいかない。

自主防衛可能な国は世界で米国一国だけだなどというのは嘘っぱちである。仮に日本が200発の核を保有すれば、米国・ロシア・中共の核大国と雖(いえど)も日本には指一本触れられない。核兵器は決して先に使わない。日本の核は報復の為にだけ存在を許す。200発の報復核は日本国を護る為の必須要素である。そういう防備を固めた上でしか、平和国家・日本の未来の安泰は無い。オバマ大統領の広島訪問を、世界から決して無くなる事の無い「核」について日本人が再考する良い機会としたい。幼稚な護憲派には絶対に理解できない真理であり、親米保守・拝米右翼も理解しようとしない現実的思考である。

《 恐らく終結しないであろう「慰安婦問題」については、自国や他国を貶めるのではなく、「真実の歴史」こそが一番重要である。》

日本の韓国併合時代に関して、韓国の様々な資料や、韓国々史教科書を見ると、共通点がある事に気付く。それは反日プロパガンダ特有の刺激的な単語の使用である。

両班と奴婢に代表される朝鮮の身分制度解放については『日本の植民地奴隷化政策』と表現し、近代的所有の概念が皆無だった朝鮮の地を土地調査事業として土地の所有関係を整理再編した事は『日帝の土地収奪』と表現する。また、治山治水事業や灌漑技術の導入によりコメの生産量を飛躍的に増加させた食料増産計画は『日帝の韓国食料供給地化と食糧収奪』とし、識字率を上昇させる為の朝鮮語・日本語併記の教科書導入と小学校の増設は『朝鮮語抹殺政策』と言う。

そもそもハングルを普及させたのは日本人だったという事実は完全に無視している。そして病院建設と近代医療の導入により寿命を飛躍的に延ばし、主食であるコメの増産により35年で人口が倍増した事実には目も向けない。

普通の表現では訴求力が足りない為、「奴隷」「収奪」「抹殺」などの刺激的な表現が好んで使われている。事実とは異なる妄想を捏造した為、辻褄の合わない内容が頻発しても韓国人は一向に意に介さない。

朝鮮語抹殺政策が実施(1931~1945年)されたと言うが、1943年の調査の結果、日本語の解釈、会話可能な朝鮮人は全人口の約20%であり、朝鮮語を抹殺して日本語を強制する事自体が不可能であった。(朝鮮事情1940~1944年版)

そして、この手の反日プロパガンダの花形が、日本人が言い出した慰安婦問題である。女性の性という最も恥辱的な事柄に焦点を当てる事で、韓国々民と国際社会に強い衝撃を与える事ができた。昨年末の「慰安婦合意」では、〈日本が一方的に悪かった〉という事で、日本は「慰安婦問題の終結を図った」が、「慰安婦問題」は何度でも蒸し返されるだろう。

朝鮮の女性たちは、朝鮮に根強く残っていた男尊女卑の影響で、男にはない差別を受けてきた。庶民の女性たちは、結婚すれば農作業をして子供を産むだけの、もしくは夫を満足させる為だけの扱いを受けてきた。また、支那人や朝鮮人の女衒(ぜげん)に物を売るようにして売られる事もあった。勿論、女衒の中には日本人も居た。そういう時代であったのだ。

女性の人権が皆無であった朝鮮時代に比べ、日本統治時代は、女性も男性のように就職できるようになり、過去には想像もできなかった、自由を味わう事もできるようになった。併し、このような多くの変化があった時代には、それを逆手に取って悪事を企む朝鮮人らも現れた。

慰安婦募集当時、大日本帝国軍兵士の月給は7~11円(二等兵から伍長)であった。これに対し、慰安婦の収入は、月給制の場合は30円程度。因みに、慰安婦の利用料金は、兵士の階級に応じて差があったが、将校以外の兵士の場合、1~2円程度だった。

慰安婦は2年の年季が明けた頃には平均300円以上の預金を貯め、これは当時の豊かな家の子息だけが通う事のできた中学校卒業者の初任給40円と比べても大きな魅力であった。そして多くの慰安婦は年季明け後も慰安婦を続けて貯蓄に励んだ。ある慰安婦は3500円という巨額の預金をしたという記録がある。

朝鮮人女衒たちは、慰安婦募集が絶好の金儲けのチャンスと見るや、女性の両親を脅迫したり、相場以下の値段で女性を買うか、または上述した朝鮮女性の境遇や認識の変化を逆手に取り、「女であっても、自ら働いて家族を助けよう」「堂々と自立して生きよう」などと口車に乗せて誘い出し、売春である事を伏せて女性たちを集めて、慰安婦として送り出した。

この近代版奴隷商人の総本山である慰安婦募集業者(女衒)は、同胞である朝鮮人が圧倒的多数だった。(韓国慰安婦証言集調査結果:韓国人の募集者に募集された女性30%、日本人募集者に募集された女性16%=民族とフェミニズム・2003年出版)

結論的には、「韓国人慰安婦問題」は、大日本帝国軍が高給で募集した『売春婦』を、〈日本の官憲が組織的かつ強制的に動員した性の奴隷〉と歪曲・捏造して批判したものであり、その売春の仲介をした女衒については、多数の朝鮮人が関与していたというのが実相である。

このような実相は、米国政府は、問題になる前から正確に把握していた。然るに何故、同盟国 米国政府は日韓間のこの醜い諍いを静観していたのであろうか?一つには日韓間に火種を燻らせておく事が、米国の影響力を行使し易いという、所謂 分割統治法を採用していたという事であるが、米国自身が脛に傷を持つ身であり、下手に口出ししては藪蛇になるという事情もあった。

〈韓国人米軍慰安婦〉の問題は、元慰安婦の訴訟問題で明るみに出はしたが、韓国政府と韓国社会が徹底的に黙殺する事で歩調を合わせた事により、大事には至っていない。こういった米軍の意図的不始末に口を噤むのは日韓両国に共通して見られる姿勢である。

私は、日本政府がこういった米国の恥部とも言える事象を殊更取り上げる必要は無いと考えるが、民間の近現代史研究者や所謂 識者までが、実際にあった事を無かった事のように口を噤むのは如何なものかと考える。日米関係は重要であるが、民間の研究者は、同盟国の恥部であろうと「真実」は「真実」として常に問題提起し、歴史を正していく姿勢が必要である。

ここで敗戦後の日本に於いて、勝者である米国がどのように振る舞ったかを一例だけ挙げておく。史実を問題視し歴史を正していくか、無かった事と無視するかの判断は、歴史研究者・日本国民に委ねるしかない。

敗戦直後、米国の先遣隊が神奈川県の厚木に到着したのは8月28日であるが、8月30日から9月10日迄の12日間に、神奈川県のみで1336件の米軍兵士による「強姦輪姦」事件が発生している。1日110件以上という異常な多さである。〈米兵による同様な事件は占領中に20万件を超えたのではないかと推計〉される。(「敗者の贈り物」ドウス昌代 講談社、「国家売春命令物語」小林大治郎・村瀬明 雄山閣)

こういう問題に対処する必要があって、国策により日本国内に「性的 慰安施設」がつくられたが、これは日本の国策以前に「米占領軍の要請」という名の「命令」でもあった。日本の教科書は「旧日本軍の慰安婦問題の記述」には甚だ熱心であるが、日本国内に存在した「米占領軍御用達の性的慰安施設」には全く興味を示さないのは何故であろうか?

こういった問題は、過去の彼方に無かった事として忘れ去られてしまって良いものであろうか?日本国民はこの事実を以って米国に謝罪や賠償を求めるほど愚かな恥知らずでない事は確信しているが、こういった事実は「史実」として次代に伝えていくべきではないだろうか?

《 日本に悪い影響力を及ぼし、反日教育を続け、国際社会で日本を貶め続ける韓国には「村八分」が相応しい。》

日本は韓国に対して、本当にこのまま友好姿勢をとり続けていて良いのだろうか?日本を妬み、憎み、自国民に嘘の反日教育を施し、国際社会にも絶え間なく日本を貶める工作をしている国家、韓国と交流するメリットが日本にあるとはとても思えない。

今から凡そ120年以上前から、日本は朝鮮人に振り回されてきた。朝鮮の〈金弘集政権が日本に対して牙山の清軍掃討を依頼してきた〉事が引鉄となって「日清戦争」は勃発した。朝鮮の宗主国 清を日本が打ち負かした事で、朝鮮は晴れて独立国となり大韓帝国を名乗れる様にった。その後、大韓帝国からの度重なる日韓併合の懇願が続き、日本は4回目の日韓併合の懇願に応じた。今の韓国はこれを日帝の植民地支配と呼び、日本の小学校教科書にも「日本が武力で朝鮮を植民地にした」と書いてある。

当時の大韓帝国は国の体を成して居らず、清・ロシア・日本の助けを借りるしか国民が生き残る道は無く、朝鮮人自身が当時 最も先進的で力強い国家と見做した日本を選んだのである。日本人は引き受けた以上は、損得勘定は一切無視して朝鮮の改革に邁進した。大東亜戦争で日本が敗れるまでの35年間に朝鮮で上げた日本の功績は、当時の英米を始め世界が認めるところである。

日本(朝鮮を含む)の敗戦により、日本と朝鮮半島はそれぞれ米国GHQによる統治を受けた。朝鮮半島は日本より4年余り前に米国から独立し、大韓民国となった。大韓民国の初代大統領 李承晩は、日本が国際社会に復帰(独立)する直前の混乱に乗じて「李承晩ライン」を一方的に主張し、「竹島」を武力で強奪した。この実力行使に先立って、韓国は米国に対して度々竹島領有を主張したが、米国からは〈韓国には竹島領有の根拠無し、竹島は日本の領土である〉と退けられていた。

李承晩ライン廃止までの日本人拉致漁民数・拿捕された船の数および死傷者数は以下の通りである。
日本人拉致漁民数:3929人
拿捕された船の数:328隻
死傷者数:44人

韓国の卑劣なところは、日本人拉致漁民を人質に取って、日韓基本条約の交渉を有利に進めた事である。人質の解放と、日本の刑務所に居る700人以上の朝鮮人犯罪者の釈放を条件に、日韓基本条約の交渉は進められた。これはテロリストと交渉する様なものであった。更に、韓国は自ら懇願して実現した日韓併合を、日本が武力により朝鮮を植民地支配したとして、謝罪と共に莫大な金額の賠償金を要求してきた。

日本は「賠償金という名目」こそ認めなかったものの、有償無償の8億ドルもの資金を経済協力金として拠出し、更に朝鮮半島に残してきた官民資産53億ドル相当を放棄した。この莫大な経済協力金は、当時の朴正煕 韓国大統領が北朝鮮の分も寄越せと言ってきた事に応じたものである。従って将来日本と北朝鮮が国交を結ぶ可能性があるにしても、日本から北朝鮮に如何なる名目でも資金を拠出する謂れはない。

以上は、全て事実であり、疑義を差し挟む余地はない。こんな邪悪な国、韓国とは、正常な外交関係は望めない。日本には「村八分」という言葉・考え方がある。村八分とは、村社会に於いて、掟や秩序を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つこと(共同絶交)の事である。葬式と火事の場合を除き一切の関わりを断つ事である。韓国に関してはこの「村八分」の概念を適用すべきである。

韓国政府は歴史的事実を一切認めず、自国民に教育してもいない。そして日本もまた、日本国民にこれらの事実を殆んど教育していない。これは敗戦直後から連合国(実際は米国のみ)である占領軍GHQ・SCAPにより為されたウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)によって、ほぼ全ての日本国民が「日本は侵略戦争をした悪い国だった」と「洗脳」されてしまった為である。

GHQにより発令された公職追放令の結果、反日左翼とGHQが恣意的に日本に仕込んでいった在日韓国朝鮮人の悪意も特筆せねばならない。日本が敗戦の焼け跡から復興する為に一番必要とされた人材は公職から追放され、様々な場面で国民が必要としたリーダーは反日左翼に取って代わられていた。彼らは先ず将来の日本をつくる教育界を席捲した。そして反日左翼と共に在日韓国朝鮮人のある者は帰化して政界に潜り込んだ。政界以外には、財界・法曹界・教育界・メディア界・芸能界に在日韓国朝鮮人は多く潜り込んだ。

様々な書籍を読んで痛感する事であるが、WGIPは日本人から歴史観に対する思考力を奪ってしまったようだ。反日左翼と在日韓国朝鮮人の反日活動の成果は絶大であった。正しい歴史観のないところには、正しい教育は生まれないし、正しい国民意識も政治家も生まれない。WGIP 以前と以後では、国民一人ひとりの成熟度もまるで違ってしまった。明治時代の日本人に比べて、平成の日本人の何と幼稚な事か!

国際法で「占領軍は被占領国の憲法・法律の類はつくってはいけない」とされているが、GHQは「日本国憲法 草案」(英文)を僅か2週間でつくり上げ、それを白洲次郎を始め数人の日本人が徹夜で翻訳したものが、議会にかけられ、昭和天皇によって発布された。日本人が大日本帝國憲法に則って、改憲したかの如く巧妙に工作・演出された「日本愚民化」若しくは「日本無力化」を目的とした「占領時統治法」である。それを現代の憲法学者・知識人が有難く押し戴いている。

「大日本帝國憲法」を正確に読めば、「占領時統治法(現行の日本国憲法)」が違憲である事は、多少なりとも知性のあるものには明白である筈だが、多くの憲法学者を始め、日本国民はこれを「平和憲法」と呼んで有り難がっている。今時の憲法学者・知識人・国民が、明治期に比べて極めて幼稚である所以である。

国際社会に復帰・独立して64年掛けて、この様な日本をつくり上げたのは、主に反日左翼・韓国朝鮮系帰化人・在日韓国朝鮮人たちである。特に朝鮮民族は徹底して日本を蝕んできた。母国である韓国や北朝鮮の国策と在日韓国朝鮮人及び韓国朝鮮系帰化人の行動は呼応している。何が何でも日本を貶め、母国に利益を齎し、更に日本を無能な国家にしたいのである。それに反日左翼の劣化日本人が加担しているのである。

2020年のオリンピックの東京招致妨害の為に韓国が何をしたか、そして舛添東京都知事が一等地にある都有地を、保育所・福祉施設にしたいという新宿区の要望に耳を貸さずに、定員割れしているという韓国学校に貸し出すという呆れた事実を、日本の政治家やマスメディアは一切取り上げない。国会議員・都議会議員・マスメディアは韓国と在日に遠慮して全く動こうとしない。こんな負の影響力のみ強い韓国には「村八分」が相応しい。

日韓併合の理由

報知新聞号外
報知新聞号外韓国併合

なぜ日本は日韓併合をしたのか。
このことについては、以前にも何度か書いているのですが、もう一度おさらいの意味で書いてみたいと思います。
初めての方は、目からウロコだと思います。

日本は明治43(1910)年8月29日、「韓国併合に関する条約」に基づいて大韓帝国を併合しました。
これがいわゆる「日韓併合」です。

ちなみに併合直後の明治44(1911)年の韓国の年間総予算は3,565万円でした。
韓国内からの税収は1,330万円です。たった三分の一しかありません。
足らない分は、全額日本から補充しました。

日露戦争が終わってまだ6年目です。
日本だって予算に余裕があったわけではありません。
にもかかわらず、日本はなぜ、韓国に莫大な財政を投下したのでしょうか。

日韓併合をいくら韓国に望まれたとはいっても、併合するしないを決めるのは、あくまで日本です。
何も金食い虫となる韓国を「無理をしてまで」日本が併合する必要はありません。
どんな事情があったのでしょうか。

朝鮮半島は1392年にはじまる李氏朝鮮によって、約500年、支那の属国(冊封国)であったと、ここまでは多くの人がご存知です。
ただ、注意しなければならないのは、李氏朝鮮は「国」ではなかったという点です。
この点を多くの日本人が誤解しています。

私達日本人は、国は「国境に囲まれた国土の中に住む人々が、同じ言葉、同じ歴史、同じ文化を持ち、国民として平等の権利を有している」、それが国家であると思っています。
日本は昔も今も島国で、天皇のシラス国でいましたから、もう、それが「あたりまえ」の感覚です。
けれど陸続きの大陸では、ぜんぜんそうではないのです。

大陸は、食えなくなった人が「暴徒となって移動する」ところです。
そして支那朝鮮では、大昔から軍とヤクザと暴徒は、同じものです。
ですから、おとなしく生活していれば、そこに突然、軍という名のヤクザな暴徒が襲ってきて、何もかも奪い取ってしまう。当然、人も言語も入れ替わる。それがあたりまえに行われてきたところです。

朝鮮半島も、もともとは今の韓国の南半分は倭国(日本)でしたし、北半分にあたる新羅や百済も、もともとは倭人たちの国です。
ですからそこにいた人種も言語も倭人そのものだったわけで、顔立ちも日本人的な顔立ちの人たちが住んでいました。

ところがその北側は、濊族の土地だったわけです。
濊族は、吊り目でひらべったい顔でエラの張った人たちです。
もともとは、大陸にいた遊牧民だった人たちですが、なぜか大陸を追われ、朝鮮半島にやってきたわけです。
モンゴルや満州のいわゆる広大な大陸地帯と、朝鮮半島では地理環境が違います。
朝鮮半島の地形は、何百頭もの羊や山羊を飼うには適しません。
にも関わらず朝鮮半島にやってきたということは、要するに、濊族は大陸で食い詰めて流れてきた人たちだったわけです。
食い詰めものだから、今で言ったらホームレスのような人たちで、だから汚いし、臭い。
そこで支那人が彼らに付けた名前が、汚穢の濊の字を書いた濊族だったわけです。

その濊族が、倭人たちと接触し、文明の中に取り込まれ、なんともっと贅沢をしようと、ついには新羅を乗っ取り、支那の兵力を引きずり込んで百済を滅ぼし、ついには倭国も滅ぼして、半島を牛耳ってしまいました。
ですからいまでも朝鮮半島には、元倭人系と、濊族系の人達がいます。だいぶ血は混じっていますが、日本人とは似ても似つかない平べったい顔でエラが張って目が細い濊族系以外に、日本人とそっくりな顔をした人達がたくさんいるのは、そういう歴史的経緯があったからです。

元遊牧民の食い詰め者である濊族にとって、人は食い物ですから、いきなり皆殺しにはしません。
そんなに殺しても食べきれないからです。
一方、食べられる側の元倭人たちは、農業や漁業で飯を食っていました。古代の話です。
ですからもともとはあまり肉を食べる習慣はなく、食事の味付けも日本食に近いものだったのですが、これも朝鮮半島がモンゴルに征服されたときに食文化が変わり、基本色が肉になりました。
半島民がモンゴルに征服されたのは、700年ほどまえですが、以來、朝鮮では肉食が主流になります。
ただ、おもしろいのです。
モンゴル人は、戦に使う馬をとても大切にする民族ですが、朝鮮馬というのはいません。
モンゴルは、ずいぶんたくさんの馬を半島に持ち込んだようなのですけれど、モンゴルが去った後、馬たちはみんな食べられてしまいました。
わずかに済州島だけが、近代まで、モンゴル馬の生息地となっています。

さて、軍という名のヤクザな暴徒たちが、国王や王族、貴族を名乗り、半島内で蹂躙と略奪の限りを尽くし、民衆をヒトモドキとして扱ってきた朝鮮半島に対し、日本は、武家政権だった鎌倉、室町、戦国、江戸社会においても、大名たちは領主ではあったけれど、領民たちは大名の所有物ではありません。

知行地内に住む農民をはじめとした人々は、もちろん藩に所属している人々ですけれど、その人々は領主である大名の私物(私有民)ではなく、天子様、天長様(天皇)の「おおみたから」であるとされてきたのが日本です。
日本では、これが古代からの日本のカタチです。
ですからこのことは、日本では「空気のようにあたりまえのもの」になっています。

けれども、朝鮮半島では違います。
西欧においても、「妻は夫のものであり、その夫は領主のものだから、妻は領主のもの」とされたのが中世ですが、朝鮮の場合、外来の女真族の裏切り者が、面倒を見てくれた高麗王を裏切って明に擦り寄って、権力を奪い取って朝鮮王を名乗った李王朝です。
もともと朝鮮族であったわけでもなく、原住民に愛情も愛着もありませんから、とにかく反抗するものは皆殺しにする。残酷な刑罰を加える。殺して食べる。
挙句の果てが、街を歩いていていい女がいたら、強姦のために胸を出させて品定めしやすいように、民族服まで変えてしまったというのが、李王朝です。

ですから、李氏朝鮮の時代、これは大韓帝国になってからも、つまり日韓併合の前まで、朝鮮半島に「国民」はいません。
人として認識されたのは、人口の3%の両班だけで、それ以外の人々は、人ではなく、ヒトモドキという認識です。人の言葉をしゃべる猿です。

「女性は人として扱われた。民主的だった」などと最近の韓流時代劇は、お馬鹿なファンタジー史観を広げていますが、全然違います。
日本でも昔は、青年が温めたコンニャクや、メンドリの膣を使って自慰をするなんてことがあたりまえに行われていましたが、半島では、ヒトモドキの女性たちは、あまりに残酷なことですが、ただの性の道具として「使用されてきた」にすぎません。

いささか嫌な書き方をしますけれど、昔の朝鮮では縛り付けた罪人の骨を一本一本折っていったり、木刀のような太くて長い警棒で縛り付けた罪人を散々殴るということが一般に行われていました。
つまり縛り付けて抵抗できない者に対して、酷い暴行を加えるということが彼らの文化だったのです。
これが性的に変形したのが、朝鮮式SMで、最近では日本でもオカマやオネエ同様、だいぶ流行っていると聞きますが、もともとの日本には、昔の吉原や曽根崎町、あるいは円山町などの遊郭においても、女性を縛り付けて行為に及ぶような施設も文化も、まったく存在すらありませんでした。
ラブホは、戦前も待合旅館などがありましたけれど、SMルームのような施設を持った待合旅館は、日本中どこを探しても一件もどころか、一部屋もありません。これは断言できます。

要するに、朝鮮半島では、人をヒトモドキとして扱い、支配するということが、あたりまえの文化であったわけで、当然のことながら、人と人との信頼関係なんて生まれようがありません。
だから朝鮮半島では、製造業も商業も育たちませんでした。
この点は、支那と大きく違う点です。
支那は、遊牧民の文化に倣い、課税対象は商業流通です。
農業や畜産業自体への課税は、もともとはありません。
とりわけ遊牧民王朝下(ほとんどの時代がそうですが)では、人も動物も基本、移動するものですので、当然のことながら、住民台帳も家畜台帳も整備されません。
そのかわり、人や家畜の移動や、流通に課税したのです。日本とは課税文化が全く違います。

ところが、朝鮮半島では流通商業がありません。
なぜなら、人の移動は、常に逃散だけだったわけです。
ですから、課税は、とにかくそこにいる人から、絞りとる。
言うことを聞かなければ、残酷な刑罰を与える。これしかない。
これでは産業なんて育つわけもなく、だから朝鮮王朝から支那王朝への献上品は、ずっと毎年、性奴隷としての女性の献上だけです。

だから国は貧しく、人々に教育もなく、山々は禿げ山、民家や街中にはトイレさえない。
道には人糞が散乱し、堪え難い臭気が町をおおい、首都ソウルの李氏王宮の正面入り口の南大門の真ん前でさえ、浮浪者がたむろしていた極貧状態です。

あまりの極貧ぶりであるがゆえ、欧米列強による植民地支配の対象さえなりません。
欧米から「不衛生な猿山以下」と思われていたのが、当時の韓国だったのです。

そんなエリアを日本が併合する。
理由として、ロシアや支那を牽制する軍事的意図があったという人もいます。
これ、間違いです。

そういう理由なら、日韓併合の必要はまったくないのです。
現に、日清、日露戦争において、日本は堂々と韓国の領土に兵を進めています。
それに抵抗できるだけの武力も資金も兵力も、気力さえも、李氏朝鮮にはありません。

ですから、仮に韓国に併合を望まれたとしても、日本は軍事的に領有するか、保護国、保護領、従属国にすれば足りたのです。
あるいは植民地でも良い。
本来、何ら投資など必要ないのです。
対ロシア対策というのなら、半島の原住民を強制徴用して、後ろから銃を突きつけて前線に立たせれば良いだけです。
支那の国民党や毛沢東の八路軍、ソ連兵など、みなこのやり方です。

日本はまだこの時期、日露戦争の戦費の償還をしていたのです。
財政に余裕はない。
にも関わらず、日本は韓国を「併合」し、さらに巨額の財政投下までしています。
しかもなんとかして人道的な接し方を彼らにし続けています。
なぜでしょう。

当時日本は、明治の開国後、またたく間に国力をつけた日本は、日清、日露の戦争にも勝利し、明治35(1902)年には、世界最強の海軍国である大英帝国と対等な同盟関係まで締結する国家となっていたというのは、みなさまご存知の通りです。

有色人種国家は、欧米列強の前にひれ伏し、植民地支配を受けるしかないという世界の常識の中で、唯一日本は有色人種国家でありながら、名実ともに世界の一等国仲間入りを果たしていました。
果たしただけでなく、当時の世界最強国家であり、七つの海を股にかけた世界の大英帝国と「対等な同盟国」なのです。しかも英国が同盟を結んだのは、当時、日本だけです。

ちなみにすこし脱線しますが、米国は、西進主義といって、はじめはカリブあたりを支配地におさめ、その次は絵北米大陸の西海岸、それからハワイ、フィリピンへと、当時西へ西へと侵略を進めていました。
要するにカウボーイたちが征服したのは、北米のロッキー山脈のインデアンだけではなくて、それから太平洋、東洋へと、西へ西へと駒を進めていたのです。

ところが米国のカウボーイは、東にも南にも駒を進めていません。
つまり、北米から、南米やヨーロッパ、アフリカに、アメリカの殖民地支配は行われていません。
これが何を意味するかというと、米国の北にも南にも東にも、大英帝国という強大な帝国が勢力を持っていたのです。
米国は国力を付けましたが、まだこの時代、英国に勝利できるだけの実力はありません。
ですから、東南北を塞がれた米国は、西へ進むしかなかったのです。

その西に、強大な帝国として立ちふさがったのが、日本でした。
ですから日米が戦って、米国が勝利すると、その勢力圏を、日本から朝鮮半島、インドネシア、インド、そしていまでは中東まで、すっかり征服圏におさめています。
もし、大東亜の戦いのときに、日英が協力体制にあったのなら、おそらく世界の勢力地図は、いまとまったく違ったものになっていたことでしょう。

と、話が脱線しましたが、そんな世界最強の大英帝国と、隣の日本が「対等」な同盟関係を結んだ、という事実に、当時の韓国の知識人たちがびっくり仰天するわけです。

ちなみに、この「韓国知識人」というのが、むつかしい存在です。
両班は、基本的に両班と結婚して子をもうけます。
両班と両班が結婚して子が生まれれば、その子は、もちろん両班です。
ところが両班たちは、朝鮮のヒトモドキとされた隷民の女性を強姦します。
すると子が生まれます。
こうして生れた両班と隷民階層の「あいのこ」は、両班と区別して「中人」と呼ばれました。
人とヒトモドキの中間という意味です。

そして両班は、箸の上げ下げも、タバコを吸う時もキセルを自分で持たず、また儒者として漢文を読む素養も、漢詩を書く教養もありません。
ただ尊大ぶっているだけです。
そして、そんな両班達のために、文字を書いたり、両班の大作(間違いました)代作で漢詩を書いたり、書を書いたりしていたのが、中人階層です。
ですから、中人階層は、教養がありました。
けれど、自分たちがどんなに教養を得ても、どこまで行っても、一生、明らかにアホとしか言い様がない両班のために働き続けなければならなかったのです。

そして、日本の半島への影響力が強くなってきた時、一番反応したのが、この中人階層でした。
福沢諭吉の弟子になった金玉均なども、みんなこの中人層の出です。
彼ら中人にとっては、勉強をして正しい知識を得たものが、世の中を動かせる日本の社会こそが、まさに理想国家だったのです。

李氏朝鮮は、カタチだけは大韓帝国として、近代国家の体裁をとりましたが、そこにおいても、人間は両班だけです。民衆は隷民だし、中人は補助的仕事しか与えられません。
ですから中人たちは、必死に両班を説得し、日本との合邦を工作しました。
そして日韓併合に、断固として反対の姿勢を貫く伊藤博文を、明治42(1909)年10月に暗殺しました。
当時の韓国は、「日本の初代総理を暗殺してまで」、日本との併合を望んでいたからです。

ですから伊藤博文暗殺の一ヶ月後、喪が明けるのを見計らって、韓国国内に当時あった最大与党の一進会が、「韓日合邦を要求する声明書」を出しました。
この声明は、「日本と韓国が対等な立場で合併することで、新たにひとつの大帝国を作るべきである」というものです。

この声明は、世界の嘲笑をかいました。
なぜなら当時の日本と韓国は、国力に雲泥の差があるからです。
日本と対等に合邦するということは、日本と同盟関係にある英国とも「対等な関係」を形成することになります。
文化もない、教育もない、産業もない、道端は人糞で足の踏み場もないような極貧のヒトモドキ国が、いきなり「英国と対等?」
これを、悪い冗談だと、笑わないほうがどうかしています。

けれども、当時の大韓帝国の中人たちにしてみれば、それは苦肉の選択でもあったのです。
上に立つ、頭の空っぽの両班たちには、何を言っても意味が通じません。
ただ尊大でいるだけで、現実の朝鮮半島は驚くほど貧しいのに、「自分は貧しくない」からと、何の問題意識もない。
だから中人たちは、そんな両班たちを、「世界を支配する大英帝国とも対等になれるのです!」と説得したのです。
おかげで、大韓帝国としての公式の声明は、「日本と対等な合邦」となりました。
しかしこのことは、諸外国からみれば爆笑モノだったのです。

ところが日本は、人種の平等を主張する国です。
この部分は、欧米列強からすれば、日本のウザイところです。
そして、日本に朝鮮半島の面倒を見させることは、長い目で見れば、日本の国力を削ぐことになります。
どんな時代にあっても、自国以外の競争相手国の力を削ぐことは、外交の要諦です。

一方日本は、どうしても対ソ対策のために、朝鮮半島を自立させていかなければならい。
ところがその朝鮮は、まるで問題意識がない。
まるで「自分たちの国は、糞尿だらけで何の魅力もないから、絶対に他国は入ってこれない」と安心しているかのようです。
そしてそんなことでは、ソ連の鎧袖一触で、朝鮮半島はロシア領になってしまいます。

加えて日本には、「人種は平等」であると主張した責任があります。
欧米列強の認識は、殖民地の現地人は人ではなくて牛馬と同じただのヒトモドキにすぎない、という解釈です。
ところが、そのヒトモドキを、日本人は「同じ人間だ」と言い張る。
けれど、欧米列強は500年にわたってアジアを支配してきた結果として、アジア人は人ではないという結論に達していたのです。
「そうではないというのなら、日本は朝鮮半島で実際にそれを証明してみせろ」

これが、日本が日韓併合に踏み切った理由です。
本によっては「韓国から合邦を望まれた日本が、諸外国にお伺いをたて、諸国の了解のもとに日韓併合を行った」というような記述をしているものがありますが、事実関係はまったく逆です。

そもそも当時の世界は、欧米の白人国家が有色人種を支配するのが「常識」とされいた時代です。
国力のある国家が、そうでない国家を支配するというのも、違います。

白人社会の伝統的価値観(宗教観)においては、この世は「」と「」と「」によって構成されています。
「神」は唯一絶対の存在であり、「人」は神の子です。

神の子である「人」は、神との間に交されたルールを守らなければなりません。
ルールを守るから「人」なのです。
ルールを知らない、あるいはルールを守れない異教徒は「人」ではないヒトモドキです。

「ヒトモドキ」は「獣」でしかありませんから、人の姿カタチをしていても「獣」です。
バンパイヤ(吸血鬼)やリカント(狼男)は、人の形をしていますが、人の勇者によって片端から殺されます。
バンパイヤやリカントは、いくら殺しても罪にはなりません。
なぜなら人の姿をしていても「人」ではないからです。

「人」は、牛や豚を殺して食べます。
それは牛や豚が「人」ではなく「ケモノ」だからです。
「人」を殺せば殺人罪ですが、「ケモノ」を殺した「殺ケモノ罪」は、世界中、どこの国にもありません。

「ケモノ」は、飼いならして「家畜」にします。
そして使役して果実を作らせる。
できあがった果実は「人」のものです。
だから殖民地の生産物は、すべて「人」のものです。
そして西欧では、古代フェキニアの時代から、これが常識です。

日本人は、自分たちは「人」であると信じて疑いませんので、このような説明をしてもわかりにくいかもしれませんが、そんな日本人も魚は食べます。
殺して食べても、「殺魚罪」になりません。
要するに人でないということは、その魚と同じということです。

こうした有色人種を「獣」として使役するという考え方は、ヨーロッパにおいては古代からの、ごく一般的な思想です。
15世紀にはじまる大航海時代において、人が遠くアフリカや南米に出かけて行く。
その国の原住民を殺して金銀財宝を持ち帰る。
それが罪にならなかったのは、その国の原住民が「人」ではなく「獣」とみなされたからです。

そうした考え方が、まさに「常識」とされていた時代に、有色人種でありながら、たいへんな努力をすることで、唯一「人」として認められたのが日本です。

「人」と「獣」の違いは、ひとことでいえば、人としてのルールを守れるか否かです。
日本は、古来の伝統的武士道に基づく道徳観にさらに磨きをかけ、これを国民的共通観念とし、さらに教育によって西洋人以上に約束を守り、勇敢で、高潔で、人としての尊厳を保つ民族、国家、人種として、日本社会を構築していったのです。
そしてその努力があったからこそ、日本民族は、ルールを守れ、勇敢で高潔で勤勉な民族として、西欧社会に受け入れられました。
「獣」としかみなされない有色人種が白人種の中でも最強とされた英国と対等な同盟関係を結べれた背景には、日本の国をあげた努力が根底にあったのです。

ところが、お隣の韓国は、自らを何も律することなしに、両班の尊大と、ヒトモドキの隷民を抱えたままで、日本に対し「対等な合邦」と言い出したわけです。
これはまさに、人として国家としての「ルール」をまるでわかっていない、つまり自ら「ケモノ」や「ヒトモドキ」であることを、世界に向けて高らかに宣言したようなものです。
ルールがわからない、理解できないということは「獣」である証だからです。
日本が困りきり、西欧諸国が涙を流して笑い転げたのは、あたりまえのことです。

結果、欧米諸国は、日本に「韓国の面倒をみてやれよ」といい出しました。
「野良犬(もしくは猿?)が、君のとこに妙になついてしまったのだから、まあ、面倒くらいみてやりなさいな」というわけです。

日本は、世界でただ一国「有色人種も人である」と必死に主張していましたが、なんとお隣の国が「オイラ、獣です」と世界に向けて宣言したのです。
もし隣の有色人種が「獣」なら、日本人も「獣」であると証明したことになってしまいます。
そうなれば、明治の開国以来の国をあげての努力が、ぜんぶ水の泡です。

こうして米英露伊仏独は、それぞれに日本に朝鮮統治を迫りました。
日本は欧米との外交上、朝鮮の面倒を見ざるをえない方向に追い込まれてしまったのです。

やむなく日本は、大韓帝国の面倒をみることにしました。
本来なら、植民地か、保護国、保護領、従属国にするだけでも足りるのです。
そもそも当時の国際的常識では、韓国は「人の国」ではないのです。「猿の国」です。

けれど、日本が「有色人種は人である」と主張するなら、朝鮮半島に生息する猿も同じ「人」となります。
ならば日本は、韓国を対等に遇しなければなりません。
そして韓国の中味が「獣」でしかないなら、なんとか教育して「人」に仕立て上げなければなりません。

こうしてできあがったのが、明治43(1910)年8月の「日韓併合」であったわけです。

韓国を併合した日本は、韓国内に古くからある不条理な刑罰や牢獄制度を廃止させました。
韓国内に八つあった言語を統一しました。
さらに半島内に5200校に及ぶ小学校を作り、239万人を就学させました。
道路をつくり、鉄道を敷設し、上下水道を整備し、病院をつくり、電気を引き、ビルを建て、道路を拡張整備しました。
そして路上での大便を禁止しました。
こうして日本は、韓国の近代化をいっきに押し進めたのです。

現代韓国人は、「七奪(칠탈)」といいます。
日本が韓国併合により朝鮮半島(韓国・北朝鮮)から、主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源を奪ったというのです。

けれど、李氏というヤクザの親分が民衆をヒトモドキ扱いして威張っていただけの地域が、そもそも主権国家といえるでしょうか。李氏朝鮮は支那の隷属家です。朝鮮半島にある全ては、李王朝のものです。そして李王朝のものは、すべて支那皇帝の所有物です。そのどこに主権があったのでしょうか。

李朝の国王には、日本は併合後、皇族の身分を与えました。
しかも年金は、日本の本物の皇族よりも高いお金を払っています。
そもそも李王と、日本の天皇では、格が違いすぎます。

朝鮮半島の人口は、日韓併合後、倍になっています。
人命を奪ったどころか、みんなが食える国してあげたのは日本です

朝鮮半島に、統一言語はありません。
8つあった言語を統一し、埋もれていたハングルまで復活させてあげたのは日本です。

日本人の名を名乗りたかったのは、朝鮮人たちです。
彼らは満州などで、自分たちは「第二日本人」を名乗っていましたが、さらに日本人名になれば、日本人そのものとして「大きな顔」ができたから、彼らがそれを望んだのです。
七奪というくらいなのですから、もう二度と日本人名は名乗らせる必要はありません。
通名は一切廃止すべきです。

土地も、私有を認めてあげたのは、日本です。
それまでは、両班のものですが、その両班には土地台帳はありません。
上に立つ両班が、「ここは俺の土地だ」と言ったら、そこがその両班の土地になりました。
それを全道を測量し、私有地を認めてあげたのは、日本です。

資源など何もなく、女性をセックスのために輸出する他、何の産物もなかったエリアが、いまでは世界第14位のGDPを持つ経済大国です。
全部、日本の技術です。そのどこが七奪なのでしょうか。

もう、日本は目をさます時です。

6月2日は本能寺の変

20160529 高橋幸治の織田信長の最期
20160529 高橋幸治の織田信長の最期

6月2日といえば、天正10(1582)年、いまから431年前に「本能寺の変」があった日です。
明智光秀の「敵は本能寺にあり!」は歴史に残る名台詞で、歴史をあまり好きではないといわれる現代人でも、この言葉は常識として定着しています。

この本能寺の変で織田信長が亡くなり、倒した明智光秀も秀吉に敗れて三日天下に終わります。
そして世は関白太政大臣豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原を経て徳川幕府の時代へと移りました。
その本能寺の変について書いてみたいと思います。

明智光秀
明智光秀

本能寺の変で織田信長は亡くなったとされています。
ところが不思議なことに信長の遺体はあがっていません。
本能寺そのものは、事変のときに火災で焼け落ちました。
けれど木造家屋の火災では普通、遺体が残るはずです。
「ない」というのは、おかしな話です。

信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、地下に織田軍団の保有する火薬が大量に保管されていて、事変のときにこれが大爆発を起こしたからだ、という説もあります。
当日巨大な火柱が本能寺方面からあがったのを見た、という記録がある、というのがその論拠のようですが、どうもしっくりきません。

というのは、火薬が爆発したのなら、火柱もさりながら大音響を伴ったはずです。
火薬の大爆発の「音」は、落雷以上の大音響です。
この時代の武士は、戦に際して馬に乗っていますが、馬はものすごく音に敏感な生き物です。
そのような大音響が起きたのなら、攻めた光秀側の馬のみならず、京都中の馬たちにも大きな影響があったはずで、その「音」に関する記述がどこにもないというのは、これはおかしな話です。

むしろ、織田信長という偉大な人物の死に際して、「天上からの光を見た」といった話は、これはあってしかるべきで、それを火薬と結びつけるのは、いささか無理があるように思います。
そういう説なら、むしろ遺体はほぼ特定されたけれど、あまりに痛ましい焼死体であったために、あえて「燃え尽きて、なくなっていた」ことにしておいた、という解釈の方が、なんだかしっくりくるように思えます。

歴史を調べるときに、文献記録というのは、とても重要な史料です。
ただし、日本の、とりわけ武家社会というのは、いわゆる「タテマエ社会」で、実際にあったことよりも、タテマエとして「こうだったことにしておこう」ということが優先された、そういう社会であったということを十分に理解しておく必要があります。

西洋においては、文献は当時の模様を事細かに微に入り細にわたり描写するのが特徴です。
これは歴史史料に限らず、絵画や彫刻、文学なども同じで、油絵の具を何度も何度も重ね塗りして、できるだけリアルに仕上げようとする、あるいは小説であれば、風景描写などを事細かにしていく。
とりわけロシア文学などは、冒頭の風景描写だけで数ページ続くなんてことがよくあります。
それが彼らの文化です。

これに対し日本の古典は、史書も文学も絵画も芸能も、すべて引き算です。
できるだけ短い言葉にして、あとは読み手の想像力に委ねる。
これは、読み手、受け手の側に、一定の教養と知性を求めますが、その代わり想像力が刺激される分、言葉は短いけれど、より大きな情報を伝えます。

ですから日本では、そもそもそういう文自体に引き算という特徴があることに加え、武家の記録は常に「タテマエ」が優先するわけですから、単に書いてあるか書いてないかだけで当時あったじっさいの出来事がかならずしもその通りには書かれていないということが往々にしてあります。

戦後の日本の歴史学会は、唯物史観で、常に物証を求めますが、その姿勢は、歴史を恣意的に解釈するお隣の国のみっともない姿からすれば、とても冷静で大切なことではあるけれど、それだけでは日本の本当の歴史は見えてきません。

というよりも、歴史を調べることを生業とする歴史学者にとっては、歴史は史料の発掘や研究になるのであろうと思いますが、一般人である我々が歴史を学ぶ際にたいせつなことは、常々申上げているとおり、「そこから何を学ぶか」ということなのだろうと思います。

さて、では信長はどうなってしまったのでしょうか。
これについて、おもしろい見解があります。
信長は生きていた、というのです。
実は私は密かにこの説を支持しています。

生きて、どうなったかは不明です。
当時は東南アジア諸国との交流が活発でしたので、海外でのんびりと余勢を過ごされたのかもしれませんし、もしかすると、そうなろうとして、途中の海でシケに遭って亡くなられたかもしれない。
あるいは仏教に帰依して、僧侶となって余生を送ったかもしれません。
当時は、出家して坊さんになることは、現世における死を意味したからです。

本能寺の変の何年か後、ローマ法王庁に渡り、法王の側近になったという説があります。
それが地動説を支持して火刑に処されたジョルダーノ・ブルーノで、信長は「ジョルダーノ・ブルーノ」(Giordano Bruno)という名前の中に「Oda Nobunaga」という文字を散りばめて残したともいいます。
肖像画を見ると、両者はとてもよく似ています。

ジョルダーノ・ブルーノ(左)と織田信長(右)
20160529 ジョルダーノ・ブルーノと織田信長

ひとついえることは、太平の世を築くという目的のためには、そこで信長が死ぬことは、あまりにもタイミングが良すぎる、ということです。
本能寺の変は、信長が光秀に討たれたのではなくて、逆に信長が光秀に命じた、実は大芝居であったとする方が、実はかなり現実的なのです。

このお話は、その前提となる流れの話が必要です。
それは仏教の話です。

6世紀の仏教伝来以来、16世紀終わりごろの秀吉の「刀狩り」の時代まで、約千年間の長きにわたって、実は仏教勢力は、たいへんな武装政治勢力でした。
これはいまで言ったら、某巨大新興宗教団体が、独自に自衛隊、というより軍や兵器を持っているような者です。
その武装政治勢力が、年中、神輿を繰り出しては、朝廷を脅迫していたのです。
「平家物語」の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水(洪水)、双六の賽(サイコロ)、山法師(僧兵)」の3つは「天下三大不如意」でどうにも手がつけられないと嘆いたことが書かれています。

そもそも仏教が伝来したのは、6世紀の中頃のことです。
当時、朝鮮半島にあった百済(くだら)の聖明王が、日本の欽明天皇に金銅の釈迦如来像と経典,仏具などを献上しています。

ここで百済の聖明王が「王」という尊称になっていることには注意が必要です。
第29代欽明天皇には、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という諡(おくりな)がありますが、すでにこの時代には「おほきみ」という和語による尊称が使われています。
そして「おおきみ」は「王」よりも上位の存在です。
つまり、この時代の百済は、倭国の属国であったということが、こうした細かな点からもうかがい知ることができます。

さて最近では、「仏教も文字も朝鮮が日本に伝えたもので、それまでの日本は宗教も文字もないオクレタ未開の野蛮国だった。その日本が文化を教えてもらった恩義も忘れて朝鮮半島を侵略統治したのは、恩知らずのとんでもない暴挙だ」と主張する学者、ジャーナリスト、メディアがあり、また、韓国では実際に子供達にそのように国定教科書で教えていますが、これらは妄想もはなはだしい、お馬鹿な話です。

当時の朝鮮半島は、いまの北朝鮮のあたりが高句麗(こうくり)で、韓国のあるあたりは三韓時代といって、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、任那(みまな)の三地域に分かれていました。

このうち任那は、日本そのもので、つまり朝鮮半島の南部の一部(かなり広大なエリアですが)は、倭国(わこく)すなわち日本です。
そして、百済は、東に新羅、北に高句麗という強国を抱え、自国の存続のために日本の庇護を受けている属国だったのです。

実際、百済は王子を毎回日本に人質に出しています。
そして王が逝去すると、日本にいた王子が帰国して、次の王になりました。
実際には、人質というより留学と呼ぶべきものであったであろうと私は思っていますが、日本と朝鮮双方の考古学史料がこうした事実を明らかに証明しているのに、デタラメな思い込みを教育しているというところに、現代韓国の病理があるし、それを真に受ける馬鹿な日本のメディアにもおおいに問題があります。

要するに、百済の王が日本に仏教の教典や仏像を献上したのは、国土防衛上の必要から、日本の庇護を受け、そのお礼のためにと献上したものです。
このときはじめて、日本に文字が伝えられたのだといいますが、日本ではすでに1世紀に金印が伝わっており、またこの頃の銅鏡にも、たいてい文字が掘られています。

少し考えたら、誰にでもわかることですが、そもそも金印(印鑑)は、文字文化がなければ無用の長物です。
そもそもこの金印の授与に際して、日本から「大夫(たゆう)」という肩書きの者が漢の皇帝を訪問したと漢の記録に書かれています。
つまり、そうした肩書きや役職、官位が制定されるだけの、しっかりとした行政組織が、すでに1世紀の時点で日本にはできあがっていたということです。

さらに百済からの仏教伝来よりもはるか以前に、日本では墨で文字の書かれた土器なども多数出土しています。
1〜3世紀には、すでに文字が広汎に普及していた日本に、6世紀になって「はじめて」漢字が伝わったというのは、あきらかに無理がある話でしかありません。

問題は、仏教や文字を伝えてもらったなどという「ありがたい話」ではなくて、平和を愛するはずの仏教が、我が国において、結果として巨大な武装集団であり、巨大な政治的圧力集団になってしまっていたことです。
別に仏教を否定するとか、そういう意味で書いているのではありません。
鑑真など、素晴らしい高僧や、素晴らしい教えがあったのは事実です。
しかしその一方で、仏教が世俗組織化し、武装勢力となっていたこともまた事実なのです。

仏教は、伝来からわずか42年で、推古天皇によって仏教興隆の詔が発せられました。
西暦594年のことです。

たった42年です。
たった42年で、天皇を動かすだけの政治力を持ってしまったのです。
どうしてこのようなことができたのでしょう。

日本にもともとある神道は、いまでこそ「交通安全祈願のお守り」なんてのを売ってたりしますが、もともとは現世利益を説いていません。
交通安全や安産、病気快癒、商売繁盛などを扱うようになったのは、神社とお寺の境界線が曖昧になった江戸時代以降のことで、もともと神道にあるのは浄化と感謝です。
ですから、たとえば「あの人と結ばれたい」と思っても、神道なら、「それならお祓いしてあげましょう」というだけで、結ばれるかどうかは、あなたの精進努力次第ですとなります。

ところが後発の渡来仏教は、現世利益です。
信じれば病気が治る、怪我をしない、暮らしが豊かになる、恋が叶う。
その大がかりなものが、加持祈祷です。

よくよく考えてみれば、1億の民それぞれが、みんな自分の願いが叶ったら、世の中はたいへんなことになります。
たとえば今日は晴れてほしいという願いの人もいれば、今日こそ雨が降ってくれないと困る人もいる。
誰もが学校で成績一番をとりたいと願っても、生徒全員が一番になるのは無理ですし、絶対に病気や怪我をしてほしくないという願いが全員叶ったら、医者も看護師さんも失業しなきゃならない。

けれど、そうはいっても、目の前で子供が大怪我をしたり病気になれば、ワラをもつかみたくなるのが庶民感情です。
いくら払ったら願い事が叶うと聞けば、おカネも払うし、それで願いが叶わなければ、信心が足りない、お布施が足りないとなって、ますます寄進を行う。
結果として渡来仏教は、全国から集めた寄進で大繁盛し、莫大な経済力を身に付けます。
そしてその莫大な経済力を背景に、豪華絢爛な仏閣を建て、政治にも大きな力を持ちます。

ちなみに富というのは、古代においては、食い物とイコールです。
そして人間は、その食い物の生産高以上には人口は増えません。
ということは、ごく一部の者、つまり渡来仏教集団が、それだけの大きな経済力を持ったということは、日本全国でみれば、もともと民衆の間に均等だった富が、一部の者に偏在した、つまり一部の者が富むことによって、他の多くの民は、極貧生活を余儀なくされるという結果を招いたわけです。

普通なら、これで人口が激減します。
そこだけみたら、何のための宗教なんだということになってしまうのですが、実際、異文明との衝突というのは、どちらかの文明が滅び、この世から消滅するところまで行ってしまうというのが、世界史です。
つまり、仏教伝来によって、古来からある日本の文化も、日本人も、もしかしたらほろんでなくなってしまったかもしれないのです。

ところが日本はそうなりませんでした。
なぜかといえば、生活に苦しくなった民衆が、努力して新田の開墾を始めたのです。
つまり、富が偏在した分、日本人は新たな富を生み出すべく、努力を重ねたわけです。
そうしてできた新田の地主たちが、後年、みんなで力を合わせて、自警団を組み、それが武士団となって、時代がまた新たな時代へとシフトしたわけです。
ここ、大事なポイントです。

仏教勢力が手中におさめたのは、経済力と政治力だけではありません。
仏閣内に多勢の「僧兵」を養うようになりました。
つまり、仏教寺院が軍事組織化したのです。
これは国家の一大事です。
いまで言ったら、パチンコ業界が自衛隊並みの武装をしたみたいなものだからです。

ちなみに「僧兵」という言葉は、事実上「僧兵」が武装軍団ではなくなってから、つまり江戸時代になってから付けられた名前です。
もともとの呼び名は「法師武者」とか「僧衆」です。
隠語では「悪僧」といいました。
この場合の「悪」というのは、「強い人」という意味で、現代風の「悪者」とは意味語感が違います。
有名なところでは、武蔵坊弁慶がいます。

「悪僧」たちは、完全な軍事組織で、鎧も着れば兜もつける。
手には大薙刀、腰には刀、背中には矢を背負い、日々鍛錬して強大な軍事力を持ちました。
宮本武蔵と対決した、槍の宝蔵院流というのも、悪僧たちの槍の流派です。

そして「悪僧」たちは、なにか政治問題があると・・・それはたとえば、もともと貴族の荘園だったところを、仏教寺院の荘園として付け替えることに、政府が難色を示したりする等・・・多勢で都に押し掛け、強訴に及びました。

なにせ推古天皇に「仏教興隆の詔」をいただいているし、聖徳太子からは「厚く三宝を敬え」と、憲法で保護されていたのです。
ですから彼らは、神輿を担いで、武装して朝廷に出張り、大声をあげて要求が通るまで騒ぎ通しました。
おかげで奈良県の大和地方にあった朝廷は、転々とした挙げ句、ついには泣く泣く794年に京都の平安京にまで引越ています。
大和朝廷が、大和から引っ越したのです。
どれだけ仏教界の政治的軍事的経済的圧力が困ったものだったか、ということです。

「悪僧」たちが仏教を信仰することは責められる話ではありません。
彼らが莫大な経済力をもったとしても、その分、みんなで努力して新田を切り拓いていけば、みんなが死なずに食べてくことはできます。
ただ、武装だけは困る。

もちろん、武装した「悪僧軍団」を武力で征圧することは、不可能なことではありません。
けれど、その場合、大きな問題が残ります。
それが禍根です。

イスラムのゲリラを殺せば、彼らはジハード(聖戦)として、殺した側に復讐を近い、どこまででも追って来る。
それは「世が乱れる」ということです。

そして、実は、この「悪僧軍団」を叩き潰したのが、信長だったということができます。
もっとも武装宗教団体に対する討伐は、過去にも何度かありました。
足利幕府の三代将軍足利義教の比叡山延暦寺への大討伐なども有名な話です。
けれど足利義教も含め、仏教渡来以来千年間、誰も「悪僧軍団」の首に鈴をつけることができなかったのです。
信長は、これをやったわけです。

信長は天下の3分の1を手に入れました。
これは圧倒的な軍事力です。
その力をもって、武装宗教勢力である比叡山延暦寺、一向宗の本部である本願寺を攻め、僧兵たちを武装解除させたのです。

ただし、そのおかげで、比叡山も本願寺も表面上おとなしくはなったかわりに、信長は僧を殺した破戒の「第六天魔王」と言われ、罵られるようになりました。
「第六天魔王」というのは、魔王の中の最大かつ最強の魔王です。

信長は天下をほぼ統一し、武装宗教勢力まで退治しました。
けれど、そのおかげで宗教的信仰心に裏付けられたゲリラに、こんどは内部から、常に命と政権転覆を狙われるようになったわけです。

圧倒的な軍事力で全国の大名たちを従え、武力を織田政権下の管理下に完全においたはずなのに、今度は、誰ともつかない織田政権の内部にいる宗教勢力から、織田政権の転覆と、信長の命が狙われるようになることになります。

もしそれで信長が宗教人の手によって殺されれば、時代はまたもとの「悪僧軍団」の時代に戻ってしまいます。
それでは、なんのために本願寺や比叡山を攻めたのかわかりません。
そもそも天下三分の一の武力を持ったのも、比叡山や本願寺を責めたのも、すべては世に太平をもたらすためです。

戦国の世で誰が一番困るか。
民百姓です。
なんとしても、武力で争う時代を終わらせなければならない。
そのためには、最強の、誰も勝てない武力を持たなければならない。

武力に反対だから武力を持たないなどと、昨今の日本ではしたり顔をしていう人が多勢いますが、現実にはそういう人々は武力をまともに行使されたら、死ぬだけです。
武には武を。
それが信長の言う「天下布武」です。

そういう流れをみてみると、もしかすると「第六天の魔王」というイメージも、信長自身が流布させたものかもしれないと思えてきます。
なぜかというと、延暦寺や本願寺を滅ぼした信長は、織田軍団として宗教側の恨みを引き受けるのではなく、あくまで信長ひとりが悪の破戒者、第六天の魔王となれば、宗教ゲリラの狙いは、信長ひとりだけに絞られるからです。
そうしておいて、信長が誰かに殺されたら、武装宗教ゲリラたちは、その攻めの矛先を失い、とりあえずは沈黙をせざるを得なくります。

戦乱の世に終止符を打ち、太平の世を築く。
それが当時の最大の政治課題であり、政治目標です。
けれど、ゲリラ戦、宗教戦争になれば、国は混乱し、戦乱はいつまでも続きます。

ならば、悪の大魔王をひとりにすべてをなすりつけ、そのうえでその大魔王が死ぬ。
宗教勢力は戦いの矛先を失い、その上で平和のための刀狩りをして、一般庶民から仏教寺院にいたるまで、すべての武装を取り上げる。
武力を、武家だけの専売特許にする。
そうすれば、宗教戦争は起きず、仮に起きてもすぐに鎮圧できる。

戦国大名たちは、いわば軍閥です。
ですから、より強大な軍事力をコチラが持てば、黙って調伏できます。

しかし仏教勢力は、たとえコチラ側がどんなに強大な武力をもってしても、彼らは信仰によって戦いを挑んできます。
これはやっかいです。
といって、宗教人を皆殺しにすることはできません。
家臣団の中にも、信仰に厚い人はたくさんいるからです。

国内に根付いている武装仏教勢力の影響力を廃して、国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先を自分に向けさせた上で、できるだけ派手に死亡する。

病死ではダメです。
側近に裏切られて、歯がみして死んだとでもしておかないと、武装仏教勢力は納得しない。

だとすれば、自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなきゃならない。
そしてその適任者は、織田軍団のなかで、光秀しかいません。
彼は由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく、朝廷や仏教界からも信任が厚い。

しかし光秀は、主君を討てば逆賊の汚名を着せられることになります。
ですから光秀も誰かに殺されたことにしなければなりません。
そしてその者が天下人になる。
これでみんなが納得する。

そして光秀を倒して天下を担う者は、「宗教仏教以上に人々に夢と希望を与えることができる人物」でなければなりません。
とすれば、百姓から身を起こした木下藤吉郎(秀吉)が、まさに適任です。
家柄なんてない、一介の百姓が、天下人になるのです。こんな痛快な夢物語は他にありません。
つまり、秀吉は、どんな宗教の現世利益のご利益よりも、現実の利益を象徴するのです。

しかし、秀吉の成長志向も、天下が治まり、戦乱がなくなれば、もはや人々に成長や出世の機会はなくなります。
ですから、この成長もどこかで終わらせなければならない。
そしてそのときこそ、本当の意味で、太平の世を築かなければならない。

けれど、百年の長きにわたり戦乱の渦に呑まれた日本で、本当の意味で治安と平和を回復し、これまでにない、まったく新しい新政権を発足させて絶対平和の世の中を築くためには、それができるだけの才覚を持った人物が必要です。

大将は貫禄があれば足りますが、具体的な国づくりには、能力がいります。
新しい国家のカタチを、まるっきり新規に築くのです。
並みの才覚では勤まりません。

このことは、いまの国会も同じです。
仮に日本国憲法を無効化して、まったく新しく、日本の古くからの歴史と伝統と文化に基づく新生日本を築くにしても、そうなったらなったで、次には細かな行政の仕組みづくりや、新たな国家体制構築のための組織、体制づくりをしなければならなりません。

現状に文句を言える人はたくさんいますが、現実に新しい体制の構築ができる人というのは、そうそう滅多やたらにいるものではありません。
信長の家臣団の中でも、その才覚をもった人物は、光秀だけです。
柴田勝家には全然無理ですし、秀吉にしても結局は朝廷の組織の中に組み込まれる以外に方法を持ちません。
家康は、最終的に江戸幕府を拓きますが、このときに新たな体制構築に手腕を発揮したのは、天海僧正です。
その天海僧正は、光秀もしくは光秀の息子といわれています。

光秀は、秀吉に負けて百姓の竹やりで殺されたということになっているけれど、本当にそうなのでしょうか。
光秀ほどの剛の者が、そうそうたやすく素人の百姓に殺されたりするでしょうか。
むしろ常識的に考えれば、光秀は「暗がりで百姓に殺害された」ということにして、身分と名前を捨て、どこかで生かして、光秀の才覚を活かすことを考えた方が、どうかんがえても合理的です。

実際、不思議なことに、ふつう逆臣の係累というのは、全員殺されるのが普通なのに、天下の大逆人であるはずの光秀の子供たちは、みんな生き残っているのです。

さらに不思議なことがあります。
家康が江戸幕府を開いたとき天海僧正は、新しい天下の枠組みだけでなく、行政機構の整備や徳川幕府の人事、寺社仏閣等のハード面のすべてにおいて、家康の名代としてこれを統括し、徳川300年の太平の時代を完全に築き上げました。
並みの才能ではありません。

ところが、これだけ重要な職務を遂行した天海僧正というのは、不思議なことに出自がまるでわかりません。
僧正というくらいですから、仏教徒としても相当な高位にのぼったひとのはずなのに、若い頃どこの寺で修行し、小さい頃にどんな逸話があったのかといった話が、まるでありません。
歴史上、突然「僧正」として登場し、家康の側近となり、江戸幕府の慣例、しきたり、江戸幕藩体制の仕組み作りから、日光東照宮のような文化施設まで、ことごとく作っているのです。

三代将軍徳川家光の「光」の字は、光秀の「光」、二代将軍徳川秀忠の「秀」は、光秀の「秀」から名前をもらったという説があります。
家光を育てた春日の局は、光秀の重臣の娘ですが、彼女がはじめて天海僧正に会ったとき、春日局が「お久しゅうございます」と言ったという話もあります。

天海僧正が作った日光東照宮の紋所は、なぜか光秀の家紋である桔梗です。
さらに日光には、なぜか「明智平」というところがあり、東照宮の陽明門には、なぜか桔梗紋を身に着けた武士の像が置いてあります。
それが誰の像なのかは誰もわからない。

もっというと、大阪の岸和田にある本徳寺には、光秀の位牌があるのだけれど、そこには、光秀が慶長4(1599)年に寺を開いたとされています。
これまた不思議なことです。
なぜなら、本能寺の変、山崎の戦いで光秀が死んだのは、天正10(1582)年だからです。
つまり、1582年に死んだはずの光秀が、その17年後に寺を建てたというのです。

その本徳寺には、光秀の肖像画も残されています。
その画には、「放下般舟三昧去」という文字があるのですが、これは、光秀が出家して僧になったという意味です。

もっというと、家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡(新潟)と、光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、籠(かご)の網目のような六角形ができあがります。

童謡の「かごめかごめ」は、

かごめかごめ
カゴの中の鳥は
いついつでやる
夜明けの晩に
鶴と亀が統べった(すべった)
うしろの正面だーれ

という歌詞ですが、「かごめ」は、地理上の大きな籠目を指します。
「カゴの中の鳥は」は、明智一族発祥の「土岐(とき氏)は」とも聞こえます。
家康と光秀を線でつないだ籠の目の中の土岐氏は、「いついつでやる」です。
そして「夜明けの晩に」は、日の出のときです。つまり「日の光」が射すとき。日光です。
その日光東照宮の屋根には、「鶴と亀」の像がある。
その「鶴と亀」が「統べた」統治する。

ここまでの意味をつなげると、「土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのか」となり、
「うしろの正面、だあれ」は、土岐から日光のほうを向いたときの地理上の後ろ側、つまり、大阪の岸和田で、そこには光秀の位牌と肖像画のある本徳寺があります。

つまり、「かごめかごめ」の童謡は、暗に天海僧正が光秀であることを謳った童謡であるというのです。
これまたおもしろい説です。

ただ、この話には明らかな無理があります。
なぜなら、天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて、それは到底無理です。

おそらくは、天海僧正は光秀の息子であったのでしょう。
光秀から、徹底的に薫陶を受け、新しい世の中作りのためだけを、幼いころから完璧に教え込まれた。
それが天海僧正であったのかもしれません。

そもそも光秀が本能寺で信長を討つ必然性が「信長に頭を扇子で叩かれた」というのでは、あまりに説得力がなさすぎです。
そしてこうした筋書きをみると、本能寺の変は、信長の発案で光秀が計画し、秀吉に噛んで含めた大芝居であったのではないかという説も、あながち笑って済ませれる話とも思えなくなります。

だからどうだってことはありません。
実際のところはわかりません。
すべては遠い歴史の闇の中です。

ただ、あたりまえのことですが、戦国の世に生きた多くの人たちの最大の願いは、おそらくは太平の世の中、戦のない世の中、そしてそのために必要なことは、シラス国日本を、いかにしたら取り戻すことができるかにあったのではないかということだと思うのです。

その理想の実現のためには、信長は自ら第六天の魔王と名乗って破戒王とならなければならなかったし、秀吉には一般に考えうる仏教的現世利益が児戯に思えるほどの大出世をさせる必要があったし、戦のない世の中を築くために、強大な武力と緻密な行政機構を作りあげた家康と光秀という三代の談合が必要だったのではないでしょうか。
そしてこの4人は、4人ともが深い信頼関係で結ばれていたのではないでしょうか。

伊勢神宮は、20年ごとに式年遷宮を行っていますが、国費で遷宮の費用が賄われなかった時代が、日本の歴史上、2つだけあります。
ひとつが国が荒れた戦国時代、もうひとつが日本国憲法下のいまの日本です。

日本はいま、本気で日本を取り戻そうと動き出しました。
けれどそのためには、迷惑な隣国との関係や、国内にいる在日や、反日宗教団体をどのようにして黙らせるかという大きな命題が、現実の問題として存在します。

日本が共産主義政権のような国、あるいはかつての李承晩韓国のような国であるなら、話は簡単です。
なぜ簡単かといえば、反日する連中を、ただ闇雲に殺すだけだからです。

けれどそういう道は、日本の取るべき道とはいえません。
ならば、かつて千年続いた武闘仏教を、革命した信長、光秀、秀吉、家康のような、ほんものの政治ができる体制を築かなければなりません。

そのヒントは、最初に信長が日本の3分の1を制したこと。
それは現代風にいえば、日本を大切に思う議員が、国会の3分の2を上回る議席を、衆参両院で確保することかもしれません。

さて、上の文章で、歴史的事実は「本能寺の変があった」ことです。
それ以外は、「解釈」とか「論」と呼ばれるものになります。
そして「解釈」や「論」は、ひとつのものの見方や考え方ですので、いろいろな見方が成り立ちます。
つまり、百人いれば百通りの「解釈」や「論」が成り立ちます。

いつも思うのですが、そもそも「百人いれば百通りの解釈や論が成り立つ」ものに対して、これが正しい、これが間違っているとわざわざ論評する人がいますが、私から見れば、そうした論評する人自体が間違いです。
そもそも、百人いれば百通りの解釈や論があるのに、自分の意見だけが正しくて、他は間違っていると言ったり書いたりしている時点で、程度の低さを露呈しています。

数学は、登山のようなもので、正解(頂上)はひとつです。
文系の解釈は、地面に掘る穴のようなもので、どこまで掘り下げたら正解(底)かなど、ありません。
大切なことは、深掘りしながら学ぶこと。
その学びが解釈であって、そこに正解、不正解はありません。
つまり文系はどんな答えを出しても正解なのですから、答えが自由なのです。
その自由であることを愛するのが文系の真骨頂といえるのかもしれないのだけれど、これを教条主義的に「かく解釈せねばならぬ」とするのは人間の傲慢というべきものではないかと思います。