20160529 高橋幸治の織田信長の最期
6月2日といえば、天正10(1582)年、いまから431年前に「本能寺の変」があった日です。
明智光秀の「敵は本能寺にあり!」は歴史に残る名台詞で、歴史をあまり好きではないといわれる現代人でも、この言葉は常識として定着しています。
この本能寺の変で織田信長が亡くなり、倒した明智光秀も秀吉に敗れて三日天下に終わります。
そして世は関白太政大臣豊臣秀吉の時代、そして関ヶ原を経て徳川幕府の時代へと移りました。
その本能寺の変について書いてみたいと思います。
明智光秀
本能寺の変で織田信長は亡くなったとされています。
ところが不思議なことに信長の遺体はあがっていません。
本能寺そのものは、事変のときに火災で焼け落ちました。
けれど木造家屋の火災では普通、遺体が残るはずです。
「ない」というのは、おかしな話です。
信長の遺体が発見されなかったのは、本能寺が京における信長の出先機関であり、地下に織田軍団の保有する火薬が大量に保管されていて、事変のときにこれが大爆発を起こしたからだ、という説もあります。
当日巨大な火柱が本能寺方面からあがったのを見た、という記録がある、というのがその論拠のようですが、どうもしっくりきません。
というのは、火薬が爆発したのなら、火柱もさりながら大音響を伴ったはずです。
火薬の大爆発の「音」は、落雷以上の大音響です。
この時代の武士は、戦に際して馬に乗っていますが、馬はものすごく音に敏感な生き物です。
そのような大音響が起きたのなら、攻めた光秀側の馬のみならず、京都中の馬たちにも大きな影響があったはずで、その「音」に関する記述がどこにもないというのは、これはおかしな話です。
むしろ、織田信長という偉大な人物の死に際して、「天上からの光を見た」といった話は、これはあってしかるべきで、それを火薬と結びつけるのは、いささか無理があるように思います。
そういう説なら、むしろ遺体はほぼ特定されたけれど、あまりに痛ましい焼死体であったために、あえて「燃え尽きて、なくなっていた」ことにしておいた、という解釈の方が、なんだかしっくりくるように思えます。
歴史を調べるときに、文献記録というのは、とても重要な史料です。
ただし、日本の、とりわけ武家社会というのは、いわゆる「タテマエ社会」で、実際にあったことよりも、タテマエとして「こうだったことにしておこう」ということが優先された、そういう社会であったということを十分に理解しておく必要があります。
西洋においては、文献は当時の模様を事細かに微に入り細にわたり描写するのが特徴です。
これは歴史史料に限らず、絵画や彫刻、文学なども同じで、油絵の具を何度も何度も重ね塗りして、できるだけリアルに仕上げようとする、あるいは小説であれば、風景描写などを事細かにしていく。
とりわけロシア文学などは、冒頭の風景描写だけで数ページ続くなんてことがよくあります。
それが彼らの文化です。
これに対し日本の古典は、史書も文学も絵画も芸能も、すべて引き算です。
できるだけ短い言葉にして、あとは読み手の想像力に委ねる。
これは、読み手、受け手の側に、一定の教養と知性を求めますが、その代わり想像力が刺激される分、言葉は短いけれど、より大きな情報を伝えます。
ですから日本では、そもそもそういう文自体に引き算という特徴があることに加え、武家の記録は常に「タテマエ」が優先するわけですから、単に書いてあるか書いてないかだけで当時あったじっさいの出来事がかならずしもその通りには書かれていないということが往々にしてあります。
戦後の日本の歴史学会は、唯物史観で、常に物証を求めますが、その姿勢は、歴史を恣意的に解釈するお隣の国のみっともない姿からすれば、とても冷静で大切なことではあるけれど、それだけでは日本の本当の歴史は見えてきません。
というよりも、歴史を調べることを生業とする歴史学者にとっては、歴史は史料の発掘や研究になるのであろうと思いますが、一般人である我々が歴史を学ぶ際にたいせつなことは、常々申上げているとおり、「そこから何を学ぶか」ということなのだろうと思います。
さて、では信長はどうなってしまったのでしょうか。
これについて、おもしろい見解があります。
信長は生きていた、というのです。
実は私は密かにこの説を支持しています。
生きて、どうなったかは不明です。
当時は東南アジア諸国との交流が活発でしたので、海外でのんびりと余勢を過ごされたのかもしれませんし、もしかすると、そうなろうとして、途中の海でシケに遭って亡くなられたかもしれない。
あるいは仏教に帰依して、僧侶となって余生を送ったかもしれません。
当時は、出家して坊さんになることは、現世における死を意味したからです。
本能寺の変の何年か後、ローマ法王庁に渡り、法王の側近になったという説があります。
それが地動説を支持して火刑に処されたジョルダーノ・ブルーノで、信長は「ジョルダーノ・ブルーノ」(Giordano Bruno)という名前の中に「Oda Nobunaga」という文字を散りばめて残したともいいます。
肖像画を見ると、両者はとてもよく似ています。
ジョルダーノ・ブルーノ(左)と織田信長(右)
ひとついえることは、太平の世を築くという目的のためには、そこで信長が死ぬことは、あまりにもタイミングが良すぎる、ということです。
本能寺の変は、信長が光秀に討たれたのではなくて、逆に信長が光秀に命じた、実は大芝居であったとする方が、実はかなり現実的なのです。
このお話は、その前提となる流れの話が必要です。
それは仏教の話です。
6世紀の仏教伝来以来、16世紀終わりごろの秀吉の「刀狩り」の時代まで、約千年間の長きにわたって、実は仏教勢力は、たいへんな武装政治勢力でした。
これはいまで言ったら、某巨大新興宗教団体が、独自に自衛隊、というより軍や兵器を持っているような者です。
その武装政治勢力が、年中、神輿を繰り出しては、朝廷を脅迫していたのです。
「平家物語」の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水(洪水)、双六の賽(サイコロ)、山法師(僧兵)」の3つは「天下三大不如意」でどうにも手がつけられないと嘆いたことが書かれています。
そもそも仏教が伝来したのは、6世紀の中頃のことです。
当時、朝鮮半島にあった百済(くだら)の聖明王が、日本の欽明天皇に金銅の釈迦如来像と経典,仏具などを献上しています。
ここで百済の聖明王が「王」という尊称になっていることには注意が必要です。
第29代欽明天皇には、天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)という諡(おくりな)がありますが、すでにこの時代には「おほきみ」という和語による尊称が使われています。
そして「おおきみ」は「王」よりも上位の存在です。
つまり、この時代の百済は、倭国の属国であったということが、こうした細かな点からもうかがい知ることができます。
さて最近では、「仏教も文字も朝鮮が日本に伝えたもので、それまでの日本は宗教も文字もないオクレタ未開の野蛮国だった。その日本が文化を教えてもらった恩義も忘れて朝鮮半島を侵略統治したのは、恩知らずのとんでもない暴挙だ」と主張する学者、ジャーナリスト、メディアがあり、また、韓国では実際に子供達にそのように国定教科書で教えていますが、これらは妄想もはなはだしい、お馬鹿な話です。
当時の朝鮮半島は、いまの北朝鮮のあたりが高句麗(こうくり)で、韓国のあるあたりは三韓時代といって、百済(くだら)、新羅(しらぎ)、任那(みまな)の三地域に分かれていました。
このうち任那は、日本そのもので、つまり朝鮮半島の南部の一部(かなり広大なエリアですが)は、倭国(わこく)すなわち日本です。
そして、百済は、東に新羅、北に高句麗という強国を抱え、自国の存続のために日本の庇護を受けている属国だったのです。
実際、百済は王子を毎回日本に人質に出しています。
そして王が逝去すると、日本にいた王子が帰国して、次の王になりました。
実際には、人質というより留学と呼ぶべきものであったであろうと私は思っていますが、日本と朝鮮双方の考古学史料がこうした事実を明らかに証明しているのに、デタラメな思い込みを教育しているというところに、現代韓国の病理があるし、それを真に受ける馬鹿な日本のメディアにもおおいに問題があります。
要するに、百済の王が日本に仏教の教典や仏像を献上したのは、国土防衛上の必要から、日本の庇護を受け、そのお礼のためにと献上したものです。
このときはじめて、日本に文字が伝えられたのだといいますが、日本ではすでに1世紀に金印が伝わっており、またこの頃の銅鏡にも、たいてい文字が掘られています。
少し考えたら、誰にでもわかることですが、そもそも金印(印鑑)は、文字文化がなければ無用の長物です。
そもそもこの金印の授与に際して、日本から「大夫(たゆう)」という肩書きの者が漢の皇帝を訪問したと漢の記録に書かれています。
つまり、そうした肩書きや役職、官位が制定されるだけの、しっかりとした行政組織が、すでに1世紀の時点で日本にはできあがっていたということです。
さらに百済からの仏教伝来よりもはるか以前に、日本では墨で文字の書かれた土器なども多数出土しています。
1〜3世紀には、すでに文字が広汎に普及していた日本に、6世紀になって「はじめて」漢字が伝わったというのは、あきらかに無理がある話でしかありません。
問題は、仏教や文字を伝えてもらったなどという「ありがたい話」ではなくて、平和を愛するはずの仏教が、我が国において、結果として巨大な武装集団であり、巨大な政治的圧力集団になってしまっていたことです。
別に仏教を否定するとか、そういう意味で書いているのではありません。
鑑真など、素晴らしい高僧や、素晴らしい教えがあったのは事実です。
しかしその一方で、仏教が世俗組織化し、武装勢力となっていたこともまた事実なのです。
仏教は、伝来からわずか42年で、推古天皇によって仏教興隆の詔が発せられました。
西暦594年のことです。
たった42年です。
たった42年で、天皇を動かすだけの政治力を持ってしまったのです。
どうしてこのようなことができたのでしょう。
日本にもともとある神道は、いまでこそ「交通安全祈願のお守り」なんてのを売ってたりしますが、もともとは現世利益を説いていません。
交通安全や安産、病気快癒、商売繁盛などを扱うようになったのは、神社とお寺の境界線が曖昧になった江戸時代以降のことで、もともと神道にあるのは浄化と感謝です。
ですから、たとえば「あの人と結ばれたい」と思っても、神道なら、「それならお祓いしてあげましょう」というだけで、結ばれるかどうかは、あなたの精進努力次第ですとなります。
ところが後発の渡来仏教は、現世利益です。
信じれば病気が治る、怪我をしない、暮らしが豊かになる、恋が叶う。
その大がかりなものが、加持祈祷です。
よくよく考えてみれば、1億の民それぞれが、みんな自分の願いが叶ったら、世の中はたいへんなことになります。
たとえば今日は晴れてほしいという願いの人もいれば、今日こそ雨が降ってくれないと困る人もいる。
誰もが学校で成績一番をとりたいと願っても、生徒全員が一番になるのは無理ですし、絶対に病気や怪我をしてほしくないという願いが全員叶ったら、医者も看護師さんも失業しなきゃならない。
けれど、そうはいっても、目の前で子供が大怪我をしたり病気になれば、ワラをもつかみたくなるのが庶民感情です。
いくら払ったら願い事が叶うと聞けば、おカネも払うし、それで願いが叶わなければ、信心が足りない、お布施が足りないとなって、ますます寄進を行う。
結果として渡来仏教は、全国から集めた寄進で大繁盛し、莫大な経済力を身に付けます。
そしてその莫大な経済力を背景に、豪華絢爛な仏閣を建て、政治にも大きな力を持ちます。
ちなみに富というのは、古代においては、食い物とイコールです。
そして人間は、その食い物の生産高以上には人口は増えません。
ということは、ごく一部の者、つまり渡来仏教集団が、それだけの大きな経済力を持ったということは、日本全国でみれば、もともと民衆の間に均等だった富が、一部の者に偏在した、つまり一部の者が富むことによって、他の多くの民は、極貧生活を余儀なくされるという結果を招いたわけです。
普通なら、これで人口が激減します。
そこだけみたら、何のための宗教なんだということになってしまうのですが、実際、異文明との衝突というのは、どちらかの文明が滅び、この世から消滅するところまで行ってしまうというのが、世界史です。
つまり、仏教伝来によって、古来からある日本の文化も、日本人も、もしかしたらほろんでなくなってしまったかもしれないのです。
ところが日本はそうなりませんでした。
なぜかといえば、生活に苦しくなった民衆が、努力して新田の開墾を始めたのです。
つまり、富が偏在した分、日本人は新たな富を生み出すべく、努力を重ねたわけです。
そうしてできた新田の地主たちが、後年、みんなで力を合わせて、自警団を組み、それが武士団となって、時代がまた新たな時代へとシフトしたわけです。
ここ、大事なポイントです。
仏教勢力が手中におさめたのは、経済力と政治力だけではありません。
仏閣内に多勢の「僧兵」を養うようになりました。
つまり、仏教寺院が軍事組織化したのです。
これは国家の一大事です。
いまで言ったら、パチンコ業界が自衛隊並みの武装をしたみたいなものだからです。
ちなみに「僧兵」という言葉は、事実上「僧兵」が武装軍団ではなくなってから、つまり江戸時代になってから付けられた名前です。
もともとの呼び名は「法師武者」とか「僧衆」です。
隠語では「悪僧」といいました。
この場合の「悪」というのは、「強い人」という意味で、現代風の「悪者」とは意味語感が違います。
有名なところでは、武蔵坊弁慶がいます。
「悪僧」たちは、完全な軍事組織で、鎧も着れば兜もつける。
手には大薙刀、腰には刀、背中には矢を背負い、日々鍛錬して強大な軍事力を持ちました。
宮本武蔵と対決した、槍の宝蔵院流というのも、悪僧たちの槍の流派です。
そして「悪僧」たちは、なにか政治問題があると・・・それはたとえば、もともと貴族の荘園だったところを、仏教寺院の荘園として付け替えることに、政府が難色を示したりする等・・・多勢で都に押し掛け、強訴に及びました。
なにせ推古天皇に「仏教興隆の詔」をいただいているし、聖徳太子からは「厚く三宝を敬え」と、憲法で保護されていたのです。
ですから彼らは、神輿を担いで、武装して朝廷に出張り、大声をあげて要求が通るまで騒ぎ通しました。
おかげで奈良県の大和地方にあった朝廷は、転々とした挙げ句、ついには泣く泣く794年に京都の平安京にまで引越ています。
大和朝廷が、大和から引っ越したのです。
どれだけ仏教界の政治的軍事的経済的圧力が困ったものだったか、ということです。
「悪僧」たちが仏教を信仰することは責められる話ではありません。
彼らが莫大な経済力をもったとしても、その分、みんなで努力して新田を切り拓いていけば、みんなが死なずに食べてくことはできます。
ただ、武装だけは困る。
もちろん、武装した「悪僧軍団」を武力で征圧することは、不可能なことではありません。
けれど、その場合、大きな問題が残ります。
それが禍根です。
イスラムのゲリラを殺せば、彼らはジハード(聖戦)として、殺した側に復讐を近い、どこまででも追って来る。
それは「世が乱れる」ということです。
そして、実は、この「悪僧軍団」を叩き潰したのが、信長だったということができます。
もっとも武装宗教団体に対する討伐は、過去にも何度かありました。
足利幕府の三代将軍足利義教の比叡山延暦寺への大討伐なども有名な話です。
けれど足利義教も含め、仏教渡来以来千年間、誰も「悪僧軍団」の首に鈴をつけることができなかったのです。
信長は、これをやったわけです。
信長は天下の3分の1を手に入れました。
これは圧倒的な軍事力です。
その力をもって、武装宗教勢力である比叡山延暦寺、一向宗の本部である本願寺を攻め、僧兵たちを武装解除させたのです。
ただし、そのおかげで、比叡山も本願寺も表面上おとなしくはなったかわりに、信長は僧を殺した破戒の「第六天魔王」と言われ、罵られるようになりました。
「第六天魔王」というのは、魔王の中の最大かつ最強の魔王です。
信長は天下をほぼ統一し、武装宗教勢力まで退治しました。
けれど、そのおかげで宗教的信仰心に裏付けられたゲリラに、こんどは内部から、常に命と政権転覆を狙われるようになったわけです。
圧倒的な軍事力で全国の大名たちを従え、武力を織田政権下の管理下に完全においたはずなのに、今度は、誰ともつかない織田政権の内部にいる宗教勢力から、織田政権の転覆と、信長の命が狙われるようになることになります。
もしそれで信長が宗教人の手によって殺されれば、時代はまたもとの「悪僧軍団」の時代に戻ってしまいます。
それでは、なんのために本願寺や比叡山を攻めたのかわかりません。
そもそも天下三分の一の武力を持ったのも、比叡山や本願寺を責めたのも、すべては世に太平をもたらすためです。
戦国の世で誰が一番困るか。
民百姓です。
なんとしても、武力で争う時代を終わらせなければならない。
そのためには、最強の、誰も勝てない武力を持たなければならない。
武力に反対だから武力を持たないなどと、昨今の日本ではしたり顔をしていう人が多勢いますが、現実にはそういう人々は武力をまともに行使されたら、死ぬだけです。
武には武を。
それが信長の言う「天下布武」です。
そういう流れをみてみると、もしかすると「第六天の魔王」というイメージも、信長自身が流布させたものかもしれないと思えてきます。
なぜかというと、延暦寺や本願寺を滅ぼした信長は、織田軍団として宗教側の恨みを引き受けるのではなく、あくまで信長ひとりが悪の破戒者、第六天の魔王となれば、宗教ゲリラの狙いは、信長ひとりだけに絞られるからです。
そうしておいて、信長が誰かに殺されたら、武装宗教ゲリラたちは、その攻めの矛先を失い、とりあえずは沈黙をせざるを得なくります。
戦乱の世に終止符を打ち、太平の世を築く。
それが当時の最大の政治課題であり、政治目標です。
けれど、ゲリラ戦、宗教戦争になれば、国は混乱し、戦乱はいつまでも続きます。
ならば、悪の大魔王をひとりにすべてをなすりつけ、そのうえでその大魔王が死ぬ。
宗教勢力は戦いの矛先を失い、その上で平和のための刀狩りをして、一般庶民から仏教寺院にいたるまで、すべての武装を取り上げる。
武力を、武家だけの専売特許にする。
そうすれば、宗教戦争は起きず、仮に起きてもすぐに鎮圧できる。
戦国大名たちは、いわば軍閥です。
ですから、より強大な軍事力をコチラが持てば、黙って調伏できます。
しかし仏教勢力は、たとえコチラ側がどんなに強大な武力をもってしても、彼らは信仰によって戦いを挑んできます。
これはやっかいです。
といって、宗教人を皆殺しにすることはできません。
家臣団の中にも、信仰に厚い人はたくさんいるからです。
国内に根付いている武装仏教勢力の影響力を廃して、国内に治安と平安をもたらすためには、討伐を行った信長自身が自称「第六天の魔王」となり、すべての非難の矛先を自分に向けさせた上で、できるだけ派手に死亡する。
病死ではダメです。
側近に裏切られて、歯がみして死んだとでもしておかないと、武装仏教勢力は納得しない。
だとすれば、自分ができるだけ派手な演出で裏切られて死亡するという事態を、誰かにやらせなきゃならない。
そしてその適任者は、織田軍団のなかで、光秀しかいません。
彼は由緒ある家柄の出で、歴史や伝統に詳しく、朝廷や仏教界からも信任が厚い。
しかし光秀は、主君を討てば逆賊の汚名を着せられることになります。
ですから光秀も誰かに殺されたことにしなければなりません。
そしてその者が天下人になる。
これでみんなが納得する。
そして光秀を倒して天下を担う者は、「宗教仏教以上に人々に夢と希望を与えることができる人物」でなければなりません。
とすれば、百姓から身を起こした木下藤吉郎(秀吉)が、まさに適任です。
家柄なんてない、一介の百姓が、天下人になるのです。こんな痛快な夢物語は他にありません。
つまり、秀吉は、どんな宗教の現世利益のご利益よりも、現実の利益を象徴するのです。
しかし、秀吉の成長志向も、天下が治まり、戦乱がなくなれば、もはや人々に成長や出世の機会はなくなります。
ですから、この成長もどこかで終わらせなければならない。
そしてそのときこそ、本当の意味で、太平の世を築かなければならない。
けれど、百年の長きにわたり戦乱の渦に呑まれた日本で、本当の意味で治安と平和を回復し、これまでにない、まったく新しい新政権を発足させて絶対平和の世の中を築くためには、それができるだけの才覚を持った人物が必要です。
大将は貫禄があれば足りますが、具体的な国づくりには、能力がいります。
新しい国家のカタチを、まるっきり新規に築くのです。
並みの才覚では勤まりません。
このことは、いまの国会も同じです。
仮に日本国憲法を無効化して、まったく新しく、日本の古くからの歴史と伝統と文化に基づく新生日本を築くにしても、そうなったらなったで、次には細かな行政の仕組みづくりや、新たな国家体制構築のための組織、体制づくりをしなければならなりません。
現状に文句を言える人はたくさんいますが、現実に新しい体制の構築ができる人というのは、そうそう滅多やたらにいるものではありません。
信長の家臣団の中でも、その才覚をもった人物は、光秀だけです。
柴田勝家には全然無理ですし、秀吉にしても結局は朝廷の組織の中に組み込まれる以外に方法を持ちません。
家康は、最終的に江戸幕府を拓きますが、このときに新たな体制構築に手腕を発揮したのは、天海僧正です。
その天海僧正は、光秀もしくは光秀の息子といわれています。
光秀は、秀吉に負けて百姓の竹やりで殺されたということになっているけれど、本当にそうなのでしょうか。
光秀ほどの剛の者が、そうそうたやすく素人の百姓に殺されたりするでしょうか。
むしろ常識的に考えれば、光秀は「暗がりで百姓に殺害された」ということにして、身分と名前を捨て、どこかで生かして、光秀の才覚を活かすことを考えた方が、どうかんがえても合理的です。
実際、不思議なことに、ふつう逆臣の係累というのは、全員殺されるのが普通なのに、天下の大逆人であるはずの光秀の子供たちは、みんな生き残っているのです。
さらに不思議なことがあります。
家康が江戸幕府を開いたとき天海僧正は、新しい天下の枠組みだけでなく、行政機構の整備や徳川幕府の人事、寺社仏閣等のハード面のすべてにおいて、家康の名代としてこれを統括し、徳川300年の太平の時代を完全に築き上げました。
並みの才能ではありません。
ところが、これだけ重要な職務を遂行した天海僧正というのは、不思議なことに出自がまるでわかりません。
僧正というくらいですから、仏教徒としても相当な高位にのぼったひとのはずなのに、若い頃どこの寺で修行し、小さい頃にどんな逸話があったのかといった話が、まるでありません。
歴史上、突然「僧正」として登場し、家康の側近となり、江戸幕府の慣例、しきたり、江戸幕藩体制の仕組み作りから、日光東照宮のような文化施設まで、ことごとく作っているのです。
三代将軍徳川家光の「光」の字は、光秀の「光」、二代将軍徳川秀忠の「秀」は、光秀の「秀」から名前をもらったという説があります。
家光を育てた春日の局は、光秀の重臣の娘ですが、彼女がはじめて天海僧正に会ったとき、春日局が「お久しゅうございます」と言ったという話もあります。
天海僧正が作った日光東照宮の紋所は、なぜか光秀の家紋である桔梗です。
さらに日光には、なぜか「明智平」というところがあり、東照宮の陽明門には、なぜか桔梗紋を身に着けた武士の像が置いてあります。
それが誰の像なのかは誰もわからない。
もっというと、大阪の岸和田にある本徳寺には、光秀の位牌があるのだけれど、そこには、光秀が慶長4(1599)年に寺を開いたとされています。
これまた不思議なことです。
なぜなら、本能寺の変、山崎の戦いで光秀が死んだのは、天正10(1582)年だからです。
つまり、1582年に死んだはずの光秀が、その17年後に寺を建てたというのです。
その本徳寺には、光秀の肖像画も残されています。
その画には、「放下般舟三昧去」という文字があるのですが、これは、光秀が出家して僧になったという意味です。
もっというと、家康ゆかりの地の江戸(東京)、駿府(静岡)、日光(栃木)、佐渡(新潟)と、光秀ゆかりの地(美濃源氏発祥地)の土岐(岐阜)、明智神社(福井)を線でつなげると、籠(かご)の網目のような六角形ができあがります。
童謡の「かごめかごめ」は、
かごめかごめ
カゴの中の鳥は
いついつでやる
夜明けの晩に
鶴と亀が統べった(すべった)
うしろの正面だーれ
という歌詞ですが、「かごめ」は、地理上の大きな籠目を指します。
「カゴの中の鳥は」は、明智一族発祥の「土岐(とき氏)は」とも聞こえます。
家康と光秀を線でつないだ籠の目の中の土岐氏は、「いついつでやる」です。
そして「夜明けの晩に」は、日の出のときです。つまり「日の光」が射すとき。日光です。
その日光東照宮の屋根には、「鶴と亀」の像がある。
その「鶴と亀」が「統べた」統治する。
ここまでの意味をつなげると、「土岐出身の光秀はいつ日光東照宮に姿をあらわすのか」となり、
「うしろの正面、だあれ」は、土岐から日光のほうを向いたときの地理上の後ろ側、つまり、大阪の岸和田で、そこには光秀の位牌と肖像画のある本徳寺があります。
つまり、「かごめかごめ」の童謡は、暗に天海僧正が光秀であることを謳った童謡であるというのです。
これまたおもしろい説です。
ただ、この話には明らかな無理があります。
なぜなら、天海が光秀であるとすると、116歳(記録では108歳)で没したことになり、当時の平均寿命からみて、それは到底無理です。
おそらくは、天海僧正は光秀の息子であったのでしょう。
光秀から、徹底的に薫陶を受け、新しい世の中作りのためだけを、幼いころから完璧に教え込まれた。
それが天海僧正であったのかもしれません。
そもそも光秀が本能寺で信長を討つ必然性が「信長に頭を扇子で叩かれた」というのでは、あまりに説得力がなさすぎです。
そしてこうした筋書きをみると、本能寺の変は、信長の発案で光秀が計画し、秀吉に噛んで含めた大芝居であったのではないかという説も、あながち笑って済ませれる話とも思えなくなります。
だからどうだってことはありません。
実際のところはわかりません。
すべては遠い歴史の闇の中です。
ただ、あたりまえのことですが、戦国の世に生きた多くの人たちの最大の願いは、おそらくは太平の世の中、戦のない世の中、そしてそのために必要なことは、シラス国日本を、いかにしたら取り戻すことができるかにあったのではないかということだと思うのです。
その理想の実現のためには、信長は自ら第六天の魔王と名乗って破戒王とならなければならなかったし、秀吉には一般に考えうる仏教的現世利益が児戯に思えるほどの大出世をさせる必要があったし、戦のない世の中を築くために、強大な武力と緻密な行政機構を作りあげた家康と光秀という三代の談合が必要だったのではないでしょうか。
そしてこの4人は、4人ともが深い信頼関係で結ばれていたのではないでしょうか。
伊勢神宮は、20年ごとに式年遷宮を行っていますが、国費で遷宮の費用が賄われなかった時代が、日本の歴史上、2つだけあります。
ひとつが国が荒れた戦国時代、もうひとつが日本国憲法下のいまの日本です。
日本はいま、本気で日本を取り戻そうと動き出しました。
けれどそのためには、迷惑な隣国との関係や、国内にいる在日や、反日宗教団体をどのようにして黙らせるかという大きな命題が、現実の問題として存在します。
日本が共産主義政権のような国、あるいはかつての李承晩韓国のような国であるなら、話は簡単です。
なぜ簡単かといえば、反日する連中を、ただ闇雲に殺すだけだからです。
けれどそういう道は、日本の取るべき道とはいえません。
ならば、かつて千年続いた武闘仏教を、革命した信長、光秀、秀吉、家康のような、ほんものの政治ができる体制を築かなければなりません。
そのヒントは、最初に信長が日本の3分の1を制したこと。
それは現代風にいえば、日本を大切に思う議員が、国会の3分の2を上回る議席を、衆参両院で確保することかもしれません。
さて、上の文章で、歴史的事実は「本能寺の変があった」ことです。
それ以外は、「解釈」とか「論」と呼ばれるものになります。
そして「解釈」や「論」は、ひとつのものの見方や考え方ですので、いろいろな見方が成り立ちます。
つまり、百人いれば百通りの「解釈」や「論」が成り立ちます。
いつも思うのですが、そもそも「百人いれば百通りの解釈や論が成り立つ」ものに対して、これが正しい、これが間違っているとわざわざ論評する人がいますが、私から見れば、そうした論評する人自体が間違いです。
そもそも、百人いれば百通りの解釈や論があるのに、自分の意見だけが正しくて、他は間違っていると言ったり書いたりしている時点で、程度の低さを露呈しています。
数学は、登山のようなもので、正解(頂上)はひとつです。
文系の解釈は、地面に掘る穴のようなもので、どこまで掘り下げたら正解(底)かなど、ありません。
大切なことは、深掘りしながら学ぶこと。
その学びが解釈であって、そこに正解、不正解はありません。
つまり文系はどんな答えを出しても正解なのですから、答えが自由なのです。
その自由であることを愛するのが文系の真骨頂といえるのかもしれないのだけれど、これを教条主義的に「かく解釈せねばならぬ」とするのは人間の傲慢というべきものではないかと思います。